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三島由紀夫『金閣寺』読書会 (2021.1.15)

2021.1.15に行った三島由紀夫『金閣寺』読書会 のもようです。

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私も書きました。

『キャッチャー・イン・ザ・金閣寺』

妊娠した有為子が海軍の脱走兵をかくまって、憲兵隊に包囲された挙句、その脱走兵に拳銃で撃たれ無理心中させられた挿話は、その後の溝口と金閣寺との関係の伏線になっている。

吃音症ゆえに世間と自分との間に壁を作っている溝口。彼が、その壁を痛切に意識させられた出来事のはじめは、初恋の相手だった近所の美少女、有為子に拒絶されたことだった。この拒絶が、のちに金閣寺からの拒絶につながっていく。


暗い時代の権力者が庇護してきた金閣寺。金箔塗りで、建築様式も折衷で、俗世の中でも俗にゆえに、今日まで存在感を示したきた。溝口と金閣寺は、ともに俗世に馴染めない存在感でありながら、その核心部分で、極めて俗っぽいという矛盾を抱えている。そして、戦争による金閣寺の消失の危難は、金閣寺の美と溝口に運命的一体感を与えていた。しかし、敗戦してなお、金閣寺は焼けもせず、俗世に残った。ここに、溝口と金閣寺の美の関係は絶たれた。

『南泉斬猫』の公案は、皆がちやほやする仔猫の首を切る話である。金閣寺を燃やすことが、仔猫を首を切ることに対応するのだろう。履(くつ)を頭に載せて立ち去った趙州は、金閣寺に放火したのに、結局おめおめ逃げて生き延びた溝口を指し、溝口に履を頭に載せて立ち去るように、老師は、暗示を与えたのだろう。

私は、溝口は結局、最後まで、老師の手のひらで踊らされていたように思う。

すなわち、仏の御手を逃れえなかった。

溝口は、有為子のように脱走兵と無理心中させられることもなく、金閣寺からも無理心中を拒まれている。この小説のプロットの中で、溝口は、終始、無理心中を拒まれている存在として描かれている。

「何か」と一体化して、精神的に安定したいのだが、その「何か」から、常に拒まれている。放火による心中という決死の行動も、やはり、失敗する。金閣寺を真ん中に据えての溝口の自意識の堂々巡りがプロットになっている。

溝口がシテであり、柏木や老師がワキである。能舞台を見ているような話で、この小説は、近代小説でもなんでもない。


バルザックの『ゴリオ爺さん』のラスティニャックが、パリの街並みを見下ろして、「今度は俺が相手だ!」と叫んだように、俗世に向かって青年が宣戦布告する作品なら、近代的である。

『金閣寺を焼かねばならぬ』(第7章の終わり)では、俗世の問題はどっかに行ってしまっている。有為子や柏木や、鶴川は、溝口の頭の中の友だちにしか感じられず、彼らの苦悩も存在も、現実感に、乏しい。

金貸しの老婆を殺した青年の話である『罪と罰』のように、金閣寺を燃やした後の話を描かないと、と三島由紀夫は小林秀雄との対談で、ツッコまれていた。

小林のツッコミは、三島の『金閣寺』がロマン派のポエムであると批判していると思う。三島の才能が、西欧近代小説のように俗世の様々な人生を延々と描写するよりも、青年の詩情を描くのに適しているのがよくわかった。

アニメ映画のワンシーンの、お湯を注いだカップヌードルの上にこそ、ふさわしい作品である、と思った。
                        (おわり)

読書会のもようです。




お志有難うございます。