見出し画像

死を考える

昨夜、京都のホルモン焼きで有名なアジェにてお坊さんと機械学習研究者の3人で木屋町学会が開かれた。命をテーマにしたディスカッションが繰り広げられ3つの視点から色々な意見交換を交わす。有意義な夜。引き続きのテーマとして部活的に活動していこう。そして、この答えのないディスカッションを後悔していけたらと思っている。0回目会議は録音してなかったので記憶している事実を整理しておこう。

テーマは「機械に人は救えるか」というもの。

日本の自殺者の数は減少しているらしい。経済の影響で1万人単位で数字が変わるのはリアルにお金が人々の生活ひいては生きることに直結していることを見せつけられる。経済苦による自殺。個人が抱えられるお金というものがあるのだろうか。深掘りできなかったがここも気になる関係性だと思った。

そして、一番驚いたのが10−20代の若者の自殺率が計測され始めたであろう年月で一定の数字のままということ。この要因を考えていくと、自分を中心とした世界の距離が関係してるとしか言いようがない。学校・家族・友達・恋人。これ以外にあるとしたらSNS・部活・塾あたりだろうか。これは大人に比べると圧倒的に接続できる世界が狭い。

子どもの限られた世界と許される尺度で物事を測った時に背負う重さを大人になると想像するのが難しくなる。ここの視座に自身をもっていくこと、そして、死にたいと思う人と同じ視点に立つ事の難しさ。

ここに集まった三人が誰一人として「死にたい」と思ったことがない。人が死にたいと思うには感覚的な指標であるが「4つくらいの大変な事」が「同時期に起こる」ことがあるらしい。怖いなと思った。死にたいと思う条件がやんわりでも定義されてしまうことで死に向かわせる式が生まれてしまう。

と同時に不思議に感じたのは死にたいというモチベーションがなぜ悪なのかという点。そりゃもちろん死んじゃダメだとと本能的に思う。死にたいを持つ人を目の前に最初に「生きようよ」といってしまう。まずそこからコミュニケーションの断絶が起きることに気づいた。

救いがないので死にたくなる。と考えがちであるが、死にたい人は「死」が「救い」になっている。その可能性を無視してはいけない。その前提に立った時、死への渇望とどう寄り添い聞き入れ、その価値を咀嚼するか。

昨日は色々と興味深い命への視点と可能性を感じた。
僕らは緩やかに死に向かっている。同じ道行く人の死への思いを生きろよ、というのは全否定している。自分も死に向かっているのに。今年、祖父を亡くし目の前で消え行く命を目の当たりにしたが、死は美しかった。それは命をもやし切った故の美しさなのかもしれない。

ただ死を見つめることができてよかったと思った。僕の人生で「死」が遠すぎた。いくつかの「死」はドラマかなにかみたいなフィクションのように見えていた。家で止まる手前の心臓を動かし、布団から動けず静かに死に向かう祖父を見て、言葉にならない感謝があった。それは死を知ったことに対する感謝なのかもしれない。

この学会は継続的に続けていこう。なにか答えではないが気づきが目の前にある気がしている。

いただいたお金は子どもに本でも買おうかと思ってます。