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NPO法人代表の日常 JICA海外協力隊春募集CMに物申す

腹立たしい テレビでCMを見てそう思った。自分は青年海外協力隊出身者だ。水泳隊員としてカンボジア派遣 カンボジア代表としてシドニーオリンピック出場 青年海外協力隊派遣50周年記念映像では活動が紹介された。

貴重な経験をした。それはオリンピックに行ったとか云々ではなく、灼熱の太陽を浴びながら自転車で駆けずり回り、いろんなトラブルに巻き込まれながらも2年間という任期を(延長したので2年半)全うしたことである。

派遣されていた時も「自分探しのため」とか「人生の夏休み」とか言う人もいた。特に「自分探し」という表現には疑問しかなかった。なんだ「自分探し」って。そもそも自分があるのか?お前を探すために何で途上国に派遣しなければならないのか?

派遣前、訓練所では高卒は一人だけという環境で聞いた事もないクメール語という言語を勉強し、いざ派遣となったら内戦が起き派遣延長。そんな国でスポーツなんて出来るのか?思い悩んだ。そして自分が何が出来るのか、しなければならないのか?

派遣されてみるとそこは、協力隊第一号が派遣された場所。1960年代のことだが、一緒に仕事をするカウンターパートは彼の教え子。今は水泳連盟のトップであり、日本でいう文部科学省でもハイクラスにいる。ポルポト時代という国家元首が国民の半数近くを虐殺するという時代を乗り越え、スポーツを復興させようと躍起になっていた。

初心者指導という要請内容は覆され、ナショナルチームの指導となり、東南アジア大会でポルポト時代以降初の入賞、シドニーオリンピック出場という事となった。


削られた。日本で安寧に暮らしていた自分は削られた。ただ2年間情熱をかけた気持ちは伝わった。

少し前の協力隊のスローガンは「世界を変えるチカラになる」だった。これは好きだった。そういう気持ちもあった。自分の活動で世界が少しでも良い方向に向かえばという願いもある。「人生なんてきっかけひとつ。」違くないか?あくまでも自分のためではなく、途上国のために行く事で成立している。昨今の円安や海外支援への批判を知らないのか?JTBのスローガンじゃないのだから。

最終的に自分のためになったというならわかる。私の前任者の中村さんはポルポト時代後、生き残った教え子に会い慟哭したという。きっかけではない。大きく人生が変わる。覚悟して欲しい。

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