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【読書録】『君たちはどう生きるか』吉野源三郎

今日ご紹介する本は、吉野源三郎著の『君たちはどう生きるか』。初出版は1937(昭和12)年。盧溝橋事件が勃発した年だ。私が持っているのは、岩波文庫の1982年改訂版。

著者の吉野源三郎は、1899(明治32)年生まれの編集者であり、児童文学者、評論家、翻訳家、ジャーナリスト。新潮社の「日本少国民文庫」の編集主任となり、本書をその1冊として刊行した。その後、岩波新書の創刊を主導し、雑誌『世界』初代編集長となり、岩波少年文庫の創設にも尽力した。明治大学教授、岩波書店常務取締役などの要職にも就いた。

本書は、そんな著者が、読者に対し、人としてどう生きるべきかと問いかける作品だ。2つの要素から構成されていて、ひとつは、中学2年生である主人公コペル君が、日々の生活において悩み、考えながら成長する物語。もうひとつは、そんなコペル君を、亡くなったお父さんの代わりに見守る叔父さんが、コペル君のためにノートに綴った長文のメッセージ。

今から80年以上前の本であるが、長く読み継がれている名著だ。最近は2017年に漫画として出版されたり、2023年にスタジオジブリによる同名の長編アニメ映画が公開されたりしているので、ご存知の方も多いだろう。

私は、若い頃に、誰かに勧められて、一度、読んだことがあった。しかし、内容はほとんど忘れてしまっていた。近年、何かと話題になったので、何十年かぶりに、もう一度手に取って読んでみた。

以下、特に印象に残ったくだりを書き留めておく。

(・・・)肝心なことは、いつでも自分が本当に感じたことや、真実心を動かされたことから出発して、その意味を考えてゆくことだと思う。君が何かしみじみと感じたり、心の底から思ったりしたことを、少しもゴマ化してはいけない。そうして、どういう場合に、どういう事について、どんな感じを受けたか、それをよく考えてみるのだ。そうすると、ある時、ある所で、君がある感動を受けたという、繰りかえすことのない、ただ一度の経験の中に、その時だけにとどまらない意味のあることがわかってくる。それが、本当の思想というものだ。

p53-54

 人間は、どんな人だって、一人の人間として経験することに限りがある。しかし、人間は言葉というものをもっている。だから、自分の経験を人に伝えることも出来るし、人の経験を聞いて知ることも出来る。その上に、文字というものを発明したから、書物を通じて、お互いの経験を伝えあうこともできる。そこで、いろいろな人の、いろいろな場合の経験をくらべあわすようになり、それを各方面からまとめあげてゆくようになった。こうして、出来るだけ広い経験を、それぞれの方面から、矛盾のないようにまとめあげていったものが、学問というものなんだ。だから、いろいろな学問は、人類の今までの経験を一まとめにしたものといっていい。そして、そういう経験を前の時代から受けついで、その上で、また新しい経験を積んで来たから、人類は、野獣同然の状態から今日の状態まで、進歩して来ることが出来たのだ。一人一人の人間が、みんな一々、猿同然のところから出直したんでは、人類はいつまでたっても猿同然で、決して今日の文明には達しなかっただろう。
 だから僕たちは、出来るだけ学問を収めて、今までの人類の経験から教わらなければならないんだ。そうでないと、どんなに骨を折っても、そのかいがないことになる。骨を折る以上は、人類が今日まで進歩して来て、まだ解くことが出来ないでいる問題のために、骨を折らなくてはうそだ。その上で何か発見してこそ、その発見は、人類の発見という意味をもつことが出来る。また、そういう発見だけが、偉大な発見といわれることも出来るんだ。
 これだけいえば、もう君には、勉強の必要は、お説教しないでもわかってもらえると思う。偉大な発見がしたかったら、いまの君は、何よりもまず、もりもり勉強して、今日の学問の頂上にのぼり切ってしまう必要がある。そして、その頂上で仕事をするんだ。

p94-95

 君のお母さんは、君のために何かしても、その報酬を欲しがりはしないね。君のためにつくしているということが、そのままお母さんの喜びだ。君にしても、仲のいい友だちに何かしてあげられれば、それだけで、もう十分うれしいじゃないか。人間が人間同志、お互いに、好意をつくし、それを喜びとしているほど美しいことは、ほかにありはしない。そして、それが本当に人間らしい人間関係だと、ー コペル君、君はそう思わないかしら。

