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【読書録】『雨・赤毛』サマセット・モーム

今日ご紹介する本は、サマセット・モームの短編集『雨・赤毛』(新潮文庫)。冒頭の写真は、私が持っている文庫本で、昭和61年の44刷、中野好夫訳。

タイトルに記載されている『雨』『赤毛』のほか、『ホノルル』を含めた3編の短編集である。それぞれが短く、訳者あとがきを含めてもわずか152ページの薄い文庫本だ。

この3作の短編小説は、いずれも、名作だ。ストーリー展開が巧みで、いつのまにか、物語に引き込まれてしまう。そして、いずれも、どんでん返しが待っている。最後に「えっ?」と、混乱に誘われ、頭の中での反芻を迫られる、推理小説、ミステリー小説的だといえるかもしれない。

そして、背景や状況の描写が、素晴らしく巧みだ(翻訳の良さによるところも大きいのかもしれないが)。激しく降り続くスコールや、美しい珊瑚礁などの描写は、あまりにも鮮烈。物語に彩りを添え、ぐっと引き立てるスパイスのようだ。それによって、3作品に共通する、南国での男女間の感情の機微が、まるで目の前で展開されているかのようにありありとリアルにイメージできる。そして、知らず知らずのうちに物語に引き込まれていく。

以下、特に素晴らしいと思ったくだりを載せておく(一部ネタバレありのため、ご注意ください)。  

『雨』

マクフェイル博士はじっと雨を眺めている。漸く神経がじりじりしかけていた。あのしとしと降る英国のような雨ではないのだ。無慈悲な、なにか恐ろしいものさえ感じられる。人はその中に原始的自然力のもつ敵意といったものを感得するのだ。降るというよりは流れるのである。まるで大空の洪水だ。神経も何もかもかきむしるようにひっきりなしに、屋根のナマコ板を騒然と鳴らしている。まるでなにか狂暴な感情でも持っているかのように見える。人々は時々、これでまだ止まないなら、何か大声にわめきたてでもしなければいられないような気持になる。かと思うと今度は骨まで軟かくなってしまったように、急にぐったりとなるのだった。もうどうにでもなれといったみじめさだ。

p41

その間も雨は執拗な残忍さで降りつづいていた。もう空の水も種切れだろうという気がするのだが、それでも依然として気も狂いだしそうにナマコ板を鳴らしながら、無二無三に降り注ぐのだ。なにもかもみんなべっとり湿ってしまって、壁にも、床の上に置いた長靴にもカビが生えていた。眠れられない晩を、終夜蚊の群が腹立たしい唸りを立てていた。

p68

 だが彼女はぐっとこたえて居直った。そしてそれはなんともいえない嘲笑の表情と侮蔑に充ちた憎悪を浮べて答えたのである。
「男! 男がなんだ。豚だ! 汚らわしい豚! みんな同じ穴の貉だよ、お前さん達は、豚! 豚!」
 マクフェイル博士は息を呑んだ。一切がはっきりしたのだ。

p74

『赤毛』

海は濃紺青で、それが日没には、ホーマーの描いたギリシャの海さながらに、葡萄酒の色に変るのだ。だが礁湖ラグーンの中は、藍玉アクアマリーン紫水晶アメシスト碧玉エメラルド、それこそ無限の変化を示すのだ。そして落日は忽ちそれらを一面の金色の海にかえて見せた。それにまだ褐色、白、淡紅、深紅、紫、とりどりの珊瑚の色があり、さらにその形状に至ってはただ驚くより外はない。まるで魔法の庭だ。忙しそうに遊ぶ魚はいわば蝶々とでもいおうか、とにかくこの世のものとは思えなかった。

p95

暁の光が音もなく小屋の柱の間から忍びよって、相擁して眠るこの美しい子供ような恋人達の姿を垣間見たものだ。朝の陽はまるで彼等の夢を乱すまいとするように、破れた大きな芭蕉の大きな葉陰に隠れているのだ。だが、やがてあのペルシャ猫が前足を伸ばして戯れるように、彼等の寝顔に意地悪い金色の征矢を投げかける。二人はぽっかり眠そうな眼を開く。そしてまたしても新しい日を迎える喜びの微笑を浮かべるのだ。

p96

われながら落ち着かない声の調子が彼女にも気取られはしないかと彼は思った。だが女は、窓際の椅子に坐っている男に別に興味も無さそうに一瞥を与えたきりで、部屋を出ていった。その時、、、は来て、そのまま去ってしまったのだ。

p106

以前、まだこの彼を不幸にした女を憎んでいたころの彼であれば、無論喜んで云ってしまったろう。その頃はまだ自分が傷つけられたように、相手をも傷つけてやりたかった。憎しみもまた愛に外ならなかったからだ。だが今はそれもしたくなかった。彼は物憂げに肩をピクリと聳やかした。

p108

一体俺は何故この女をあんなに夢中に恋したんだろう? この女の足許に俺の魂の一切の宝を投げ出したのだ。だのにそれには一顧すらも与えてもらえなかった。浪費! 何んという浪費だ! 今彼女を見ながら、感じるものは侮蔑ばかりだった。もう我慢もなにもできなくなった。

p108

もう一度彼は肩をピクリと聳やかした。

p108

『ホノルル』

 かしこい旅行者は、空想だけで旅をする。(中略)こうした旅こそは、炉辺に坐ったまま、いながらにしてできる最上の旅であろう。夢を壊されることだけは、まず絶対にないからである。
 だが、(中略)場所によっては、なまじロマンスの香に包まれているばかりに、現実に行ってみると、つい幻滅を感じないわけにはいかないのだが、それがまたそれで、かえって一種奇妙な風味を添えているというような場合もある。ただ美しいというだけのものを期待していたところに、これはまた単に美しいとうだけではあたえられない、もっと無限に複雑な印象を見出すこともある。

p111-112

いわばここは、東洋と西洋の出会いの場所なのだ。おそろしく新しいものと、途方もなく古いものとが、仲よく肩を寄せ合っている。よし期待したようなロマンスはなかったにしても、奇妙に興味をそそるものはあった。これらの異邦人たちが、それぞれ言語を異にし、考え方を異にしながらも、なお互いに寄り添い合って暮らしている。信じる神も別なれば、価値観も異なっている。共通なものといえば、それはただ二つの情熱 ー 愛と飢えだけだ。

p114

おそらく彼女は、女にしては珍しい知恵、分別を具えていたのであろう。男があることを決心した以上、それと議論するのはむだである。いたずらに、強情に油をそそぐだけだ、ということを知っていたから、彼女は、そのまま黙ってしまった。

p135

満月に近い月が、暗い海の上に、一すじの白銀の光を投げていた。空には、雲一つなかった。彼女は、おびえきった眼で、月を仰いだ。それもそのはず、あの月が欠けおわるのといっしょに、愛する人が死んでゆくのだ。彼の生命は、いわば彼女の手中ににぎられてる。あの人を救いうるのは私、私だけなのだ。だが、敵は奸智にたけている。私も負けずに、うまくやらなければいけない。

p145

**********

これらの箇所を書き写しながら、モームの表現の巧みさに、改めて舌を巻いた。平易でわかりやすい文体であるにもかかわらず、細やかで抒情豊かな描写。リアルな臨場感で迫ってきて、私を虜にした。

これら3作品はいずれも、多くの人が手軽に楽しむことができる素晴らしい文学作品だと思う。

ご参考になれば幸いです!

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