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夜明け

 コットンにのせた化粧水を頬から迎えに行き、優しく置く。右頬からはじめて左頬、鼻筋、額。眉間はいつもひどく乾燥しているから、意識して十秒待つ。顔を傾けるのは化粧水の湖を垂らさないため。それから二日酔いの頭は、意思に反して水平を保とうとするためだ。

 昨日もよく飲んだ。よく飲んだという表現では物足りない気もするが他に言葉を知らない。酔っていない、時間をかけて量を飲む。少しずつ。吸い取る。休日の朝から、浅い湯船に沈んで、ひたすら酒を嘗め続ける。缶を傾け、苦い舌を大きく広げて表面から酒精を吸わせるのだ。できるだけ上面を水面にあてたい。だができない。そのような仕組みになっていない、お互いに。缶をくるくる回してもコインランドリーのように洗濯されてしまう。酒さえも重力ごときに逆らえない。こんなに、誰にも黙っていると約束しているのに。何度も、何度も手首を返して缶を回して、脳の理解がじんわり追いついてきて、妥協して捻った舌からじっと、彼らが入ってくるのを待つ。決して自ら、いいえ、そんな。少しずつ頭を傾けて、彼らの仲間に入れてもらう。敬意を持って沈んでいく。舌先から。

 正しい表記はアルコール中毒であろう。確かに、そうだ。明るい個室で、換気扇から漏れてくる外の音を聞きながら酒を嘗め続ける。必要なのに自動にならない。自ら舌を伸ばすよりない。

 「この美容クリームには二十九のノーベル賞の技術がつまっているんですよ」と、くっきりした二重の色黒の女は真面目な顔で告げた。笑わせようとしているのではない、と瞬時に悟ったが表情は少し出遅れたかもしれない。いいや、ひっこめ遅れた。だが女の強い瞳には何の揺れも現れなかったのでお互いによし、と頷いた。

 花の香りである。何の花かと問われると窮する、冬の花の香りである。フリージアや雪割草、白の中の白。だが実際にそんな光景を見たことはない。向かいの主婦が育てる庭も、冬はほとんど休業である。植木鉢に蜘蛛の抜け殻のように広がった、這いつくばる葉っぱがせいぜいだ。乾いた土の色と匂いを嗅ぎながら、だが女たちはみな、自ら花の香りを放っている。さまざまの香料がしいっと静かに、おとなしく、夜まで永らえようと。手を繋いで、目を閉じて、生活の横暴を耐えている。感情が匂いを拡散させる。何も考えてはいけない。

 感触はクリームというよりジェルだ。先日日焼け止めを買いに行ったカウンターでスポイト状の美容液を勧められ、それも確かに良かったのだが、今は他社のアレが気に入っているとは言えなかった。なにせ「二十九のノーベル賞」だから、とは。それにこの蓋は閉めやすい。ネジの凹凸が求め合うように絡みつき、手を貸してやるだけでいい、軽く。冬の花が閉じる。まさかここにノーベル賞はないと思うが。

 残念ながら下地クリームの蓋は開いている。ファンデーションもまた。金色のチューブが二本並んでいる。二十四時間くらいでは乾かない。そんなことでは戦えないとばかりに。真珠大。フォーマルに使える真珠は真円に近いものが理想とされています。本日はフォーマルではないのでバロックパールで良いでしょう。パールは年齢を重ねると小粒のものが似合わなくなり大粒に交換するのが良いとされています。ひとつの母貝に二つの核入れをするのが一般的ですが七ミリ以上の大きな核は一個入れにします。

 頭が痛い。昨日はやはり、飲み過ぎたのだ。人間で真珠を養うなら絶対に脳の襞だ。頭痛が頻発する人間のこめかみの少し上あたりはとても良い培地だ。体温が高く、常に膿んでおり、だが干渉しない。先の曲がったピンセットでつまんで核を埋め込む。耳から入れる? 鼻からがいいですか? 少し冷たく、患者はその瞬間圧倒的多幸感に包まれる。だがこれは危険なサインだ。神経に触れてしまったのだから。手術の初期に、死に最も近づいている。核をくわえ込んで二年待つ。この町では痛み止めがよく売れる。生理用、偏頭痛用、真珠用。閃輝暗点はマザーオブパールの輝き。おめでとうございます、お脳の真珠は順調に育っていますよ。

 目の前がギラギラし始めるから、頭痛のことを考えてはいけない。思考の入り口に立て札を立てていたはずなのに、また忘れて通り過ぎた。誰かが目隠しをしたのに違いない。さあ、別のことを考えるのだ、例えば、バオバブの木が貫く脳のことを。