p97-98

(・・・)君は、生産する人と消費する人という、この区別の一点を、今後、決して見落とさないようにしてゆきたまえ。この点から見てゆくと、大きな顔をして自動車の中にそりかえり、すばらしい邸に住んでいる人々の中に、案外にも、まるで値打のない人間の多いことがわかるに違いない。また、普通世間から見くだされている人々の中に、どうして、頭をさげなければならない人の多いことにも、気がついて来るに違いない。

p140

 君は、毎日の生活に必要な品物ということから考えると、たしかに消費ばかりしていて、なに一つ生産していない。しかし、自分では気がつかないうちに、ほかの点で、ある大きなものを、日々生み出しているのだ。それは、いったい、なんだろう。

p141

 英雄とか偉人とかいわれている人々の中で、本当に尊敬が出来るのは、人類の進歩に役立った人だけだ。そして、彼らの非凡な事業のうち、真に値打のあるものは、ただこの流れに沿って行われた事業だけだ。

p192

(・・・)君も大人になってゆくと、よい心がけをもっていながら、弱いばかりにその心がけを生かし切れないでいる、小さな善人がどんなに多いかということを、おいおいに知って来るだろう。世間には、悪い人ではないが、弱いばかりに、自分にも他人にも余計な不幸を招いている人が決して少なくない。人類の進歩と結びつかない英雄的精神も空しいが、英雄的な気魄きはくを欠いた善良さも、同じように空しいことが多いのだ。

p195

(・・・)過去のことは、もう何としても動かすことは出来ない。それよりか、現在のことを考えるんだ。いま、君としてしなければならないことを、男らしくやってゆくんだ。

p235

(・・・)あの石段の思い出がなかったら、お母さんは、自分の心の中のよいものやきれいなものを、今ほども生かして来ることが出来なかったでしょう。人間の一生のうちに出会う一つ一つの出来事が、みんな一回限りのもので、二度と繰りかえすことはないのだということも、ー だから、その時、その時に、自分の中のきれいな心をしっかりと生かしてゆかなければいけないのだということも、あの思い出がなかったら、ずっとあとまで、気がつかないでしまったかも知れないんです。
 だから、お母さんは、あの石段のことでは、損をしていないと思うの。後悔はしたけれど、生きてゆく上で肝心なことを一つおぼえたんですもの。ひとの親切というものが、しみじみと感じられるようになったのも、やっぱり、それからでした。

p246-247

(・・・)悲しいことや、つらいことや、苦しいことに出会うおかげで、僕たちは、本来人間がどういうものであるか、ということを知るんだ。
(中略)からだに痛みを感じたり、苦しくなったりするのは、故障が出来たからだけど、逆に、僕たちがそれに気づくのは、苦痛のおかげなのだ。
(中略)それによって僕たちは、自分のからだに故障の生じたことを知り、同時にまた、人間のからだが、本来どういう状態にあるのが本当か、そのことをもはっきりと知る。
 同じように、心に感じる苦しみやつらさは人間が人間として正常な状態にいないことから生じて、そのことを僕たちに知らせてくれるものだ。そして僕たちは、その苦痛のおかげで、人間が本来どういうものであるべきかということを、しっかりと心に捕えることが出来る。 

p251-252

 人間が本来、人間同志調和して生きてゆくべきものでないならば、どうして人間は自分たちの不調和を苦しいものと感じることが出来よう。お互いに愛しあい、お互いに好意をつくしあって生きてゆくべきものなのに、憎みあったり、敵対しあったりしなければいけないから、人間はそのことを不幸と感じ、そのために苦しむのだ。
 また、人間である以上、誰だって自分の才能をのばし、その才能に応じて働いてゆけるのが本当なのに、そうでない場合があるから、人間はそれを苦しいと感じ、やり切れなく思うのだ。

