見出し画像

歌に満ちた世界で、耳を塞いで生きる意味

 世の中のマイノリティー側の人間にとって、自らがマイノリティーに立っているという意思表明は比較的勇気がいることである。
 昨今の社会の風潮を見ると、比較的声を上げやすくなってきたかなとは思うけど、よく見るのはジェンダー問題であり、ジェンダー問題そのものはマイノリティー迫害問題の中ではマジョリティー側の問題、つまり悩んでいるひとがそこそこいるということだ。
 一番のマイノリティーというのは、それそのものがあまりに少数派すぎて、人間社会において露見すらしないものなんじゃないかという仮説を、このnoteの前置きにしよう。
 当然だが、人数の大小で問題の重大性が図られるものではない。ここではマイノリティーについて語るのだから、そんな乱暴な結論を出したりはしない。
 ここでは私の「マイノリティー」を意思表明してみようと思う。
 三十余年生きてきてほとんど同じ意見の人を聞いたことがないことから、これを暫定的にマイノリティーと定義しているが、もしかしたら共感の嵐かもしれない。

 歌を言うものを雑に因数分解すると、声と曲に分けられる。別の分け方をすれば、歌詞と旋律にわけられる。
 声を音色に変換し楽しむという発明は、人間にのみ与えられたギフトだ。
 歌がなくても人は生きていけるが、歌が人の営みに対して好影響を与えた事例など、いくつもあるのだろう。
 この世の中は、歌に満ちている。

 けれど私は歌があまり好きではない。CMやYouTubeでキャッチーなメロディーがあれば真似て口ずさむことはあるし、アニソンを聞けば、アニメの一部として楽しむことが出来る。しかし本質的には歌というものにアレルギーを持っている。
 歌が好きでない理由は後述するが、それより前に言っておかねばならないのは、歌というものを否定するつもりはないし、歌が好きな人を否定するつもりもない。むしろリスペクトしている。
 これはシンプルに観測地点によって区別できる。私がこれから話すものは「第一人称」つまり私と歌との関係性のみについての言及だ。

歌詞に対する理解へのハードル

 歌が流れているときに、何に対する歌なのか、歌詞を聞き取ろうとしても理解ができない。それは歌詞が隠喩的ということでもなく、イマドキ風ということでもない。
 歌が音としてしか理解できず、言語として解釈できない。逆に歌詞だけテキストで見ても、音が理解の邪魔をしてテキストを読めない。アニソンをアニメの一部として楽しめるのは、アニソンを歌として捉えているのではなくてアニメの一部として聞いているからだ。当然歌の一つ一つを切り取って、これは何を歌った歌か?と聞かれると、途端にわからなくなってしまう。
 冒頭で言ったように、歌は歌詞と旋律に因数分解出来るが、私にはそれが分解できない。

感情移入に関するハードル

 これは歌に限らず音楽全般について言えるので、今回の本質的な話題からはいささかズレるかもしれない。
 歌を聞いて、「これは明るい歌」「これは悲しい歌」というのがわからない。上述の歌詞に対する理解困難を差っ引いても、音階を聞いて形容詞を当てはめることが出来ない。

 人はなぜ、音符の連なりをBPMにしたがって積み上げたものに対して、感情移入しているのだろうか。

 単純比較できないのを承知で別の視点を提示するが、人は絵画を見て感情移入できる。あれを同じように雑に解釈してしまえば、紙の上に絵の具を重ねたものだ。人はなぜだかよくわからないが色合いと輪郭によって形成されるものに対して感情移入する。
 しかしこれは私もなんとなく理解ができるのだ。色から感情を理解できるし、描かれた風景や人の表情から感情移入することが出来る。
 恣意的に比較してしまったような気もするが、この両者の差は視覚と聴覚の認知の違いであって、おそらく私は聴覚から認知するということが決定的に不得手なのだろう。

歌うことに関するハードル

 人はカラオケを娯楽として楽しんでいる。"Karaoke" というワードで海外でも親しまれているほど、人は歌うことが好きなようだ。
 20代の頃までは、私も人付き合いでカラオケに行った。若い頃は自分の特性に対して深く考えることもなかったし、単にワイワイするのが楽しかった一面もあったので、カラオケというものも楽しめていた気がする。
 私は歌うということにそれほど楽しいという感情を持てていない。自分がそれほど音痴だとは思わないのだが、1曲あたり3分から6分程度の時間のなかで、ひたすら自分の声を音階に乗せることに集中するばかりで、歌っている途中「あれ、なんでこんなことをしているんだろう?」と自問してしまう。
 ここからはほとんどカラオケ特有の問題だが、歌うことに対する違和感に周囲からの目線を加味し始めると、もはや苦痛だ。いかに盛り上げるか、いかにストレスのない3分を提供するか、こんなことばかり考えている。
 心を無にして歌っているときだけが休めるときで、自分が曲を選ぶ番になると心が落ち込む。歌える曲も少ないが、歌いたい曲と言われると悩んでしまうし、歌って盛り上がれる曲となると、さらに数は減る。
 これをハッキリ言葉にしたことはないが、流石に顔や態度に出ていたのだろうか、いつの頃からか妻は私をカラオケに誘わなくなった。妻は私と対照的で歌うのが好きなので、こればかりは申し訳ないという気持ちだ。その後ろめたさが歌うことに関するハードルをより一層高くしていく。

特性を言語化し認知した上で考えること

 「歌 苦手」などでググると、音痴な人が克服するためのメソッドがたくさん出てくるが、私のように認知に対して言及しているものは意外とない。
 もしかしたら、私が感じているハードルを他の人も感じているが、その上で「歌が好きになりたい、うまくなりたい」と願ったのかもしれない。
 私は今更この特性をマジョリティー側に変化させたいわけではない。
 歌が好きで、歌に心を揺さぶられ、歌うことに楽しみを感じる人達に、ここまでの文章は意味不明だったに違いないが、1000人のうち1人くらいは理解して共感してくれるかもしれない。
 まぁ1000UUもこのnoteに来ないので、ここまで全て独り言なのだが。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?