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ほんとうにさいわいな行為(詩)

1
僕たちの行為には目的があったりする。
例えば、「食べる為に料理する」「エネルギーを得る為に食べる」「回復する為に寝る」「モテる為にオシャレする」「偉くなる為に勉強する」「子孫を残す為にむつばれる」とか…大人の人はみんなこんな風に教えてくれた。

でも僕がほんとうにさいわいだなと思う行為は、自己目的化してしまった行為だ。
例えば、料理する為に料理するし、食べる為に食べるし、寝る為に寝る。誰の為でもなくオシャレの為にオシャレするし、勉強する為に勉強するし、むつばれる為にむつばれる。大人の人はこんな風には教えてくれなかった。

もっと言うと僕たちは、何かの為に、幸せになる為に、あるいは天上に行く為に生きているのじゃあない。生きる為に生きている。生きると同時に生きてしまったのだ。

2
アリストテレス哲学では、行為は2つに分類されたりする。
一つは運動、もう一つは現実態。
運動を「歩く」に即して説明するなら、歩くことは「ある地点からある地点(目的地)へ」歩くことである。そして目的地に到達すると、歩くと言う運動は終止する。
現実態を「花を見る」に即して説明するなら、花を見ることは、見ること以外の目的を持たない。見ると言う行為はそれ自体が目的である。

3
でもそんな簡単に分類できるんだろうか。僕は普段駅まで行くのに自転車を使わず、歩いてみたりする。歩きたいから、歩く為に歩いたりする。いや、そのほかに寄り道してみたりもする。
確かに、目的の成分も入ってたりするけど、それはその行為の全てじゃあない。
僕たちの営為に目的を見出して、全部をわかった様になってる大人が居るけれど。あんまりにも可哀想だ。僕らはロボットじゃあないし、そんな合理的に理解されるものでもない。

4
ほんとうにさいわいな行為の向かう先は「生きる為に生きる」と言うことに収束しているんじゃないかと思う。
僕たちにはその為の道具が必要だ。道具ってのは目的の為の“道具”じゃないかと思うかもしれないが、矛盾する話じゃあない。一つ一つの行為は自律している様で全ては関係の中にある。
料理する為に料理すると言う行為は自律している様で、その前の買い物の為の買い物や食べる為に食べるという行為と連結しているから。
だから道具自体も自立している、道具の為の道具だけれども関係の中で、僕たちを手伝ってくれたりする。
その道具は「表現」だと思った。

5
表現する為に表現する。絵を描く為に絵を描く。詩歌の為に詩歌する。彫刻のために彫刻する。芸術のために芸術する。建築のために建築する。
これらの行為たちあるいはその成果物は、簡単に僕たちを生きる為に生きさせてくれる。
絵の為の絵、音楽の為の音楽、これらが生の実態を伴っているのはもう自明のことなんじゃないかと思う。

6
僕が次に発明したい道具は、空間する為の空間だったりする。

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