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ドストエフスキー『罪と罰』 第4部〜エピローグ 読書会  (2021.1.29)


2021.1.31に行ったドストエフスキー『罪と罰』 第4部〜エピローグの読書会です。

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私も書きました。

 『緑のショール』


(引用はじめ)

一体人間的にいえば死はすべてのものの終わりである、――人間的にいえばただ生命がそこにある間だけ希望があるのである。けれどもキリスト教的な意味では死は決してすべてのものの終わりではなく、それは一切であるものの内部におけるすなわち永遠の生命の内部における小さな一つの事件にすぎない。
 (キルケゴール『死に至る病』岩波文庫 P.16)

(引用おわり)

ポルフィーリはラスコーリニコフに自首を勧め、盛んに、「生活」を説いた。生活とはなんだろう。毎日、寝て、食べて、働くこと。その繰り返しの中で世間と結びつくこと。それは、根本的には生命をつなぐことだ。

動物園のパンダだって、檻の中で寝て食べて、生命をつないでいる。『人間的にいえばただ生命がそこにある間だけ希望があるのである。』シベリアの囚人たちは、生活を愛していた。極寒の檻の中で、寝て食べて、働くことを生活と呼ぶなら、囚人らは、その生活を自由な世間にいる頃よりも、愛し、尊重していた。(下巻 P.569)

人間は完全に死ぬと、そのまま別の世界に移行する、とスヴィドリガイロフは信じていた。彼は、生活を愛していたのだろうか。マルファ・ペトローヴナとの結婚生活が、愛すべき生活ではなく、結婚の契約だったように、彼の生活は金銭の貸借で成り立つ契約関係にすぎなかった。

コスパ野郎、ルージンだって生活を愛しているというより、自分に有利な契約関係に固執していただけである。金銭を介した人間関係だけを信じているというのは、逆にいえば、人間に深く絶望していることだと思う。生活を愛するには、どこかで無償の愛を人間に捧げなければならない、と私は思う。

マルメラードフも、カテリーナ・イワーノヴナも、ソーニャにひどいことをしていたが、いちおうは、ソーニャを愛してはいた。彼女が、終始身につけていた家族兼用のうす緑色のショール(P.577)は、ただの古ぼけた布切れかもしれないが、ソーニャと家族の思い出の品だった。ソーニャは家族を大切にしていた。じゃなければ、とっくにあのショールなどは捨てて、買い替えていただろう。

死んでも誰にも愛されていなかったら、この世に生きた意味はないし、よしんば、生き返ったとして、この世に、誰も愛する人がなく、誰からも愛されないとしたら、いっそ、生き返るよりも、そのまま、死んでいたほうがましだということになる。  

結局、金銭を介した人間関係を実体だと誤解していたスヴィドリガイロフは、自殺する前から、『死に至る病』にかかっていたのだ。彼は自殺したが、彼の『死に至る病』は、まだ癒やさてれはいない。彼の自殺は、永遠の生命の中の一つのエピソードでしかない。古ぼけた緑色のショールを愛するように、生活を愛することでしか、絶望から救われず、永遠の生命は感じとれないのだ。


(おわり)


読書会の模様です。




お志有難うございます。