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ドストエフスキー『賭博者』読書会 (2021.7.9)

2021.7.9に行ったドストエフスキー『賭博者』読書会ものようです。

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私も書きました。

ブルジョワ的形式 キリスト教的形式


(引用はじめ)

フランス、つまりパリジャンの民族的形式は、われわれがまだ熊でしかなかったころに、洗練された形式に固まりはじめたのです。革命が貴族の遺産を相続しました。今ではこの上なく卑俗なフランス野郎でも、自己の創意によっても、魂によっても、心によってもその形式に参加することなしに、まったく洗練された形式の作法や物腰、表現、さらには思考さえ持つことができるんです。 (第十七章)

(引用おわり)

ユゴーの『レ・ミゼラブル』ではガヴローシュという浮浪児が活躍していたが、このパリの浮浪児でさえ、民族的形式を備えていて、洗練されていた。気の利いた軽口を叩くのである。

私は、トリュフォーという映画監督が好きなのだが、彼の『大人は判ってくれない』(原題「Les Quatre Cents Coups」)という作品は、現代のガヴローシュを描いたような作品だった。反抗期の子供が、家庭や学校や世間の矛盾に憤り、家出する作品だった。最後のシーンで、主人公のアントワーヌがずうっと走って逃げていくのだが、非行少年にも走って逃げるという形式が与えられている。


走って逃げても、結局は、なにもない。ゼロである。そのゼロを描くことへの情熱が、いとおしく切ない。


形式という言葉は、なかなか理解されづらい。

『事態のうちに現れる可能性が対象の形式である』ウィトゲンシュタインの『論理哲学論考』の2.0141の言葉である。


賭博にも形式がある。ルーレットでゼロが三回続くというのは可能性としては低いが、起こりうる事象である。


フランス人というのは、このゼロが三回に形式を与えている。革命が実現するというのは、ゼロが三回出てしまうことだ。ロシア人もゼロを三回出して革命を起こした。日本人は、ゼロが三回出るという形式を持っていないので、革命なんぞ起こらないし、人間の振り幅も、それほど広くはない。典型的な常識人=小市民しかいない。


日本文学の登場人物たちのように。


形式がある国では、可能性に満ちあふれているので、なんでも起こる。
とんでもないクズと、とんでもない崇高な人物がかわりばんこに出てくる。
(『レ・ミゼラブル』のテナルディエとミリエル司教のように)

『賭博者』というのはロシア人がフランス流のブルジョワ的形式の中で、自分を見出そうとして賭博の可能性を追い求める話だった。ドストエフスキーは、その後、キリスト教的形式に、人間の可能性を追い求めるようになる。

ポリーナがアレクセイに求めたものは、五万フランではなく、アレクセイを通じて、キリスト教的形式のなかに落ち着くことだったのではないか。彼女はデ・グリューのようなブルジョワ的形式の中で自分になることはできなかった。


彼女は、アレクセイが正教徒が正教徒を貰い下げる(第十七章)ように自分を救ってくれることを、魂の奥底で願っていたのではないか。


賭博のうちに現れる偶然と可能性が、信仰において現れる偶然と可能性の追求に変わっていく節目の作品だと、再読しながら感じた。

(おわり)

読書会のもようです。



お志有難うございます。