『彼女を笑う人がいても』配信感想

『彼女を笑う人がいても』配信の感想。

 これぞ、今、と感じる“声なき声”と“声ある声”を真正面から縫い上げた作品。皆さん凄かったが近藤公園さんの役としての発声表情姿勢に圧倒された。彼の「すみません」に苦しくなる。吸い込まれた声は、言葉で身体で私たちを生き写す人々によって甦ることがあると知った。

以上がツイッターに投稿した感想。
以下、備忘録として。

<あらすじ>

雨音。
1960年6月16日。黒い傘をさした人々が静かに集まってくる。人々はゆっくり国会議事堂に向かって歩き出す。

2021年、新聞記者の伊知哉は自分の仕事に行き詰まっていた。入社以来、東日本大震災の被災者の取材を続けてきたが、配置転換が決まって取材が継続できなくなってしまったのだ。そんなとき、伊知哉は亡くなった祖父・吾郎もかつて新聞記者であったことを知る。彼が新聞記者を辞めたのは1960年、安保闘争の年だった。

1960年、吾郎は安保闘争に参加する学生たちを取材していた。闘争が激化する中、ある女子学生が命を落とす。学生たちとともに彼女の死の真相を追う吾郎。一方で、吾郎のつとめる新聞社の上層部では、闘争の鎮静化に向けた「共同宣言」が準備されつつあった。

吾郎の道筋を辿る伊知哉。報道とは何か。本当の“声なき声”とは何か。やがて60年以上の時を経て、ふたりの姿は重なっていく。

公式サイトより)

 瀬戸山美咲氏の脚本と栗山民也氏の演出のキレが凄まじい。雨の中で静かに燃える炎のような作品だった。
 本作では、新聞記者の伊知哉(瀬戸康史)が入社以来取材してきた被災者家族の一人を、近藤公園さんが演じていた。
 高齢の父と彼のお世話をしながらバイトをする妹(木下晴香)を避難先に残し、被災地である地元に戻ってなんとか働いている男性の役だ。なんとか、なんとか働いている。汚染土を、畑に戻す。「復興」を、報じる記事を目にする。ネット上の心無い声に、心を痛める。自分たちが悪いのだと、もっと頑張らなくてはいけないのだと、自分に言いながら、なんとか、なんとか生きている。
 「すみません」。彼が伊知哉に何度か口にする言葉だ。この一言に、たくさんの、たくさんの意味が込められているように感じた。こんなんですみません、迷惑かけてすみません、心配かけてすみません、頑張りが足りなくてすみません、わがままですよねすみません、そんなつもりじゃなくてすみません、生きていてすみません、もう一人になりたいですすみません、あなたに対して複雑な思いを抱いてしまってすみません、すみません、すみません、私なんてすみません、それでも納得できなくてすみません。
 はりついた笑顔と、ため息の混じるような発声と、すぼまった肩と。その佇まいから滲むのは、大きな諦めと、なぜ諦めなければいけないのかという、小さな小さな怒りの火。消えてしまいそうな当事者の灯火。
 怒り続けるのは、難しい。そのことをこんなにも身体で見せてくれる人がいるのか。彼が役者として背負い、表現したものは、「物語」ではなく「人」だ。
 怒り続けるのは、難しい。そして、渦中の人である当事者が怒りを「表明」するのも難しい。その表明に手を貸すことができるのが新聞で、(それは時にあまりに一方的だが)表明を代行することができるのが演劇なのかもしれないと、本作を見ていて感じた。近藤公園さんが宿していた小さな怒りの火は、これはお芝居なのだから、作り物のはずなのだが、限りなく本物のように見えた。そしてその作り物は私の琴線に触れた(あくまで本物ではなく作り物であるという点はきちんと認識しておかなくてはいけない)。
 映像作品ではないので観客に届くように「ほんの少し大きく」表現されていたと思うのだが、芝居が大きかったり大袈裟になった時に出がちな「当事者以外の者が外から演じている」ような空気は全く出ず、怒り……怒りではないかもしれない、声にならないような声を、代わりに表明……表出の方が正しいだろうか、するために必要な「拡声器」のような技術に思えた。
 演技という身体表現の持つ可能性について考えさせられた。「すみません」という言葉に意味を吹き込んだのは近藤公園さんの身体表現だ。言葉は人の呼気で変化する。それが文字であっても、手話のような視覚言語であっても、私はそこに発信者の息遣いを読み取ろうとする気がする。「言葉」に持たせる力の色を決めるのは、それを発する「人」なのだ。
 傲慢で一方的な代弁になってはいけないが、社会や、権力や、誰かによって吸い込まれた声を、言葉と身体で他者が甦らせることができる可能性がある、ということを知ることができたのは、個人的によかった。