p252-253

 からだが傷ついているのでもなく、からだが餓えているのでもなく、しかも傷つき餓え渇くということが人間にはある。
 一筋に希望をつないでいたことが無残に打ち砕かれれば、僕たちの心は眼に見えない血を流して傷つく。やさしい愛情を受けることなしに暮らしていれば、僕たちの心は、やがて堪えがたい渇きを覚えて来る。
 しかし、そういう苦しみの中でも、一番深く僕たちの心に突き入り、僕たちの眼から一番つらい涙をしぼり出すものは ー 自分が取りかえしのつかない過ちを犯してしまったという意識だ。自分の行動を振りかえってみて、損得からではなく、道義の心から、「しまった」と考えるほどつらいことは、おそらくほかにはないだろうと思う。
 そうだ。自分自身そう認めることは、ほんとうにつらい。だから、たいていの人は、なんとか言訳を考えて、自分でそう認めまいとする。しかし、コペル君、自分が過っていた場合にそれを男らしく認め、そのために苦しむということは、それこそ、天地の間で、ただ人間だけが出来ることなんだよ。

p254-255

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人はどう生きるべきか、社会はどういう人々のどういう営みによって構成されているか、あるべき人間関係とはどういうものか、苦しみとはどう向き合えばよいのか・・・。生きていれば誰もが直面するであろう疑問や悩み、生きるうえでどういう視点が必要なのかという根源的な問いを投げかける。道徳的でもあり、社会科学的な側面もある。

中学生のコペル君を中心に物語が展開していくため、きわめて平易でわかりやすい語り口となっている。子供から大人まで、幅広い層の読者が、その内容を理解できるだろう。そうかといって、内容は全く幼稚なものではなく、大人にとっても、「ああ、その通りだなあ」と腹落ちする個所が多い。これは、とてもすごいことだ。

コペル君の叔父さんと、お母さんの、コペル君に対する深い愛にも、心打たれた。決して押し付けがましくなく、コペル君の気付きを褒め、コペル君の気持ちに寄り添い、問いを与えて考えさせながら、さりげなく励まし、エールを送る。なんと度量の大きい大人たちだろう。

今回、本書を再読して印象に残ったのは、学問の重要性について叔父さんが語るくだりだ。学問が重要なのは、人類が進化する過程で、先人が長い年月をかけて築き上げた人類の叡智を、現代に生きる私達がさらに発展させるためだ、と熱く語る。こう言われると、誰でも、使命感を感じ、奮起して、自然と勉強したくなるのではないだろうか。巷でよく聞くように、「良い大学に入るために、勉強しなさい」などと言われるのとは、あまりにも大きな違いだ。

この叔父さんは、「大学を出てからまだ間もない法学士」(p7)だという。おそらく、20代の若者という設定だろう。フィクションではあるが、若くして、精神的にとても成熟した大人だ。

私には子どもがいないが、悩める若き甥や姪から、親には言えない相談事を持ちかけられることがある。コペル君の叔父さんのメッセージは、今後、私が、若い人たちから人生相談を持ちかけられたときに、どう対応するかについて、大きなヒントを与えてくれた。

若い頃は、誰でも、自分の身近な狭い世界のなかで、一喜一憂しがちだ。そんな若い人たちに対しては、広い時間軸・空間軸で物事をとらえ、今の目の前の経験を、今後の人生にどう生かすかを考えるよう、導いていけるとよいなと思う。当事者の気持ちに寄り添いながら、押しつけがましくない形で、人生の先輩としての助言ができればよいなあ。

なお、この本について唯一、引っかかりを覚えたのは、「男らしく」という表現が、何度も出てきたことだ。例えば、「どんなについらいことでも、自分のした事から生じた結果なら、男らしく堪え忍ぶ覚悟をしなくっちゃいけないんだよ」「今、君としてしなければならないことを、男らしくやっていくんだ」(以上p235)、「自分が過っていた場合にそれを男らしく認め」(p255)などがその例だ。つらいことを堪える、やるべきことをやる、過ちを認める、というのには、性別は無関係ではないか・・・。とはいえ、この本の素晴らしさを考えれば、このような違和感は、些細なことではあるが。

この本は、老若男女、生きることについて考えるすべての方にお勧めだ。とりわけ、これから長い人生を歩んでいく若い方や、現在子育てをしている、あるいはこれから子育てをすることになるご家族の方にとっては、バイブルともなる一冊ではないだろうか。

ご参考になれば幸いです!

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