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タイムラインを眺める時間は、自分の人生を目の当たりにする時間を減らした時間

noteが好きなところは、新しい記事を書くときに画面全体がまっさらな状態になるところだ。週末、来週のタスクを整理して、ぼおっとブラウザのSNSを眺めて、なんて無駄な時間なんだろうなと思いながらスクロールしている。誰かの日常で週末寝る前の退屈な時間を潰せるわけでもない。Netflixに溺れている方がまだ教訓をいただけそうだ。

ポチッと1クリックで新規投稿画面へ遷移する。
真っ白な画面は、「さぁ、今日何を思った?」という投げかけになっている。365日まいにち日記を書いた刷り込みかもしれない。でも、このまっさらな状態の画面はスッとオンラインの喧騒から離れる感じがあり好きだ。

レコードにスイッチを入れて針を落とすプツプツと雑音の後に音楽が流れる。Youtubeでもいいんだろう。最近手に入れたレコードプレイヤーで音楽を聴きながら日記を書いている。

毎日変わる誰かの日常に埋め尽くされるタイムラインを眺めている時間は、同時に自分の人生を目の当たりにする時間を減らした時間と同等だ。
そう思わない?今さっきそれを明確に感じたんだ。

今までは仕事に関する有益な情報とか、発言に共感が集まることに積読した本に薄っすらつもる誇りくらいの満足感が蓄積されていたんだと思う。
でも最近はどうだろう。仕事の種類も変わってきた。世の中は結構殺伐としている。良くてアニマル映像を繰り返し見ているくらいの時間だ。それは妻とベランダでタバコを吸っている間だけ見せ合えれば良い。

何度も無駄だなと思ってSNSを離れたりしたけど、中毒性かなタバコに近い戻り方をする。変に断絶しようとは思わないけど、使う意味を見出さずにアクセスすることは無駄な時間だなと思った。

というのも、ついさっき見たFacebookのタイムラインで同級生だった友達の挑戦が見事華を開いていた。僕はといえば、いいねを押して応援する程度のものだ。でも友達にとっては人生をかけた挑戦だったんじゃないかと想像している。僕がぼおっとTLを眺めている時間にも友達は汗をかいて努力をしていたのだろう。そうでもしないと日本代表として世界で戦う権利なんて手に入らないはずだ。

「持つべきものは友」なんて言葉は、僕は結構骨身まで沁みてるタイプだけど、そうかこういうことこそ、そうなのだと思った。

仕事上、完全に断絶はできないが、「アクセスする意味」があるときだけ。もうそれで十分だろう、と、そう思った夜。
こういう想いを気軽にかけるnoteの体験設計には本当頭が上がらない。

来週に備えて早めに就寝。読書でもして寝よう。

いただいたお金は子どもに本でも買おうかと思ってます。