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【読書録】『「怠惰」なんて存在しない』デヴォン・プライス

今日ご紹介する本は、デヴォン・プライス著の『「怠惰」なんて存在しない』(2024年5月、ディスカヴァー・トゥエンティワン)。訳は、佐々木寛子氏。

夜、仕事から帰宅して、パジャマに着替えたら、ついつい、スマホをいじって、だらだらとネットサーフィンをしてしまう。ハッと気がついたら結構な時間が経っていて、罪悪感に苛まれ、落ち込んでしまう・・・。そんな経験のある方は多いのではないだろうか。私も、そのひとりだ。

そんななか、この本に出会った。罪悪感、焦燥感まみれの状態を肯定してくれて、とても気が楽になった。真面目で頑張りすぎる傾向のある人にぜひ読んでほしい本だ。

以下、長くなるが、特に印象に残った箇所をまとめておく。

「怠惰のウソ」は深く文化に根差した価値体系で、次のことを私たちに信じ込ませている。
 ・表向きはどうあれ、本質的に自分は怠惰で無価値だ。
 ・怠惰な自分を克服するために、いつも一生懸命頑張らなくてはいけない。
 ・自分の価値は生産性で決まる。
 ・仕事は人生の中心だ。
 ・途中でやめてしまうこと、頑張らないことは、不道徳だ。

p15-16

 私たちは怠惰であることを恐れるよう教えられてきたけれど、そんな「怠惰」はそもそも存在しない。道徳的に退廃した怠け心が内在するわけでもないし、その邪悪な力のせいで人が理由もなしに非生産的になるわけでもない。限界を訴えたり休みを求めたりするのは、何も悪くない。意欲の低下や疲労感は自尊心を削る脅威ではない。むしろ、「怠惰」だと揉み消されるような感情こそが、人間としてとても重要な感覚であり、長期的に見れば、私たちが豊かに生きるために必須なのだ。

p17 太字は著者

 この本は、一般に「怠惰」として切り捨てられている行為を全面的に肯定し、社会から「怠け者」だと排斥されている人びとを全力で擁護する一冊だ。

p17

 人がエネルギー切れやモチベーション不足になるのは、ちゃんと理由がある。人が疲れたり燃え尽きたりしているのは、本人の内面に跋扈ばっこする恥ずべき「怠惰」に負けているからではない。むしろ、当たり前の要求をしただけでも非難されるような、仕事中毒な価値観が蔓延しているせいで、生きづらくなっているのが問題だ。

p18

「怠惰」のレッテルを貼られがちな3タイプ:
・抑うつ状態の人
・先延ばしにする人
・無気力な人
いずれの場合も、「怠惰」とされる行為は、実際には、困難を抱えた人がそれに対応するための技術であり、欲求や心身のニーズを踏まえて優先順位をつけた結果。限界まで追い詰められている人に「怠惰」な感情や行動が現れるのは当然のこと。

p76-84 要約

「怠惰のウソ」は、人が無理なく続けられる以上の生産性を目指すよう、私たちを焚きつける。その結果、多くの人が壊れるギリギリのところで生きている。

p85 太字は著者

 機嫌よく仕事に熱中するためには、だらだらとローフィングして過ごす時間が必要なのだ。それを「時間の無駄」だと見なすのは、トイレ休憩は道楽だから不要だと言うに等しい。

p91 太字は著者
ローフィングとは、文脈上サイバー・ローフィング=「ネット上でぶらぶらすること」を指す。

「怠惰」とされる行為をやりたくなるのは往々にして、一生懸命に働いた証拠であり、ひと息つくべきという信号なのだ。人が携わるほとんどの仕事には、振り返りや計画、クリエイティブなアイデアの発案などのための時間が必要だ。私たちはロボットやコンピューターではない。食べたり寝たりするのと同様に、だらだらする無為な時間も必要なのだ。「怠惰」になることを恐れるあまり、この充電への欲求を無視していると、深刻な事態を招きかねない。

p92

「怠惰」だと非難されがちな一見「悪い」行動は、実は警告信号であり、生活のどこかを変える必要を強く訴えているのだ。

p95

 何もしない、「怠惰」で非生産的な時間を大切にすると、人生の質が劇的に変わる。タスクをいくつ処理できたか、その数で自分の価値を測っている限り、自分にとって本当に大切なことには気づけない。社会からの「やるべき」というプレッシャーではなく、本当の気持ちに従って優先順位を決めれば、より自分らしく生きられる。

