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言葉は意志だ

朝起きたら通知が凄い、ってのがここ1ヶ月で何度かあった。
仕事で追われるとかじゃなく(電話しても出ないの知ってる)noteの記事が話題になったのが理由だ。こんなペロッと書いた文章になんかすいません。

FacebookやTwitterは濁流のように言葉が流れて来て、ある時から少ししんどい感じでいた。なので今はBufferというアプリで独り言レベルは垂れ流している。ぶつぶつと僕が話す独り言で僕のSNSが形成されていた。

それとは別にいろんなところに日記を書いていた。
これも誰かに読んでもらいたいとかではなく、自分の整理のために書き連ねていた。なので誤字脱字も多い。脱線もするし、何が言いたいかわからない話だってざらにある。読んでもらうために書いた文体じゃないものをたくさんの人が読んでくれている不思議。

登壇しなきゃいけないイベントとか、初めてあった人とかに、あのブログの○○という記事で心が楽になりました!とか、頑張れました!って言葉をかけてもらうことが増えて、垂れ流して人のためになるならこのままでいっか。という具合で書き続けている。

noteで毎日日記を書き出して100日が経過が経過したが、note以前も同じように書いていたので日数にするとなんか凄い数ある。オンラインにないものもある。なんかテキストエディタがあれば書いておく、みたいなテンションなのである。言葉は溢れ出てくるので出て来たままを書いている。

しゃべり言葉や頭なのかで流れてる言葉って目に見えない。
こうやってタイピングしたり、書いたりすることで言葉が形を成していく。
この言葉の形そのものが好きなのかもしれない。今日もしっかり言葉があるね、それを確認するために書いているのかもしれない。

言葉は意思だ。
言葉は意志だ。
どっちでもいいけど微妙にニュアンスも違うし、どちらもあってる。
僕にとって言葉はコンパスに近い。心が何を叫んでいるか。どこへ向かいたいと思っているかを確認するための道具である。

言葉が濁った時、僕の意志も濁っているのだと思う。

いただいたお金は子どもに本でも買おうかと思ってます。