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ひとの写真を撮るということ、そのひとを残すということ。

 写真をはじめてから僕は"ひとの写真"を撮り続けてきた。この約2年間でシャッターを切った数は5万を越えた。そんな時間を過ごす中で、自分自身の写真はといえばきっと50枚もない。それは自分を大切にしていなかったわけではないけれど、どこか後回しになってしまっていた。ずっと変わらず使っていたプロフィール写真に関しても「ちょっと撮って」とお願いして数枚撮ってもらった中の一枚。あのときの僕がそこにいることは事実だけれど、
『なにか違うよな』
 そう思ってきた。

 笠置町での写真家としての活動がちょうど1年を迎ようとしていたタイミングで、身の回りのものを一新したいという意識が芽生えてきていた。

 カメラ。アクセサリー。財布や、香水。
 そして、写真。

 撮ってもらいたい。
 そう思った。

 撮って欲しいと思うひとは僕のなかで決まっていた。僕の人生を変えてくれた写真家、藤里一郎先生だ。

 人生で初めて訪れた写真展「23」で写真に対する価値観が変わった。漠然と捉えていた"写真とは"を考えるキッカケを与えられた。そして、その数カ月後に僕はその答えを求めるままに京都は笠置町への移住を決めた。
 そして、僕はいま写真家として生きている。いまも"写真とは"を模索しながら。

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 撮影を依頼してから撮影当日までの間、僕は少なからず緊張していた。お世話になっている恩師に撮ってもらうということはもちろんだが、「服は何を着よう」「髪型はどうしよう」「肌荒れしたらどうしよう」など、小さな不安がチクチクと心を刺す。しまいには「天気は大丈夫かな」なんて、悩んだところで解決しないことにまで心配は及んだ。いままで写真を撮らせていただいた方々やモデルさんに対して尊敬の念すら浮かぶ。いつでも準備オッケーって本当にすごいことだな、と。

 そんな心労は他所に、当たり前のようにその時は訪れた。天候は曇り。雨が降っていないだけラッキーだと言わんばかりの雨と雨に挟まれたようなどんよりとした気候だった。それでも、髪型を前日に整えて、お気に入りのシャツを着て、勇気をもらえる香りを身に纏って。僕は『先生に任せれば、きっと大丈夫』と腹を括った。

 待ち合わせ時間を前に「とりあえず、飯食おう」と連絡がきた。雨はなんとか持ち堪えているけれど、少し不安な天気に僕はいささか不安になったけれど、待ち合わせ場所に現れた先生の笑顔によってあっという間に霧消した。おすすめの中華料理屋でチャーハンを食べているときに「曇ってるね、どこで撮ろうか」と、天気の話題にはなったが、ネガティブな空気は全くない。こんな風にどんな環境も受け入れて『そのときにしか撮れない写真を撮ればいいんだよ』という姿勢こそが、まさに先生に初めて出逢った日に僕が学んだことだった。改めて、その感覚を間近で感じることができて、なんだか心強かった。会計を終えて、先生の事務所でしばらく雑談してから、僕たちは撮影に向かった。

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 どんなに腹を括ったとは言っても、初めての経験はいつだって不安だ。「ここで撮ろう」と言われた最初のカットはやっぱりなんだか恥ずかしかった。写真を撮られるってこういうことなのか、と身を持って知った瞬間だった。だけど撮ってもらった写真を見せてもらう度に少しづつ自然になっていく。『僕は僕でいいんだ』そう思えた。自然に話しながら、自然と写真に収められていく。この過程の中で、僕がなにかを装う必要はなかった。先生も特に指示はしない。それは完全に放任という意味ではなく、「アイデアをくれる」に近い。撮影中の先生がしてくれたことはまさに、”特別なふたりの時間を創るようなエスコート”。そんな感覚になった。目の前にいてくれる人への配慮や、やさしさに溢れた時間だった。
 
 これは撮られた方にしかわからない感覚かもしれないけれど、きっと経験すれば必ず感じるはず。僕も生意気にもひとを撮る写真家として、こんな風に”目に見えない大切なこと”を忘れてはいけないんだと思う。
 あんなにどんよりとした空も撮影の間だけは最高の光を届けてくれていた。


 目の前にいる方への感謝。
 この気持ちが自然と行動を創るような心でありたい。


 被写体との関係性は僕が考える写真にとってもっとも大切なことだ。それは僕が写真を始めてまだ間もない頃、藤里先生の写真から学んだこと。写真は語る。そう信じている。目の前にいてくれるひと達に感謝して、今日も僕はシャッターを切る。

 本当に宝物のような体験だった。

 シバタタツヤ


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