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第七冠まで参りましょう山頂ならばすぐそこの

 また賽賀(さいが)さんのところにお客さんが来ている。ポットもコーヒーも頂き物のカステラも彼の部屋には揃っているけれど、わたしはちょっとだけ、毎回ちょっとだけふすまを開けて彼らの姿を拝むことにしている。部屋にストールを忘れただとか、スーパーに行くけど今夜はお鍋でいいですか? とか。あら信二さんお久しぶり。

「お邪魔しています、奥さん」

 信二さんはこんなにあかるいのにもう酔っている。ほがらかな笑顔に湯気がたちそうだ。肉の厚い顔は酒で内側から照らされ光っている。白くて太い大根のような腕を見せつけ腕まくりしているが実際に熱いのだ。この冬に。火照っている。それは恋ゆえである。見よ、あのきらきらした瞳を。舐めて舐めて舐めまくっててりてり皮のむけそな唇を。信二さんは賽賀さんに恋をしているのだが、彼が男だから、結婚しているから、我慢してやっぱり賽賀さんの小説を読み、その才能に恋して、才能に恋しているのだと自分を納得させて、酒を飲み、腰を下ろして、いやしかしやはり賽賀さんに会おう、新作の感想を言うだけだものと自分を騙して、庭の小道を通り抜け、彼の書斎のフランス窓から、よう書いているかいと声をかけるのだ。
 賽賀さんは笑顔で彼を招き入れる。彼は信二さんの恋心には気づいていない。いや、気づいている。いや、気づいていない方がいいな。わたしは信二さんの赤い顔を見ながら考え、そこで止す。あんまりひとつの妄想ばかりを深めては、他が面白くなくなるからだ。賽賀さんにはお客が多い。彼らは最初はきちんと玄関からやってくる。刷りたての新刊をぎゅっと胸に抱いて。ひとりだったり連れだって来たり。少年も青年も、代理だといって来る者もある。きっと彼をつかわしたのはロマンスグレーの金持ちだろう。みんな緊張に頬を染め、あるいは瞳を野生動物のように光らせやってくる。そして次からフランス窓へいそいそと向かう。まるで自分だけの道のように。
 わたしが買い物に行ったと知ったら、なにか進展はあるかしら? 信二さんはいよいよついに、心を打ち明ける勇気を持つかしら?

 ふすまをぴったり閉めても気配ばかりが気にかかる。沈黙。衣擦れ。信二さんが座布団の上で重心を変える。左手を畳につき、賽賀さんの方に体を傾けたのだ。酒臭い息を気にして、でもそれの助けを借りなければならない、信二さんのいじらしさ。
「でもあの医者の場面は良かったね」
 もう、いくじなし。

 雪の朝、呼び鈴にドアを開けると初めての少年がふたり立っていた。色の白いほっそりとした綺麗な子と、眉毛ばかり目立つじゃがいものような男の子だ。わたあめのような息を吐き出しながら何時頃来れば賽賀先生のお邪魔ではないでしょうかと尋ねるのだ。賽賀さんに情熱を燃やすファンのほっそりに、恋するじゃがいもが心配でついてきたのだと勿論思ったがそれではあまりにひねりがない。そんなことでは納得できない。もしかするとふたりは昨晩、どちらが賽賀さんを理解しているかで夜通し議論したのかもしれない。本屋で出会った淡い恋人同士は才ある小説家のおかげで結びついたが、今や喧嘩や一触即発二匹の子鼠。

「今も起きていらっしゃいますよ。さあどうぞ」

 ほら、揃って目が赤い。少年たちは抱えきれない思いをどうにかしたくて夜の続きからやってきた。

「朝からおじゃましてもうしわけありません。母が賽賀先生の大ファンなんです。誕生日が近いのでサインをいただけたらと思いまして……」
 じゃがいもが朝礼のごとくはきはき言った。賽賀さんは笑いながら彼らを招き入れ、わたしに朝食のオレンジといちごを用意するよう言った。そんなビタミンばかりで、精力的に長編小説を発表し続ける賽賀さんを不思議に思ったこともあるけれど、いまはわかる。作家の部屋を珍しそうに見あげる少年たち。彼らの肩に賽賀さんの痩せた大きな掌が乗る。熱っぽい少年ふたりを両腕に抱く。ねまきの胸もはだけたままで。新鮮なエネルギーが皮膚から皮膚へ。はっきりと見える。


 お客さんが重なることも珍しくはなかったし、彼の書斎で、居間で、文学青年と編集者が幸福な出会いをすることもあった。彼はとにかく読者に愛された。熱の籠もったファンレターがたくさん届く、その点では第一等だと編集の吉祥寺さんもよく言った。稿料よりも読者が多いとわたしもうすうす感じていた。