 手早く下地とファンデーションを左の手の甲に出し、右手指で顔に撫で付ける。卵形のスポンジで優しく境目を消す。手の甲に残ったミルクホワイトとベージュを混ぜ合わせ目の下に重ねる。左目の下に小さな痣がある。これはこの星では咲かない薔薇なのだ。三丁目の交差点で行き違いになったと気がつかずに、王子を追ってやってきた。思考が混ざる。いけない場所に、冷たいピンセットが触れたに違いない。気が触れる、ピンセットが触れる。時計は午前四時を回っている。四時半にはなっていない。正確に描写しようとすると、時計から目が離せなくなる。一秒ずつ、時間は動いていて追いつくことはできないからだ。外は真っ暗で気温は一段と低くなっている。夜ではない。前借りした朝だ。昼と夜と朝は地続きで、そんなふうに区切ることはできない。眠りはそれほど特別なことではない。

 上を向いたカサブランカの形のランプが天井を淡く照らしている。ルースパウダーの丸い箱をひっくり返し、カサブランカもひっくり返る。イメージが止まらない。白い粉がパフの表面に落ち着くのを待つ。ひっくり返す必要はない、と別のカウンターの男は言った。商売用の薬指のリングを石の無いものに買い換えたばかりだ。骨張った指はオイルで光らせると余計に優雅だ。そのように神に作られた美しいもの、の時代は終わりつつあり、そのように人間が手を入れたものを我々は好ましく思い始めている。本人でさえも。春の企画書にもそう書いた。

「てのひらでトントンって箱の横を叩いてやればいいのよ。舞い上がった粉がパフに着くから、それでいいのよ」

 けれどその言葉を箱をひっくり返す瞬間には忘れてしまう。他の時には覚えているのに。何か別のものをひっくり返すたび、思い出すというのに。粉と一緒にパフの上に記憶が降りてくるというのに。

 鼻筋から頬の上を中心にパフを押さえ、大きなパウダーブラシで顔を撫でる。下から上に持ち上げるように。口元と小鼻のまわりは白い筋を作っていないか、鏡に顔を寄せて確認する。左目の下にはやはり、まだ咲かぬ薔薇がある。
 顔を近づけたままで眉を描くのは手早い。眉山からなだらかに優しさを書き加え、眉がしらに落ち着きを足す。ペンシルは二色。榛摺色とソフトグレー。後者は本当はアイライナーなのでつき過ぎないように軸の尻を持って、軽く撫でる。下を見てビューラーのゴムの間にまつげを挟む。根元に強くくせをつけ、瞼を持ち上げてもう一度挟み今度は手首を返してすっと抜く。

 鏡から目を離さず、ペンシル立てからピンクの軸を抜きながら迎えに行くように(またか)軸を回しまつげ全体に透明の下地を塗る。ブラシはとても細い。乾くのを待たずに黒いマスカラを塗る。次のブラシはとても太い。下まつげには軽くいなす程度に。大事なのは瞬きをしないことだけだ。大事なのは糊をつけ過ぎないことよと、ある偉大なコラージュ作家は言った。九十歳を超えたコラージュ作家は車椅子の上で美しく遠い目をしていた。

 だがミクロの仕事を待つのは、実は難しい。顔が近づき過ぎて、鏡の余白が大きい。部屋はまだ青く、カーテンは遠く柄もわからない。その間に、青い空気の中に、白いシーツを頭から被ったゴーストが立っている。シーツの波の下から無作法ににょっきりと、たくましい腕が垂れ下がっている。目を閉じれば消える。だが、それはできない。

 そうしてぼんやり見つめているうちに、それがコートハンガーと垂れ下がったカシミヤのストールだとわかってくる。いいや、わかっていたはずだ。いいや、知らなかった。この部屋には誰もいない。あれが幻覚でも本物でも、構わない、結局は。瞬きを禁止するだけで勝手が起こる。

 背後に気をとられて、瞬きをしなかったかどうか忘れる。だが鏡の中にマスカラの汚れは見つからない。小さな金色の長方形の箱を開く。外装は同じで、開けてみるまで色はわからないが今日は最初の二つとも正解を引き当てた。ミルクベージュと紫寄りのブラウン。アイシャドウの箱に綿棒のようなチップは内蔵されているが使ったことはない。つくし筆をペンシル立てから取り、ブラウンで瞼の線を影の補強して往復する。基本的に化粧は一方通行だが瞼だけは扇状に行き来する。ブラウンに重ねるミルクベージュは指で、普段なら。だがここで鉄の檻のようなまつげに阻まれる。なぜマスカラを先に塗ってしまったのだろう? もう何年も毎朝、時には夜も、繰り返している手順なのに。行き先をなくして、檻の中の黒豹のように指が瞼の側をうろつき、おざなりに眉下に触れる。気がつけば左目だけにブラウンの影が入っている。影を作るだけで目は大きくなる。視覚に頼ると影は本体に組み込まれる。

