考えごと(2023.11.26)
今日は本当に何のやる気も出ず、昼過ぎに起き、起きてからもほとんど布団にくるまってYouTubeをみるなどしていた。17時ごろ、急に「最近『土偶を読む』の著者はどうしてるかな~」と気になり、SNSや公式サイトなどをチェックする。なぜだかわからないが7月を境に更新が止まっている。「竹倉史人」でTwitter検索してみると、数か月前に三橋貴明の歴史講座的なものに登場していたことを知る。ここで考えが少し膨らんだ。
以前から、竹倉の『土偶を読む』については、岡本太郎まで遡って考えてたほうがいいと思っている。竹倉は人類学者を名乗っている。岡本もかつてフランスで人類学者のマルセル・モースに学んでいた。そして何より、縄文を評価する議論の源流には岡本の「縄文土器論」がある。
『土偶を読む』に岡本太郎の名前は出ていなかった気がするが、影響はあるだろう(例えば縄文人の脳を自分にインストールして考えるんや、みたいなスタンスとか似ている気がする)。竹倉は『土偶を読む』冒頭の専門知批判の議論において、引用や註もなしに西垣通の議論をほぼパクっていたから、名前が明示的に示されないのは何ら不思議ではない。
ともかく、そんな竹倉が三橋と関わりを持った。「ついにネトウヨに堕ちたぞ」的な揶揄をする引用リツイートを見かけたが、そこまで言うかはさておき、ざっくり言えば右派である三橋と竹倉がコラボしたのはとても象徴的なことに思えた。
そもそも、岡本が縄文を持ち出したのは「日本の伝統」を相対化するためだった。直接・間接の影響関係について調べているわけではないので、あくまでざっくりの話だが、その後の縄文論者も弥生≒ヤマト≒日本と対比させつつ、縄文によって日本を相対化することが多かった気がする。具体的には梅原猛とか赤坂憲雄とかが思い浮かぶ。私はこのタイプの論者を「縄文左派」と勝手に呼んでいる。
近年起きているのは、こうした「縄文左派」に対する「縄文右派」による巻き返し、あるいはその戦略の横領であろう。つまり縄文により日本を相対化するどころかむしろその優秀性や正統性などを喧伝するといった議論の隆盛である。先日の外務省による縄文ツイートは、こうした流れの延長線上にあり、「縄文右派」の巻き返しが一定程度以上に成功・浸透していることの現われなのではないかと思った。
縄文と弥生は、狩猟採集と農耕(とりわけ稲作)という対比で語られる。弥生時代になると稲作が伝わって階級が生まれ、権力が生まれ、争いが生まれ……といったような、おなじみのお話が語られる。それゆえに弥生以前の縄文は色々な可能性を秘めたものとして評価される。しかしこうした構図で論じている限り、「右派」による巻き返し・横領は構造的に繰り返し行われ続ける気がする。また、日本がすごいという話のほうが気持ちいいに決まっているので、たいてい「右派」が最後は勝つだろう。
ここで起きていることは、岡本太郎の万博での「抵抗」が結局上手くいってない問題と通じているのだろう。そして岡本太郎を今取り上げる価値があるとするならば、その「負けっぷり」から何を学ぶのかという一点にあるのではないか。そのうえで、話を縄文に戻すならば、縄文から弥生への単線的な移行のストーリーに取り込まれず、そこに存在した様々な営みのありようを、現在の考古学の成果からもっと学んでいく必要があるのだろう。このことは、以前読んだ『土偶を読む』の批判本『土偶を読むを読む』と、最近読んだデイヴィッド・グレーバーとデイヴィッド・ウェングロウの『万物の黎明』から学んだ。
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