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”おいかぜという会社はとても中庸で曖昧で習合的な存在でありたい”というおはなし

新年あけましておめでとうございます。今年も株式会社おいかぜを何卒よろしくお願い致します。株式会社おいかぜは本日が仕事始めです。

みなさまはどんな年末年始を過ごされましたか?

今年は外出自粛の中での年末年始、家でゆっくり過ごされた方も多かったんじゃないでしょうか?我が家は近場のボクの実家に頼りっきりで、子どもたちは休み中はおじいちゃんおばあちゃんと一緒に過ごしていました。

ボクはというとここぞとばかりに家の用事を済ませたり、積読を解消したり、仕事での考え事を整理したりと、それなりに有意義に過ごせたんじゃないかと思っています。例年のように腹12分目みたいな食生活にはならず、すごく健やかで健全なお正月だったと。

さて。

このnoteの記事を読んでくださる方の中には弊社株式会社おいかぜからの年賀状を受け取られた方もいっらっしゃるのではないでしょうか。おいかぜでは毎年の年賀状に尋常ならざるリソースを投入しております。どれだけの方が楽しみにしてくださっているかはわかりませんが、見えない期待に応えるべく、スタッフみんなで楽しみながら毎年の年賀状に取り組んでおります。

今年は"cheer up!"をテーマにボクたちおいかぜからの年賀状をお届けしました。

いつもの年なら気軽に"おめでとうございます!"って挨拶ができる初春なのですが、2020年はほんとうにいろんなことがあった、でもせっかく新しい1年がはじまるんだから、ボクたちなりの軽やかで愉快なフレーフレーなエールをお届けしたいな、って考えた企画なんです。

現物をご覧になっていない方にとっては、なんのこっちゃな内容かもしれませんが、今回企画からデザインまでを担当してくれた中西さんと吉澤さんがボクたちの2021年の年賀状についてのレポート記事を近いうちに書いてくれると思うので詳しい紹介はそちらでさせていただきますね!おたのしみに!

そして仕事はじめのボクたちは今日は春日神社に事務所勤務のみんなで初詣に行ってきました。毎年恒例。事務所メンバーのみんなでぞろぞろと、お詣りして御神籤を引いてさっと帰ってくる感じの初詣。今年はどんな1年になるのか、どんな1年にしたいのか、みんなそれぞれだと思いますが、今日はボクなりの仕事始めっぽい、1年の抱負を書いてみようと思います。

この年末年始にある本を読み終わりました。内田樹さんの「日本習合論」という本です。

読書という行為は、その本を選んだ時点ですでに始まっており、そしてその行為は自身の思考や行動とシンクロする・している確率は極めて高く、この本の場合もボクの思考に直接的に影響を及ぼす言葉たちを投げかけてきました。

内田樹さんがこの本の中で一番のテーマに置いているキーワードが”話を簡単にするのを止めましょう”という言葉です。このことはボクもよく思うことで、このnoteの記事でも"誰にでも伝わるわかりやすさ"を目指さないようにしています。もし文章が読みにくとか文法が間違っているとか誤字脱字が多いとか、そういうことであればそれはボクの文章力が無いということで本当にすいませんなのですが、文章が複雑であったり難解であることをそのままにしておいてもいいとか、思考のプロセスをそのままの状態で言語化するとか、いわゆるバズるみたいなところを目指さないとか(目指せと言われても出来ないのですが笑)、そういう"わかりにくさ"すらそのまま受け入れてもらうように心がけるというようなニュアンスです。

ボクの文章を読んだ人は、ボクの話を聞いているみたいとか、読んでみたけれど私はこんなふうに考えているんですよねとか、そういう感想を伝えてくれます。それはプロセスとか余白みたいなところを、そのまま読み手にぶつけているボクの意図がうまく伝わっているんだろうなというふうに思っています。

