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君が忘れてしまった野生を

あーだこーだ言う前にやってしまう。これは個人で仕掛けるプロジェクトで心情としているところである。仕事はもちろん取るべき段取りがあるのだけど、自身がやることに関しては誰の許可もいらない。

なのに意外と自分のプロジェクトは後回しになりがちだ。むしろ人生において、自分のことを優先した方が有意義になる。でも、どこかで大人になりすぎた僕らは、誰かの許可なしには動けなくなってることが多い。それも無意識に。

子供はご飯前だというのに工作を始めたりする。
昨日、それを見て面白いし、正しいなと思った。無論、もうご飯!と止められてしまうのだけど、悪くもあり、良くもあると思う。だって工作したかったんだもん。その初期衝動に抗えない感じを社会常識をつけていくたびにすり減らしていってしまうのかもしれない。

大人になれば理性が勝る。ただ理性だけの存在は、お行儀のいい大人でしかない。かつてあった野生とか本能みたいなものを失ってしまっては、せっかく大人になった意味がない。理性でもって野生に手綱をかけて、ここぞとばかりに首輪を外す。そういうことを僕はもっとしなければいけない。

心のどこかで大声を出している野生がいるのを知っていて、コンクリ部屋に閉じ込める。そんなイメージをちょきちょきと工作を進める子供たちを見て少し恥ずかしい思いをした。汚れていくリビング、出来上がっていく謎の創作物。

その行為に意味があるのかを考えてしまう。全てに意味を求めてしまう。大抵のことに意味を与えるのは難しく小難しい。でも、どこで誰が意味を欲しがっているのだろう。そこに自分がやりたかっただけの意味があるだけで十分じゃないか。大人になれよ、とよく言うが、子供になれよ、という言葉がもっと僕らには必要じゃないか。

絶賛安定的に落下していく日本の社会と、その鬱屈とした空気から生まれるむごたらしいニュースを見て、こんな時代にこそ「意味もわからないが凄いもの」が必要なんじゃないかと思う。その方法は誰だって幼少期を過ごしたから心の奥底にあるはずなのだ。よくよく耳を傾ければ、声が聞こえてくるはず。

君が忘れてしまった野生を
君の理性で解き放つのだ。

いただいたお金は子どもに本でも買おうかと思ってます。