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【読書録】『ある奴隷少女に起こった出来事』ハリエット・アン・シェイコブズ

今日ご紹介する本は、『ある奴隷少女に起こった出来事』(原題は、"Incidents in the Life of a Slave Girl ")。著者は、ハリエット・アン・ジェイコブズ("Harriet Ann Jacobs")氏。私が読んだのは、新潮文庫版。訳は、堀越ゆき氏。

この本は、約150年前に、米国南部の奴隷少女がペンネームを使って書いた、自伝的ノン・フィクション小説だ。しかし、実話ではなく著者不詳のフィクションだと考えられ、長い間、その存在は忘れられていた。それから実に120年後、歴史学者であるJ・F・イエリン教授が、本書が奴隷少女によって書かれた自伝であると証明した。それをきっかけに、ベストセラーになったという。なんとも数奇な運命を辿った作品だ。

以下、特に心に残ったくだりを記しておく。

 わたしの魂は、この卑劣な暴君を絶対に受け入れることはできなかった。でも、誰が私を守ってくれるというのだろう? 肌の色が、黒檀こくたんのように黒くても、奥さまのように白くても、奴隷の少女である限り、人間のかたちをした悪魔のような大人たちから加えられるはずかしめ、暴力、死から、わたしたちを守ってくれる法律など、どこにもなかった。夫が庭先で奴隷に不埒ふらちな行為をしていても、夫人は奴隷を守るどころか、嫉妬しっとと怒りの矛先を向けた。奴隷制から生まれる、品位の堕落、悪事、不道徳について、どんなに言葉をつくしてもわたしは言い表すことができない。

P48

 うつくしい少女が二人、遊んでいるのを見たことがある。一人は白人の子どもで、もう一人は彼女の奴隷であり、異母妹いもうとだった。少女がお互いに抱きついて、楽しそうに笑いあうのを見たとき、私は悲しくなって目をそむけた。小さな奴隷少女の心を、やがて確実に虫食むしばむ不幸が見えてしまったから。楽しそうな笑い声は、もうすぐため息に変わる。白人の少女は、うつくしい婦人になり、少女時代から大人にいたる道のりには、花が咲きみだれ、頭上にはかがやく太陽と青空が、彼女を見守っている。幸福な花嫁となるその朝の太陽が昇るまで、曇りの日などほとんどなかった。
 そのあいだ、奴隷の妹はどんな人生を送ったのか? 子どもの頃、一緒に抱き合い、笑いあった幼なじみの人生は? 彼女もとてもうつくしい少女だったが、花とも、太陽のようにそそがれる愛情とも、無縁の年月を送ることになった。迫害された人種に生まれたという理由で、罪と恥と不幸の毒を飲まされることになったのだ。

P51

 奴隷に関する秘密は、異端審問のそれのように隠されていた。ドクターは、私の知る限り、一一人の子どもを自分の奴隷に産ませていた。しかし、母親たちがその父親の名を口にしただろうか? また、ほかの奴隷たちがこっそりささやきあう以外に、それについてうわさしただろうか? そんなことは、絶対になかった! そんなことをすればどんなひどい目に遭うか、奴隷たちは十分知っていたのだから。

P61

(・・・)わたしがほかのひとを好きになること以上に、ドクター・フリントを激怒させるものは、わたしには思いつかなかった。ちっぽけなことかもしれないが、それはわたしがあの暴君に勝てる何かだった。ドクターは仕返しとしてわたしを売りに出し、わたしの友人であるその紳士のサンズ氏は、必ずわたしを購入してくれると思った。彼はドクターよりずっと寛大で、ひとの心がわかるひとだったから、そうなれば私はサンズ氏を通して、容易に自由になれる気がした。

P90

 わたしを所有しない男には、子どもの面倒をしっかり見てくれるよう頼むことができる。そしてこの場合、望みはきっと叶えらえる気がした。子どももきっと自由にしてもらえる気がした。こんな考えを頭の中にめぐらせながら、またそれ以外に、自分の恐ろしい運命から逃れる手だてを知らず、私は唯一ゆいいつの選択肢に、真っ逆さまに飛び込んだ。

