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【読書録】『春にして君を離れ』アガサ・クリスティー

今日ご紹介するのは、アガサ・クリスティー(Agatha Christie)の小説『春にして君を離れ』。原題は、"Absent in the Spring"

私が持っているのは、中村妙子訳のハヤカワ文庫版(冒頭の写真、右)と、原文である英語のペーパーバック(HarperCollins、写真左)。

アガサ・クリスティーは、世界的に有名な推理小説作家。名探偵ポアロやミス・マープルの生みの親として知られる。ご存知の方も多いだろう。

しかし、この作品は、推理小説ではない。アガサ・クリスティーが、本名ではなく、メアリ・ウエストマコット(Mary Westmacott)というペンネームを使って発表した作品で、夫婦や家族などの人間関係を主題とする小説だ。

ところが、この作品は、ある意味、推理小説以上に、ミステリーだ。身近な人々との人間関係に潜む欺瞞。ページが進むとともに、主人公が気づかなかった真実が、少しずつ明らかになっていく。先が気になり、ページを繰る手が止まらなくなる。そして、哀しく、恐ろしい結末が待っている。読んだ後に、心をかき乱される名作だ。自信を持ってお勧めしたい、クリスティーの最高傑作のひとつ。

なお、英語に抵抗のない方には、是非、英語の原文でお読みになることをお勧めする。比較的易しい英語で、すらすらと読めると思う。日本語訳でもとても面白いのだが、原文では、微妙なニュアンスが一層引き立ち、さらにこの作品の凄さを感じていただけるだろう。

(以下、ネタバレご注意ください。)

主人公は、ジョーン・スカダモアという、弁護士の妻であり、3人の子供を育てあげた専業主婦。いかにも、イギリスの良き家庭の模範的な母親といったタイプの女性だ。

そのジョーンが、バグダッドにいる病気の娘を見舞って、イギリスへ帰る途中、悪天候のため、砂漠の宿泊所に足止めされてしまう。何日間も手持無沙汰な時間を過ごすなかで、ジョーンは、自分自身や、円満だと信じていた家族関係について、抱いたことのない疑問を抱き始める。これが本作品のストーリーだ。

以下、備忘を兼ねて、私が特に心に残った表現を引用しておく。(ページ数は、冒頭の写真の2冊のもの。)

「何日も何日も自分のことばかり考えてすごしたら、自分についてどんな新しい発見をすると思う?」
 さあ、というように首をかしげて、ジョーンは微笑を浮かべつついった。
「自分自身について、これまで気がつかなかったことなんてあるものかしら?」

 (…) 'if you'd nothing to think about but yourself for days and days I wonder what you'd find about yourself—'
 Joan looked sceptical and faintly amused.
'Would one find out anything one didn't know before?' 

ハヤカワ文庫 p25 / HarperCollins p14

「(…)安易な考えかたをしてはなりませんよ、ジョーン。手っとり早いから、苦痛を回避できるからといって、物事に皮相的な判断を加えるのは間違っています。人生は真剣に生きるためにあるので、いい加減なごまかしでお茶を濁してはいけないのです。なかんずく、自己満足に陥ってはなりません。」

' (…) No lazy thinking, Joan, my dear!  Don't just accept things at their face value—because it's the easiest way, and because it may save you pain!  Life is meant to be lived, not glossed over.  And don't be too pleased with yourself!'

p137-138 / p92

「ぼくははっきりいっておく、エイヴラル、自分の望む仕事につけない男ー自分の天職につけない男は、男であって男でないと。ぼくは確信する。もしきみがルパート・カーギルを彼の仕事から引き離し、その仕事の継続を不可能にさせるならば、他日きみは必ず、きみの愛する男が不幸せな、失意の状態に喘ぐのを見て、どうしようもなく苦しまなければならないとね。きみは彼が時ならずして老いこみ、人生に倦み疲れ、希望を失っていける屍のような生活を送るのを見るだろう。それがきみの愛、いや、およそ女性の愛にして、その埋め合わせになるほどすばらしいものだと思いあがるなら、ぼくははっきりいうよ、きみは途方もないセンチメンタルな愚か者だと」

