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ドストエフスキー『死の家の記録』読書会(2021.11.5)

2021.11.5に行ったドストエフスキー『死の家の記録』読書会のもようです。

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私も書きました。


民衆を知ること 人間を理解すること

 

『これが人間か』にムーゼルマン(回教徒)と呼ばれる人たちが出てきた。

(引用はじめ)

彼らは無数にいる同類の群れに入れられ、休みなく体を引きずり回される。彼らはだれにもうかがい知れない孤独をかかえながら、体をひきずり、苦しみ、孤独のうちに死ぬか姿を消し、だれの記憶にも跡を残さない。

(『これが人間か』 プリーモ・レーヴィ 朝日新聞出版 竹山博英訳 p.112)

(引用おわり)

 

ナチスのラーゲルよりも恵まれた環境の『死の家に記録』にも、ムーゼルマンと同じような人たちが出てくる。例えばスシーロフである。つまらない報酬で身代わりに特別監房に入れられた気の毒な男である。


(引用はじめ)

この連中の特徴はーーいつ、いかなるところにおいても、ほとんどすべての人に対して、二流どころか、三流の役割しか果たさないということである。こうした特徴が彼らには生まれつきそなわっているのだ。スシーロフは極度にみじめな青年で、まったく人のいいなりで、いじけきっていて、たたきのめされたような人間だった。べつに獄内のだれに殴られたというのではないが、たたきのめされたように生まれついていたのだ。(中略)彼はしゃべるのが不得手で、どうやらそれが、ひどい苦労だったらしい。話を打ち切って、何か用を与えるか、どこかへ使いを頼むと、とたんに元気づくのだった。わたしは、しまいに、それが彼を喜ばせることなのだと、信じるようにさえなった。(P.132-133)

(引用おわり)

しかし、そんなスシーロフでも、ゴリャンチコフに叱られた後で、哀れみから金を恵まれ、逆ギレするシーンがあった。『長年のあいだつきあっても、人間を見きわめることはむずかしいものである!』(P.140) (『カラマーゾフの兄弟』前半に出てくるアリョーシャに施されて逆ギレしたスネギリョフのエピソードに似ていた)

たたきのめされるように生まれついた人間がいるというのは、学校では教えてくれない非情な現実である。

近代市民社会では、そのことは隠されている。良識のある大人なら、そういうことは言ってはいけないことになっていると知っている。あからさまに、そういうこと現実を指摘して、わけ知り顔をしたがる、小賢し大人もいるが。

しかし、学問や科学が進歩しても、たたきのめされがちな彼らがなぜ存在するかが、わかるわけではない。


ゴチャンチコフの指摘する通り、実のところ、人間を見きわめるのはむずかしい。


人権と人間の尊厳を確保してやるこれが近代市民社会の最低限のルールである。

このルールは、単に、たたきのめされがちの人々への哀れみのためにあるのではない。

人間を見きわめるのは人間には不可能だ、という戒めとして人権や尊厳があると考えた方がいい、とわたしは思う。
 
頭でっかちな左翼インテリであったドストエフスキーが、流刑地で、ほんもののロシアの民衆と出会い、偏見に満ちた人間観を改めたのである。その後、彼が、類型的な理解を超え、様々な人間模様を、長編小説上に展開させたということのすごさを、よくよく考えてみるべきだ。


人間は抽象化された何かではない。皆がそれぞれの特有の事情を抱えて生きており、それぞれに何かしらの意志がある。人間を将棋の駒のように見立てて、その集合体を、安易に社会や共同体や国家などの設計可能な構築物とみなすのは、ナチスのラーゲルを生み出した考えと根底では同じであり、とんでもなく愚かだと思う。

(おわり)


読書会のもようです。





お志有難うございます。