「慣れ」を考える

見えない習慣というものがある。今、自宅用のキーボードを新調しなくてはいけず適当に安目のものをかった。届いて気づいたらwindows純正のキーボード。一見同じレイアウトなようでべらぼうに違う。

もうこのほとんどのキャリアがmacで過ごしている。
そうなると些細やキーボード配置などを体で覚えてしまっている。
ど偉く使いにくい。何かに似てるなと考え込んで初めてAndroid端末に触れた時も同じだった。

いつもの習慣が崩れると「慣れ」までにすごい時間を要する。利用者全てに学習期間が必要になる。それはすごい大きな損失なのかもしれない。そして、これがwindowsユーザーがmacを触れるときも同様の負荷がかかっている。

これは逆にいうと習慣化を罠みたいにドツボにハマらせることもできるんだなと思う。当たり前と思っていることを構築してしまえば、移り気は消える。特殊なルールではないが空気のように浸透したルールって怖いものがある。

結果、「慣れ」ってすごい怖いものだし、同時にその習慣に自分を良くする行動を盛り込めば自動的に成長するじゃんなんて安易に思った。安易すぎるかもしれないけど。

とても朝早く起きる友人がいる。朝5時とか。信じられない。
でも、彼にとってそれは習慣化されていて、のそのそ起きてくる僕とは過ごす時間と得られるものが大いに変わる。

僕の習慣でないだけで「うわ、すごいな」で終わりがちだけど、それで何が得られているのかを聞くといいかもしれない。これは自分にプラスになるぞ!なんてものを取り込んで自分だけの習慣を作って行く。

それってゲームみたいにスキル覚えるための経験値割り振りと似ていて、いいのかもしれないなと思い出している。それにしてもキーボード慣れないなと思いつつ、この日記を書き終える頃には結構もう慣れてきた。食わず嫌いが一番損をする。新しい慣れをどんどんインストールすればいいのかもしれない。

いただいたお金は子どもに本でも買おうかと思ってます。