p117 太字は著者

 働きすぎは良くない。それで生産性は上がらないし、人に深いダメージを与える。今後もその有害性は明らかになるだろう。
 もう私たちはそんな有害な生き方をする必要はない。
 頑張るだけでなく休息やリラックス、何もしない時間を重視して、健康的でバランスのよい生活を築けるはずだ。新しい生き方を勝ち取ろう。

p148 太字は著者

 こうしたサイトやアプリを使えば、瞬時に満足感が得られる。習慣化して日常的に使わせる設計になっているのはテレビゲームと同じだ。
 さらに、「怠惰のウソ」が私たちに植えつけた渇望 ー 達成感や価値を確認したい欲求 ー をくすぐる仕組みになっている。
 こうしてタスクがゲーム化されることで、ユーザーは生産的な時間をどんどん増やそうとし、小さなトロフィーや市場価値の高い新スキル獲得のために使わない時間はすべて「無駄」だと感じるようになる。

p178
プログラミング学習や外国語習得サイトの普及の話をうけて

 ゲーミフィケーションが進み、私たちの生活のあまりに多くの側面がゲーム化してしまった。

p179

 それほど積極的にSNSを活用していない人でも、ゲーミフィケーションの引力には抗いづらい。FacebookやInstagramは、ユーザーが頻繁に衝動的に利用したくなるような報酬がアルゴリズムで設計されており、そのシステムにうまく乗れないユーザーは孤立させられ、声が届かなくなるよう調整されている。

p180

 こうして「他者とつながる」という人間の基本的な行為でさえ、成果に執着して頑張るプロセスになってしまった。人びとは常に、注目度、「いいね!」数、フォロワー数、影響力を張り合っている。そのせいで、あらゆる行為から喜びが奪われてしまう。

p180-181

 デジタルツールによって生活は便利になったものの、そのせいで維持すべきアカウント数や、気になる通知の数は無限に増えていった。SNSのアプリは、どんな人生経験も掘り起こして達成ポイントに変換せよという強いプレッシャーを生み出し、喜びを閲覧数に変えてしまった。
 生活上のほぼすべての活動は、記録し、測定し、成功を広報すべきものになっている。そうした強迫観念は精神衛生に有害だというエビデンスは山ほどあるにもかかわらずだ。

p200 太字は著者

 心理学の研究では、他者との競争よりも、自身の成長に意識を向けるほうがずっと健康的だとされている。誰がベストなのか、誰が一番生産的で、一番上手で、「いいね!」数が一番多いのか、常に競っていては疲弊してしまう。
 「怠惰のウソ」は私たちを不安にさせるのが大好きだ。そうすれば簡単に搾取できるからだ。一番になりたければ、立ち止まって息抜きなどしていられない。その隙に他の誰かに打ち負かされるからだ。このような世界観は有害でしかない。これでは、回復する余地もなければ、新しいことを試す余裕もなく、静かに内省の時間を過ごすこともできない。
 このような生き方をやめて、自分自身への思いやりを持ち、常にベストでなくてもいいと思えるようになれたなら、さまざまなゆったりした「非生産的」な活動に喜びを見出せるようになる。

p205

 「怠惰のウソ」は、人びとに極端な二元的思考を強いる。状況にかかわらずひたすら頑張るか、そうでなければ絶望的に怠惰かの二択を迫るのだ。

p224 太字は著者

 情報過多は、認知能力にも悪影響をもたらず。大量の情報を浴びると集中力が低下するという研究もある。情報が記憶にほとんど残らないのだ。(中略)
 逆説的だが、知識を頭に詰め込もうとしすぎると、かえって理解力や記憶力はダメになる。
 同様に、情報過多は意思決定能力にもダメージを与えている。情報を活用するには、その情報を熟考し、嚙み砕いて、既知の事実と矛盾しないか確認する時間が必要だ。だが、情報過多の状態では落ち着いて熟考できないために、判断ミスや間違いにつながる。

p225 太字は著者

<情報を制限する>
・フィルタリングとミュート機能を使う
・ブロックする(そして気にしない)
・見出しをさっと見て次へ
・コメント欄文化に取り込まれない
・就寝前にはニュースを読まない