 本当はもっと感じ入ったところがたくさんあるのだが、時間がなくて書けないのが本当に残念である。脚本も、演出も、役者もスタッフワークもみな素晴らしかった。
 「時間がなくて書けない」と書いたが、もし時間があったら、私はこの作品に乗じてなんらかの怒りを表明するような感想を書いたと思う。怒りを表明したり、声を上げるには時間もエネルギーも必要だ。しかし渦中の人は、渦中であるがゆえに疲弊しそれを有していないことが多い。子育てをしていてもそのことを感じる。怒りを表明し、それを持続し続けるにはなんらかの燃料がいる。
 タイトルにもなっている『彼女』は、「私の光だった」、というようなことを、彼女の母親と友人が述べるシーンがある。とてもよくわかると思った。怒り……という言葉をこの文で何度も使っているけれど、その言葉が正しいかはわからない、ただ、「それ」を掲げ続けるには燃料がいる。「それ」を掲げるために何かが燃えている、燃やされ続けている、その状態は確かに周りにとっては光で、ただ、そこで『彼女』が燃やしていたのは『彼女』自身かもしれない、ということを、念頭に置いて生きなければいけない、と思った。導きの光は必要だ。でも、『彼女』にだけ甘え続けるようなこともあってはいけない。人を一方的に消費してはいけない。
 怒り続けるのは難しい、だからこそ。

 若き役者さん方について少しだけ。
 主演の瀬戸康史さん、軽妙洒脱な作品にも骨太な作品にも違和感なくその中心に立つ技量に脱帽した。それほど強い色を持つ役者さんではないと感じるからこそ、達者な共演者の方々に混ざっても、対峙しても滲まないその存在感にハッとさせられる。
 木下晴香さん、おいくつでいらっしゃるのかと調べたら22歳とのことで唸ってしまった。22歳、私はこんなにも実のある言葉を発したことが一度でもあっただろうか……たぶん「しんど」「だる」くらいしか言ってなかったのではないか……わからないが……。そんなふうに思ってしまうくらい、彼女の言葉には実があるというか、実体を伴うというか、台詞が浮ついていないように感じた。どれくらい言葉を噛み砕いたのか、その真摯な取り組みの跡を感じるお芝居と、『彼女』に対しての心酔するような、忌避するような、虚実入り乱れた距離感が良くマッチしていたように感じた。
 渡邊圭祐さん、1960年の役では少し滑舌があやしいように感じて一瞬不安になったが、もう一人の少し肩の力の抜けた人物のほうはとてもよかった。伊知哉の後輩記者で、自分の所属組織に期待しすぎないいわゆる「現代的な若者」の役だが、「中年男性から見たステレオタイプ」ではないというか、冷笑的批判的に描かれた若者像ではないことはすぐに感じ取れたので、むしろこの作品にこの役を登場させる脚本・演出の巧さに感心させられた。空気の緩和を担う彼がいなければ常に緊張が途切れず、見ていて疲れてしまったかもしれない。佇まいが洗練されていて好感の持てるお芝居だった。
 近藤公園さん、映像作品でも、たぶん舞台でも拝見したことがあると思うのだが、こんなにもすごい役者さんだとは知らなかった。気がつくことができて良かった。

 丁寧に、思慮深く選ばれた言葉によって紡がれた本作について、私の浅薄な言葉選びによって土足で上がり込むように語ることになってしまったのは大変居た堪れなく感じるが、見て何かを感じたということを残しておきたかったため、ここに記録しておく。

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