 その不思議に目を奪われているうちに、すべては手遅れになっている。

 眠気は津波だ。知らぬ間に背後に高く聳え水平線は天空にある。白い両手が背後から両目を覆う。指が食い込む。眼球をよけて長い爪は脳に達して神経を引きちぎる。ダイナマイトなら爆発している乱暴さで。北斎の水飛沫こそ眠りであった。

 そうして体は背後に反るのに、分離したように、重力のなすがまま重い頭はドレッサーに落ち、背中がついて行く。ペンシルのすべてとラメに汚れた小さな箱たちが床に跳ね、半分は蓋が開き、さらにそのうちの半分がブラシを吐き出す。長い髪が腕に巻き付くように垂れる。このような乱暴な入眠にもかかわらず、時間は波打つことなく一切が静かだ。世界は添い寝する。

 だが当然眠らない者もいる。不眠を継承する女たちが、ありとあらゆる窓と扉を開けて部屋に侵入する。白い手と白い足を使い野蛮に闖入する。十二人、全員が黒い滑らかなドレスを身に着けていて手袋はない。

 女たちはスカートを少し持ち上げて歩く。一歩進んでは両足を揃え、次の一歩を出す。スカートの裾からちらりと覗くつま先は蹄のように分かたれている。ドレッサーを半円型に取り囲み、鏡に映った女が裂け目のようなポケットから赤い糸を取り出す。そしてドレッサーに落ちた女の頸にするりと通して交差させ、引き絞った。赤い糸は頸を絞めそのまま切り口へと同化する。忍び込む。飴を切るようにぬるりと柔らかく。

 ごとん、と落ちるのは体を伴った頸の音で(断面はすもものように赤い)体を失った頭は別の白い手によってすでに捧げ持たれている。

 拾われたアイシャドウは正解だ。見分けのつかない金の蓋をどうして選り分けるのか、女は正確にそれを拾い、別の女が星空色の軸をした筆を取る。

 馬毛の先にブラウンの粉をすくい取る。はっきりとした厚みのわかる量だ。だが女が女の生首を持ち上げ、女が女の瞼に押しあてる時、毛の中に照れたように粉の大方は隠れてしまう。跳ねるように、弾くように、筆をあてる。飛び散る前に別の指がベージュのアイシャドウを押さえる。

 灰リスのブラシでチークを大きな湖のように広げる。静かに、決して、領土拡大を気取られぬように。にじんでいく。花にはない朱赤、だが印象は圧倒的に濃い青の夜空だ。

 親指で唇を少し、開かせる。繰り出したリップブラシの先に血の玉のような赤い油をとり、唇になじませる。女は少し迷ったのは、それが自分の唇ならば、上下を軽くこすり合わせるか舌先で嘗めるせいである。生首と同じ顔の女の口づけは合理的だが成就されなかった。女はブラシを細かく往復させて唇を塗り潰した。次に硬い口紅を重ねて左の唇の山から、赤い唇を描き出す。筆先が縁取る緩やかなハート型をまねる腕の形で、新しい白い腕が上から頭を包む。広がった髪を優しくよけて、窓を垂れる雨のように伸びる指先には、ヒジャブのように被せられたコットンだ。あるいは仮面、セオリー通り前面を顔面とするならば。そう、仮面なのだ。

 女は女の顔を覗き込んでいる。女の頸を支える女が、見やすいように少し傾けてやる。女の唇が歪まぬように、女が親指で顎を軽く押さえる。同じ顔の女たちの中心に花蕊のように同じ顔の女の生首がある。

 乳液に浸されたコットンが小さく、円を描くように、赤い痣をなぞる。ずっととれなかった染み、異界から打ち込まれた錨、咲かない薔薇。それはコットンに優しく写し取られる。汚れのように、今跳ねたばかりの新しい返り血のように。

 白い手が小さな陶器のポットと白い筆を持ち出す。コンシーラーで丸く、丸く、生まれたての肌を隠す。円環が閉じ、女たちは長いまつげを伏せた。女たちはゴンドラのように目を伏せたまま、おのおの窓から出て行く。入ってきたのとは別の扉から。静かに、散らばった形に道具を置いて。

 赤い糸の女がそっと頸を肩に置いたがすももに似た女の断面はいつまでも滑った。同極の磁石のように重ね合わせる一瞬で互いを逸らした。両側から手を伸ばし、結び合わせることでしか世界は存在しないのに。

 一度窓から出た女が二人、雪柳の枝を抱いて戻ってきて、女に活けるようにそれを置いた。もうずっと客のない家に咲いていて、幻だけが優しく摘む花、そういう噂だ。白い花が流れ星のように弧を描く。女に星が流れ込む。見ていても、ずっと見ていても、何度願いを呟いても流れ星は注ぎ込み、女は補充され続ける。

 一方で完成した頸は同胞が持ち去り、夜が明けるまでにずっと遠くに行ってしまったのでもう見つからない。

(了)

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