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梶井基次郎『Kの昇天』読書会 (2022.8.26)

2022.8.26に行った梶井基次郎『Kの昇天』読書会のもようです。

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朗読しました。

青空文庫 『Kの昇天』梶井基次郎

シューベルト『ドッペルゲンゲル』

シューベルト『海辺にて』



「月光に浮かび上がるシルウェット 魂のイデア」
 

人間は太陽の光を直接見ることができないから、そのかわりに洞窟の壁面に移った影を見ているのだ、とプラトンの洞窟の比喩は説く。これが、プラトンのイデア論である。

イデアは、影としてしか、人間の前に現れない。
 
私が最近思うのは、人間が薄っぺらくなったということだ。なんか、もっと昔は、人間性とか人間の魂とか、一回きりの人間の生命というものの尊さが、世間でも、形あるものとして感じられたような気がする。でも、最近は、格差社会が進んだせいかなんだか、理由がわからないが、生命の尊さを訴える言説そのものが薄ら寒いものになっている気がして、それがなぜなのか、まったくもってわからない。世間というより、自分の頭が、どうかしてしまったのかもしれない。
 
失われた30年。日本では、生産性を上げることばかりが、叫ばれている。生産性という尺度でしか、人間をみていない。以前はそうでなかったような気がする。自分が、年とったせいの泣き言か。気のせいか。
 
生産と消費のサイクルの膨張。それを資本の価値の自己増殖という。その中で、人間性=人間の魂は悪魔の碾き臼にすり潰されるように消え去ってしまうのが現代だ。私たちは労働と消費のサイクルと、そのサイクルに歩調を合わせた私生活に埋没し、自分の魂を見失っている。生きながらに、形骸の生活である。
 
『冬の蝿』では、病魔を押してでかけたものの、死に切れずに帰ってきた主人公の療養部屋に、自分の体温でかろうじて生き延びていた蝿たちの死骸を見つけるシーンがあった。
 
蝿の死骸と、溺死したKの形骸がかさなった。

月光の気まぐれで、Kの魂は生きていただけではないか。
 
例えば、不治の病に罹り、余命が幾ばくもなくなれば、労働と消費のサイクルから脱落する。


そのとき、はじめて死に臨む者として、人は、世界に現存在として投げ出されて、自分の本来性を己に問うのであるが、それは、月に照らし出された自分の影を問うような不毛な営みである。
 
太陽に照らされ浮かびあがった影は、人間の生命の影である。生産と消費のサイクルを生きる人間の影だ。


しかし、月光に照らされて浮かび上がった影は、人間の魂の影である。これすなわち、魂のイデアだ。
 
満月には影はない。そもそも月は、太陽の光によってしか、見ることができない。


そして、太陽の反射である満月が、今度は、人間の魂の影を浮かびあがらせる。
 
精神が見つめるものは影に過ぎない。満月によってしか、人間は自分の魂の影を捉えることができない。


魂が「見えるもの」になるのは、ただ影によってだ。


Kは溺死によって、そういうことを伝えたかったのではないか?
 
Kの昇天に、私は、プラトンのイデアのような形而上学的な構造を見た。


死にゆくKの肉体の形骸と、月に昇天していくKの魂の対比によって、人間性への問いが鋭く突きつけられてる。


繰り返すが、単調な世界に、何の人間性もないまま、動物のような生命だけが労働と消費のサイクルを描いているのが現代である。


 月に行きたい人たちも、月に、労働と生産のサイクルだけを見ている。

だから何度も、堕ちてくるのだ。
 
(おわり)

読書会のもようです。


れいた先生が『レパンダとKの昇天』のファンアートを描いてくださいました。


スクリーンショット 2022-08-23 21.22.13


お志有難うございます。