'You can take it from me, Averil, that a man who's not doing the work he wants to do—the work he was made to do—is only half a man. I tell you as surely as I'm standing here, that if you take Rupert Cargill away from his work and make it impossible for him to go on with that work, the day will come when you will have to stand by and see the man you love unhappy, unfulfilled—old before his time—tired and disheartened—only living with half his life. And if you think your love, or any woman's love, can make up to him for that, then I tell you plainly that you're a damned sentimental little fool.'

p190-191 / p127

 子どもたちについても、ロドニーについても、わたしは何一つ知らなかった。愛してはいた。しかし知らなかったのだ。
 知っていなければいけなかったのに。
 愛している人たちのことなら、当然知っているはずなのに。
 私がこれまで誰についても真相を知らずにすごしてきたのは、こうあってほしいと思うようなことを信じて、真実に直面する苦しみを避けるほうが、ずっと楽だったからだ。

  She hadn't known anything about her children, anything about Rodney.  She had loved them but she hadn't known.
  She should have known.
  If you loved people you should know about them.
  You didn't know because it was so much easier to believe the pleasant, easy things that you would like to be true, and not distress yourself with the things that really were true.

p249-250 / p165-166

 ジョーンはだしぬけに夫に駆けよって、ほとんど息を弾ませていった。
「わたし、ひとりじゃないわ。ひとりぼっちなんかじゃないわ。わたしには、あなたって人がいるんですもの」
「そう、ぼくがいる」とロドニーはいった。
 けれども彼は自分の言葉の虚しさに気づいていたのだった。
 君はひとりぼっちだ。これからもおそらく。しかし、ああ、どうか、君が それに気づかずにすむように。

  She came to him with a sudden rush, almost breathing, she said:
  'I'm not alone.  I'm not alone.  I've got you.'
  ’Yes,’ said Rodney.  'You've got me.'
  But he knew as he said it that it wasn't true.  He thought:
  You are alone and you always will be.  But, please God, you'll never know it.

p326 / p215

この小説は、大好きなので、何回も読んだ。その度に、いろいろな感想を抱いた。

まず、この主人公のジョーンに似ている人が、自分の身近に、沢山いるなあと感じた。

ステレオタイプな幸せ像を、無意識に周りの人に押し付けてしまいがちな人。相手が本当に何を望んでいるのかを、考えようとしない、あるいは、想像することすらできない人。おそらく、自分たちがそのような押し付けを受けてきたのだろうが、そういう人が身近にいるために、否応なしに翻弄されてしまうのは、古今東西、時代を問わず、とても不幸だ。

そして、ひとりで空白の時間を過ごすことの効用と、恐ろしさ。

膨大な情報や多忙なルーティンから切り離され、ひとりの時間ができると、自分自身について向き合うことができる。そうして自分を真剣に見つめ直すと、自分自身とりまく欺瞞に気づくことができる。真実を知るのは怖いが、大切なことだ。自分の幸せのためにも、周りの人に害を与えないためにも。家族と暮らしていても、ひとりになって考える時間は必要だ。私が一人旅を好むのも、自分と対話できる時間を欲しているからなのかもしれない。

そして何より、このストーリーのラストは、何度読んでも、日本語で読んでも英語で読んでも、衝撃だ。

家族の本当の気持ちに気づいてしまったにもかかわらず、以前と何ら変わらず、お気楽な妻を演じ続けると決めたジェーン。妻が真実に気づいたことに気づかず、妻を哀れと思いながら、表面上は妻を愛しているふりをする夫のロドニー。彼の最後のセリフには、ぞっとする。

この世の中は、家族でさえ、偽りの愛情で成り立っているのか。もはや、ホラーだ。さすが、サスペンスの巨匠、アガサ・クリスティー。

夏休みの読書にお薦めです。ご参考になれば幸いです!

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