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自分と対岸の人との対話を想像する

大阪の地下鉄御堂筋線のリニューアル予定のデザインが色々すごいことになっている。誰が見てもアウトではないかと思うが、可愛いとか素敵ですという人が身の回りにいないだけなのかもしれない…と思ったりした。

SNSは人を繋げたけど、“似たような人”を身近にし、“自分と対岸の人”を見えないようにしただけなのかもしれない。対岸でも同じことを思っている感じの隔たりを生んでたりなんてこともある。

でも、それよりもっと俯瞰してみたら、あのような意匠の展開はかつてからこの国では当たり前のように行われており、地方に行けばその着地点を問いたいほどの謎キャラクターがロークオリティで行政管轄の公式キャラとなり、色あせた看板に描かれていたりするわけだ。

逆にインターネットというものは、今まで実は起きていたことを僕らにも満遍なく届けることに成功していて、日々暮らす中でも流石にそれはアウトでしょ。というものが連日僕らの目に届くようになった、と考えるとインターネットって素晴らしい。そして、上の偉い人たち世代はこの速度がデフォになるなんて今のところ思ってもいないので急にインターネットで荒波がたって気付くのかもしれない。

革命も暴動もテロもネットワークを経由してうねりを広げていく。
今までの速度以上にコミュニティを増幅させて、巨大な共通意思をもった運動体となる。そう考えると国だの住んでる場所だのの関わりはより希薄になってくるのかもしれない。例えば僕が京都に住んでることに大きな意味や意図はあるか?と言われたら別にない。でも隣町の地下鉄のデザインがダサいことに関しては感情移入をしている。

価値観なのか、なんなのかわからないけれど、より人間の内面的なところでコミュニティと接続していくから“似たような人たち”の妄信的なメッセージとか行動とかが今後もっと目立ってくるだろうなと思う。だって暮らしてる中で僕ではない誰かは大阪の地下鉄のデザインがあれでいいじゃないという人がたくさんいるのだと想像している。この自分と対岸の人がいる想像力がないと議論が一方的になりそうだ。

これからの時代、なんだかそういう力が大切になりそうだ。
何かしら“自分に似た人たち”のコミュニティに所属しているわけで気付けば何かに妄信的かもしれない。対話の基本として、ニュートラルな立ち位置から双方の意見や主張を聞いて、その上で自分の意思を語るべきだなと思った。

平和な土曜日にぼーっとそんなことを思った。

いただいたお金は子どもに本でも買おうかと思ってます。