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村上龍『五分後の世界』読書会(2022.4.22)

2022.4.22に行った村上龍『五分後の世界』読書会の模様です。

メルマガ読者さんの感想文はこちら。

私も書きました。


『五分後の反動的世界』


 たまにテレビで、北朝鮮の喜び組の美女たちが映ると、昔の(と行っても50~60年代の)日本映画の女優みたいな雰囲気だなあ、と私は思う。顔は、80年代アイドルみたいである。露出が少なくて、清潔感のある天然美女。

例えば、河合奈保子や南野陽子みたいな。

 

メイクの仕方や服装もあるのだろうが、北朝鮮の喜び組を見るたびに、なんともいえない不思議な郷愁に襲われる自分がいる。ああいう感じの日本人が芸能界にいなくなった。

小田桐がマツナガ少尉に感じたものは、北朝鮮の喜び組に私が感じるものと同じだと思う。

 

(引用はじめ)

 整った顔立ちだが、思わず振り返ってしまうような美しさではない。それなのに妙に胸が騒いだ。制服のせいでもなく、マツザワ少尉の態度が恐ろしく自然でまともなために、逆に強烈に女を感じてしまうのだ。化粧やしゃべり方や一つ一つの仕草に、女の属性を強調したり、媚を示すところがまったくないので、逆に種としてのメスだけが持つ柔らかな何か、感触や匂いや分泌物などを抽象化した何かが漂ってきた。(第5章 P.151)

 (引用おわり)

 

ファシズム的な統制の危険な香りというのは、実は、こういうところにある。

 そのような危険な香りは、例えば、ベルンハルト・シュリンクの『朗読者』の主人公ハンナにもあったものである。

ハンナは、ラーゲルの職員で元ナチスだった。彼女は、戦後もナチスの規律を生きていた。

統制社会というのは、自然でも、まともでもないのだろうが、焼き鳥に串を打つように、群衆に規律を強制する。

 

その規律は、種としての女性の特徴を覆い隠すがゆえに、余計にそれを想像させてしまうのだ。

 

秋元康先生プロデュースの『坂道シリーズ』が、架空の高校の制服を着せてアイドル活動をさせるというのは、統制されたものに、逆に醸し出されてくる「何か」を狙ってのことだろう。

歌やダンスが下手で個性がなくても、フォーメーションダンスやらせれば、何かになるのである。

 

整然と秩序だった組織が、とんでもない悪夢を現実化するというのは、ナチスドイツの行ったホロコーストを見れば明瞭である。政治権力が、生産性向上のために、社会に規律を与えようとすると、人間は強制的に同一化され、ヒューマニティーが失われる。しかし、やっかいなことに、ヒューマニティーが抑圧されたところに立ち現れてくる、非人間的な美しさがあるのである。

 

愛国心とか忠誠とかは、美しいのだが、その美しさには、猛毒が潜んでいる。規律から現れる美しさは、非人間的であるがゆえに、規律に従わない者たちの生命を蔑ろにする。

マツナガ少尉の魅力というのは、画一化や没個性に関わる危険なものである。

 

だから、坂道シリーズ的なものも、私は、よくないと思っている。

いっときの平手友梨奈がセンターだった頃の欅坂46のダンスは、ファシズム的な効果を狙っていた。

ああいうファシズム的効果をエンタメにしのばせてくるのは悪質であり、危険である。

しかし、ファシズム的兆候がいかに危険かを、人に説得するのは、難しい。

皆、エンタメだから良いじゃんと思っている。

自由人である小田桐が、だらしなかった母を憎み、アンダーグラウンドの兵士に感動するくらい感傷的だからである。

(また、非国民のみすぼらしさやだらしなさへの嫌悪感は、排外主義への一歩手前である)

 

GHQの3S政策(セックス・スポーツ・スクリーン)によって、骨抜きにされた大日本帝国を、地下活動でとりもどそうとする『アンダーグラウンド』の精神は、バブルの時代なら、当時の日本人への警鐘だったろうが、20年代には、単に反動的であり、ファシズム一歩手前の権威主義的振る舞いである。

 

坂道シリーズも喜び組も批判すべきであり、ああいうことはやったらダメなのである。

 

  (おわり)

読書会のもようはこちらです。



お志有難うございます。