<情報量を減らして吟味する>
・アクティブ・リーディングをする
・(リアルに会って)会話をする
・知らなくても平気になる

p226-241 見出しのみ抜粋

 人間は相互依存するようにできている。充実した人生には、社会的なつながりが不可欠なのだが、他者に失望されたくないと恐れるあまり、自分を安売りして、幸せを諦めてしまう人は多い。これも「怠惰のウソ」が「他者に何ができるかで人の価値は決まる」と説き、滅私の精神を要求するせいである。

p253

 安心できる本物のつながりを他者と築くには、相手の要求を怯えずに断れるようになるしかない。ノーと言っても大丈夫な関係性を作るべきなのだ。これは、過重労働や業務の押し付けを拒絶できるようになるべきなのと同じだ。精神的な負荷が高すぎると、過労と同様に人を壊しかねない。どちらの場合にも、解決するには、自分の心からの欲求を大事にすること、そして「断ったら怠惰に見えるかも」と不安がるのをやめることだ。

p253

 男性が同等に雑務をこなさない場合、残った仕事はたいてい女性が片付けている。「怠惰のウソ」を教え込まれ、性差別のある社会で何十年も生きてきた女性にとって、役割を降りる権利は自分にもあり、周りの男性のように自分勝手に振る舞っていい、とはとても考えられないのだ。

p264

 他者の期待に応えようと頑張るのをやめると、ようやく自分自身へと関心が向き、自分の価値がはっきり理解できる。そして、個人からの要求に抗える力をつければ、社会からの強い要求や重圧に対しても、抵抗できるようになる。

p287 太字は著者

 「怠惰のウソ」を奉じて、被害者を責める文化が蔓延しているこの社会では、差別や偏見の問題は、マイノリティ側が自力で解決するよう求められがちだ。

p294 太字は著者

「怠惰のウソ」は完璧を要求してくるが、完璧の定義は非常に厳しい上に恣意的だ。順応した身体、きちんと見栄えのよい生活、社会に役立つ「生産的」で立派な活動に満ちた一日、不満や反抗心とは無縁の人生など、こうした項目をすべてクリアしなければ、失敗したかのように感じる。
 そもそもが、失敗するようにできている。決められた理想に沿って私たちは優先順位を決め、忙しくあれこれ気にしては、自分の欲求やニーズに負い目を感じてしまう。
 けれど、こんな不公平な基準に自分を当てはめて測る必要はない。
 一歩引いて、「こうあるべき」だと社会に教え込まれた内容を見直すと、社会的要請の中には、本当に自分らしさとは相いれないものも多いと気づくだろう。
 社会に受け入れられやすい、わかりやすい、無難な自分になろうとして、もがく必要はない。こうした「べき」への抵抗は、私たちを強くする。抵抗は「怠惰」ではない。

p295-296 太字は著者

 長年とらわれてきた太ることへの嫌悪ファット・ヘイト体型を恥じる感情ボディ・シェイムを捨て去るプロセスは、長く複雑ではあるが、まずは自分の体型を変える努力をする必要がないと受容するところから始めよう。変わるべきは、あなたではなく、この社会の硬直した体型観や肥満恐怖のほうだ。

p303

(・・・)何かしら自分より優れている人はいるのだから、いつも自分を他人と比較して劣ったものと見ていたら、自分に満足できるわけがない。

p308 太字は著者

 「怠惰のウソ」は、相手の置かれた文脈を広く見ようとせず、独善的に判断してレッテルを貼ればいい、と言う。だが、もっと引いた視点から相手の社会的背景を考慮すれば、いい加減なステレオタイプではなく、複雑で多面的な人間として相手を理解できるはずだ。そうすれば、完璧な行動や高い生産性を他人に求めることもなくなり、何ができたか、何ができなかったか、にかかわらず価値のある人間として相手を捉えられるようになる。

p328-329

 私は完全無欠の生産用ロボットじゃない。そんな人はいないのだ。むしろ、自分の状況を敏感に感じ取って、挫折や失望に麻痺せずきちんと反応できるのは「良い」ことなのだ。

p329 太字は著者

 「怠惰のウソ」は資本主義と、特定のキリスト教の宗派に由来し、勤勉にすれば救われると説くものだ。今日、生産性や努力、達成について語られる際にも、この思想体系がベースになっており、そのせいで、私たちは何もしない時間を無駄だと思い込み、いつも何かで忙しくしている。その「何か」が何であれ、行動しないよりは倫理的に正しいはずだ、と思い込まされているのだ。