P91

 良識ある読者よ、わたしを憐み、許してください! あなたは奴隷がどんなものか、おわかりにならない。法律にも慣習にもまったく守られることがなく、法律はあなたを家財のひとつにおとしめ、他人の意志でのみ動かすのだ。

P91

 自分が逃亡奴隷であることは、まだ夫人には打ち明けていなかった。わたしがよく悲しげにしているのを見て、夫人はそっと理由をたずねてくれた。子どもたちや、可愛がってもらった身内の者から、離れて暮らしているものですから、と答えたが、私を気落ちさせている、絶え間ない不安の正体については話さなかった。

P270

「売買契約書!」 ー この言葉は、思い切わたしを打ちのめした。とうとう私は売られた、、、、のだ! 人間が、自由なニューヨークで売られたのだ! 売買契約書は記録として残り、キリストが生まれ一九世紀経った終わりにも、女は取引用の商品だったと、のちの時代の人々が学ぶことになるのだろう。アメリカ合衆国の文明の進化を測りたいと希望する古物収集家にとっては、以後、有益な文書となるのかもしれない。その紙切れが意図する価値は十分にわかっていたが、自由を愛する人間として、目にする気にはなれない。その紙を手に入れてくれた寛大な友には深く感謝しているが、正しく自分のものでは決してなかった何かに対し、支払いを要求した悪人のことは、嫌悪している。

P315

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大変ショッキングな内容のストーリーで、時々、読み続けるのが苦しくなり、休憩を挟みながら読んだ。この話がフィクションではなく実話であることを考えるにつけ、重い気分になった。当時の米国南部が人種差別を前提とする社会であったとはいえ、人間がここまで同じ人間に残酷な仕打ちをしていたということに、戦慄を覚えた。

また、奴隷はあくまで所有物であり、財産のひとつとして、契約書を交わし、代金をつけられて、売買されていた。これは、たった150年前の出来事だ。もちろん、歴史上の奴隷制度の存在は、知識として知っていはいた。しかし、所有者に性的強要を受けても我慢するほかなく、モノとして売買される不安から一時たりとも逃れられなかった奴隷の苦悩については、本書に出会わなければ、遠い日本の平和な現代に生まれた私が、ここまでリアルに感じ取ることはできなかっただろう。

全ての人にとって、必読の書だと思う。ここまで読んでくださった方には、是非、本書を手に取っていただけると嬉しい。

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ところで、訳者である堀越ゆき氏による「訳者あとがき」は、必読だ。この本を読み解くための手がかりとなる情報が満載だが、とりわけ素晴らしいと思ったのは、この翻訳本の出版に至るまでの、訳者ご自身のストーリーだ。

ビジネスウーマンである訳者が、出張のために乗った新幹線の車内で、携帯電話を使ってKindleで『ジェイン・エア』を検索した際、偶然、本書の存在を知った。ダウンロードして「ちょっとだけ」読もうとしたところ、3時間の間、ずっと携帯電話をにぎりしめて読んだという。それをきっかけとして本書の翻訳出版を決意し、実際に出版にこぎつけたというのだ。

 翻訳者はおろか、文学者でも歴史学者でもなく、あまり自由な時間のない一般人の私が、古典を翻訳する愚については、何度も考えた。しかし、気づいた私が今やらなければ、いったいいつ、誰がやってくれるのだろうか。ジェイコブズに触れながら、彼女の経験を私だけのものとしてしまうことは、本書が伝えるメッセージに反するような気がした。(中略)
(・・・)少女時代の蔵書の中に、小林英雄が読書について述べた文章を見つけた。いわく、読書の目的とは、「書物から人間が現れる」のを見ることだと。(中略)二一世紀に本書から彼女が現れることを願いながら、今を生きる少女たちのために、翻訳作業を行った。

p337-338

彼女のように、偶然の運命的な出会いをきっかけに、何か世の中に役立つ行動に結び付けられるというのは、何とも素晴らしいことではないか。強く感銘を受けた。また、彼女の翻訳力が一流であることは、本書の読みやすさからして、疑う余地がない。まったく脱帽だ。

彼女のような活躍はできなくても、きっと読書の旅は、これからも、セレンディピティや新鮮な学びをもたらしてくれるはず。ますます読書が楽しみになった素敵なエピソードだった。

ご参考になれば幸いです!

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