この本の中で語られている”習合”というのは"折り合いをつける"とか"混ぜる"というような意味で、言い換えると"はっきりさせない"とか"曖昧なままにする"とか"中庸である"ということだとも言えるわけです。

ボクの考えや意見や文章というのは、そのどっちつかず感がすごくある。いわゆるいいね!がいっぱいつくだとか、バズるみたいなことはあり得なくって、そのふわふわしたところをぶつけることで新たな”コミュニケーションを産む装置”のようなものだと思って、いつも書いています。

日本習合論にはその"習合"というテーマで、宗教・民主主義・働き方・農業・会社組織について論じられいているわけですが、その様々な分野での分析のもろもろが、これからの日本人が目指すべきメンタリティなのかもしれないと感じました。

特に"第五章 会社の生命力を取り戻す"は真骨頂で、ボクがボンヤリと思考していたこれからのおいかぜのかたちみたいなことを露わにするきっかけをくれたわけです。そのきっかけとボクが思考し続けてきた"良い会社とはなにか?"を組み合わせが年末の京都移住計画さんの取材で一つの昇華を迎えたわけです。

内田樹さんはこの本の中で、江戸時代の丁稚奉公・暖簾分けを基本とした組織のあり方と英国で産まれた株式会社という仕組みを比較しながら、日本の高度成長時代の日本モデル(終身雇用・年功序列・企業内組合)について論じます。定常的な経済であることが前提の江戸時代、株式会社という概念が持ち込まれた明治以降、それら2つが習合した日本モデルの成功と瓦解、資本主経済の飽和と限界を、新しい習合をもってして論じていくさまは、とても興味深いものでした。

その中でボクは、市場経済の原理原則から無視されてきた"自己利益の最大化よりも、定常的な共同体に帰属して、そこで社会的承認を得ることのほうが好ましいと思う人間"が、本来は資本主義市場経済と相性の悪い"相互扶助的な共同体"、つまりは"社会資本的"な企業体を必要としているのかもしれないという示唆を得たわけです。公益性と利益性みたいな中庸を目指すことがボクがおいかぜで目指したいこと、そしておいかぜに所属してくれる人たちや関わってくれる人たちが、おいかぜを社会資本的に捉えてくれることがとても大切だと気付いたわけです。

最終章で語られる、人が何かの変革を求めるときにありがちな「かつて一度も現実になったことのない過去」についての話もとても興味深く、自分たちが勝手に作り上げた理想の過去にすがることはままあるわけです。つまりは"原点帰還"的な思考ではない、すなわち何かの極に振るということではない、習合という複雑性を受け入れながら進むことこそが、新しい会社のかたちや働き方を育んでいく。そう思うわけです。

そう考えると、2018年にボクが"はたらくデザイン事業部"を立ち上げたことはとても宿命的でした。

自分で立ち上げておきながら何を言ってるんだって感じですが、とても曖昧でいったい何を事業にするのか定まっていないコトを過程でもいいから言語化しなければと思ったわけで、この行動がボクの習合的な行動のはじまりだったのかもしれない。

いまボクはおいかぜのアウトラインを引き直しながら、上位概念の整理をしています。プロダクション事業とプラットフォームソリューション事業の2つの事業に”はたらくデザイン”事業が明確にプラスされています。そして”はたらくデザイン”事業が中心にいます。その曖昧で中庸でハイブリッドな存在が会社の中のあらゆる接合部に有機的に存在することで、今までの会社の在り方やおいかぜに関わる人たちの働き方がと新しい時代の思考が習合し、ボクの考える理想の会社に近づいていくんだと思っています。

"だれかのおいかぜになる"

ボクの文章の中で執拗に繰り返されるこのフレーズは、ボクたちの全てをあらわあしています。おいかぜ自体も曖昧で中庸でハイブリッドな存在となり、あらゆる極を習合するようなフレキシブルな存在になる、そんなことができたとき世の中はもっと幸せになるんじゃないかな。

株式会社おいかぜは今年もがんばります。

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