p330

 「怠惰のウソ」のせいで、私たちは際限のない熱狂的な個人主義へと押しやられ、内省や傾聴の機会は奪われ、静かな内面的成長の余地は失われる。

p331

 休息をとること、境界線を引くこと、「怠惰」に過ごしたいという内的感情に耳を傾けられるようになることは、それ自体が大切なのであって、そうすれば仕事がもっとできるようになるから重要なのではない。本当に自分の健康を優先していると、おそらく全体としての生産性は下がる。もともとが常に頑張りすぎだったからだ。自分を丸ごとケアできるとは、以前ほど多作ではなくなる可能性を受け入れ、それでいいと思えるようになることだ。

p334

 「怠惰のウソ」に抗えるようになるには、想像以上にたくさんの作業を自分で続ける必要がある。自分に優しく、人にも優しくし続けよう。そして、すぐに何かが変わるわけではないことも覚悟しておこう。「怠惰のウソ」を捨てる戦いは一直線には進まないし、敢闘賞のトロフィーがもらえるわけでもない。いつも道半ばで、完璧にはなれないだろう。
 でも、それでいいのだ。
 あなたはそのままでいい。それは誰も同じだ。

p337 太字は著者

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まず、ダラダラしてもいいんだよ、と言ってくれたことが、とても嬉しかった。資本主義などに由来する、勤勉を強いる社会。そして最近は、ネット社会での情報の氾濫、ゲーミフィケーションによる生産性の数値化などにより、一層拍車がかかっている。社会が規定する理想の姿と比べて減点方式で自分を追い詰めてしまう。

また、マイノリティーを「怠惰」と考えがちな社会にあって、他者に対しても生産性だけを基準として評価する危険性に気づかされた。私が10年以上身を置いている外資系企業では、特に、生産性信仰が強いと感じる。組織における評価基準が生産性であっても、その人の人間性を評価するものではない。改めて肝に銘じたいと思った。

この本を読んで心がけようと思ったことは、以下のようなことだ。

疲れたら、罪悪感なく自信をもって堂々とダラダラする。仕事や家事を完璧にしなければ、ダイエットをしなければ、という強迫観念を持ったとき、立ち止まって、「怠惰のウソ」ではないか?と自問自答してみる。社会の期待に沿って自分を追い込むのをやめる。自分の内なる声を聴いて、何が好きで、心地よくて、何に嫌悪感を抱くか、という感覚を大事にし、自分の軸を形成していく。

一見、怠惰に見える他者に対しては、その人が怠惰に見えてしまう事情が何かないのかを想像する。生産性以外の基準でその人の良いところを探す。ただし、他者に依存されたり利用されたりしそうな場合には、適宜ブロックするなりして、自分を守る。そうすることによって、他者も自分も大切にする。

私にとっては、この本はめちゃくちゃ心に刺さり、響いたのだが、この本が合わないタイプの人もいるだろう。

まず、既に、この本で書かれていることを、意識的にまたは無意識的に実践できている人。「怠惰のウソ」を見破り、他者や社会の圧に屈することなく、人生を楽しく過ごしている人。良い意味でマイペースな人。そういう人たちには、本書の内容は当たり前すぎるかもしれない。

また、やみくもにダラダラした生活を送りたいだけの人にも、向かないだろう。本書は、ただ単にサボることを推奨する趣旨の本ではない。まあ、そういう人はそもそも、本書のような自己啓発系の本に興味を持たないだろうが・・・。

本書の一番の想定読者は、「怠惰のウソ」に追い立てられて、終わりなき競争地獄に消耗している人や、他者や社会の期待に応えられないことに罪悪感を持ち、自己肯定感が持てず喘いでいる人だろう。そんな人にとっては、本書は救いの一冊となるのではないか。この本を読むことでセルフケアができ、深刻なメンタルダウンに至ることを防いでくれるのではないか。

また、他者を社会常識や生産性だけで判断してしまいがちな人にとっても、本書は、貴重な示唆を与えてくれる。他者それぞれの事情に思いを馳せて、一人ひとりを大切にする視点に気づかせてくれるだろう。

ご参考になれば幸いです!

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