 だが今日は少年たちがいる朝、わたしは彼女を通さなかった。
「あいにく、来客中でして……」

 女の客も来るには来るがそれはだいたい一度きり。わたしを見てハッと顔を凍らせて、何かが途中の頼りない表情になってしまうのだ。賽賀さんが出かける晩が増えることもあるけれど、よそで起こっていることは、あんまり本当とは思えなかった。玄関を出ると急に世界が白紙になるような、ページをめくってもめくってもそこには何もないような。この女性は二度目だった。口許のほくろと、それを際立たせるくっきりとした口紅のひき方があまりにも特徴的で。

「いいえ今日は奥さんにお話があります」

 口紅さんはそう言って、立派なお胸でずいと押してきた。わたしは彼女を居間に招き入れ、背中を丸めてお茶を出した。賽賀さんと少年たちの幸福な笑い声が聞こえてこないことを祈った。

「わたし、こどもが出来ましたの」

「じゃあそれはお止しなさい」

 火のをついたタバコをわたしは奪った。細い煙と静寂が立ち上る。居間に紫煙がたなびくのはこれで二度目だ。結婚して最初の夜、わたしの顔が曇るのを見て、賽賀さんは書斎以外で決してタバコを吸わないと誓ったのだった。とっくに、お胸と一緒に立派なお腹も見えていた。ただ意識がそれを避けてしまった。一瞬のこと、わたしらしくもない。彼女はこの家にいるのに。わたしの家に。わたしが描くページの中に。ふと、ヴィジョンが立ち現れた。居間をかき消すほどの、めくるめくまばゆさ、巨大さで。飛んだ。外へ。

 それは当然想起される、夜の秘め事の場面だった。賽賀さんと口紅さんは見知らぬ家のベッドの上で、お互いの衣服をはぎ取った。ところがぽろりと、口紅さんの立派なお胸が賽賀さんの貧相な腹の上に落っこちた。水風船のやわらかな嘘。中には愛らしい金魚が一匹泳いでいた。賽賀さんは驚いて叫ぶ。きみは男だったのか! 口紅さんは恥じらいシーツをかき寄せるが賽賀さんは許さない。なぜなら彼は、そっちの方がお好みだからだ。良かった、それはまさに両者勝者の関係だ。ふたりは激しく愛し合い言葉でも睦み合う。絡み合う。常人とは違う方法も使うのは、口紅さんもまた作家だからだ。彼は賽賀さんの才能に仰天し愛さずにはいられずに、身分を隠して訪った。口紅さんの正体は名を書けば皆が知る、大作家なのだから。
 彼らは才能に満ちていた。もはや人間の理解を超えていた。体の動き、音の響き、言葉の雌雄を上手に合わせて、彼らの才能はひとつの受精に成功し、愛と文学の胎児をこしらえたのだった。賽賀さんは水をすくって塩を入れ、口紅さんは予備の水風船に塩水と胎児を流し入れふたりで抱いた。ただ愛と才能が彼らを動かした。生まれる前の小説の扱いに彼らが慣れていたことは、胎児のために良かった。口紅さんは直しきれない化粧を直し、服を着て、再び水風船をお胸に戻した。お腹にも入れた。実際の女よりもよい位置に、よい形に。

「わたし産みますわ」

 口紅さんはしずしずと言った。

「ぼくでもよろしいのに」

 賽賀さんは少し残念そうに言い、口紅さんのお腹を撫でた。水風船は小さくて、まだ、服の上からでは何ともわからない。微笑みながらも口紅さんのすこし汚れた唇は震えている。愛おしいものを腹に抱き、それを愛する男が慰めている。だがまだ何か恐ろしい。得体の知れぬ革命的なことを、男の体でいま、受け止めようとしている。もし最初から女に産まれていたら、これをただ喜びと受け止めることができたかしら? それとも? 口紅さんは家に帰り妻にあれこれ尋ねたかったがそれは出来ない相談だった。妻は背広についたおしろいの残り香に醜く顔をしかめたが、移り香と信じ、夫が途中で着替えたとさえ思い至らなかった。ましてやその前の大事業は。口紅さんの小さい息子が彼にまとわりつく。口紅さんはその幼子を見るだけで涙が溢れた。

 そしてわたしもまた、口紅さんの決意を思い、ふたりの愛と才能の胎児の実在をそこに感じ、彼/彼女の将来と世界の変革と困難を極めるであろう生の道のりに思いをはせ、涙がほろほろとこぼれるのを知った。口紅さんはわたしの気持ちを測りかね、手持ちぶさたに、バッグの留め金を開けたり閉めたりしていた。庭の雪が眩しく溶けはじめ、閉じ込められた色と音が再生していた。

「奥さん、お金が欲しいんですよ。いろいろ入り用ですからね。賽賀さんをくださいとまでは言いません。黙って帰るつもりです。まとまったお金をいただけさえすればね」

「はい」

 わたしは両手で涙を頬に押し当てながら頷いた。涙が太陽のように熱かった。

「ええ、もちろんですとも。わたしに出来ることなら何でもさせて頂戴。本当によく決心なさったわね……」

(了)


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