野中の手

野中の夜道。ヒトの手が落ちていた。
えッと思う間に、走り過ぎる。
身をよじって振り返ったが、闇、闇、闇。急いで視線を前へ戻し、ふらついた車体を立て直す。考えを、まとめようとする。
手が落ちてるはず、ないじゃないか。長時間の運転で、疲れたんだ。
思う端から。すっきり伸びた指の輪郭が思い出される。平を上に向けて。手首のやや先で切れていて。
マネキンだ。または彫刻か。
そう思おうとしたときに。車内に。自分ひとりでないことに気がついた。
後部座席に、人影があった。
「失くし物をしたんです。」
背すじをすっと伸ばす座り方をする、着物が合いそうな女だった。膝に乗せられた腕の先は、闇で見えない。
「そうですか。」
あたりさわりなく、できるだけ密やかに返事する。まずいモノと遭遇してしまった、本能がアラートを鳴らしている。やり過ごす方法を必死に練る。
「夫は怖い人なんです。」
聞えているのか何なのか、女はやや俯いたきりで、目前の一点を見つめている。髪間にのぞく肌が白い。
「この辺りに、あると思うのです。」
さまよっても、なお探す物。それは決まっている。さっき行き過ぎたアレ。アレを見たとき、憑かれてしまった。自分は体が震え始めた。
「探してくれませんか。」
細い声が言う。自分はミラーを見た。女は視線を伏せたまま。自分には気づいてないのかも。応えず、刺激せず、見ぬふりしよう。そのうち、現れたときと同じように、ふっと迷い出て消えるかも。
そのとき。
女がとつぜん顔を上げた。目が動く。口が開き、同時に大きくなる。飛びかかられた、遅れて気づいた。
「どうして、探してくれないんですか。」
かぼそい腕で、自分を座席ごと抱き締める。手がハンドルから引き離され、焦ってブレーキを踏み込んだ。とたん加速する。しまった、アクセルと間違った。車は野中を驀進する。足を離した。なのに止まらない。
全身がイヤな汗を搾り出した。
もがいても叩いても、女の腕は万力のよう。ぎりぎりと体を締めあげてくる。女の左手、きれいな爪が、服を刺し腹肉に食い込んでくる。どこからともなく血の臭い。女の右手は咽喉を圧(の)す。丸い手だ、気道をつぶしてくる。
探す、と答えたくても声が出ない。それどころか、息ができない。窒息する。
「いや、違う。」
女の声が一変した。
「探す、どころじゃない。切ったのはお前。私の手。お前が切り落とした。とぼけるのか。忘れたふりか、そうはさせない。」
何を言ってるんだ、カン違いだ!
叫ぼうとしても、咽喉が働かない。シートにじんわり温かいもの、失禁だ。自分、全身がわななき出す。
車は、爆走し続ける。


近道なんか、するんじゃなかった。心の底から後悔する。
確かに高速はジャムってたけど。降りたとこもラッシュで混んでいて、抜け道狙ったのがマズかった。
ヘンな道に、迷い込んでしまった。
自分の車のライト以外、明かりのない野道をえんえん走っている。ナビはときどき曲がれと指示してくる。は?ここ道なんか無いじゃない?!ハンドルを切ってみるとライトの中、ぼろぼろの路面が浮かびあがる。いちおう、道。
そんな中を、さっきから走っている。キラキラと、かなたに光。よかった対向車だ、なんかホッとする。近づいて気づく。車じゃない。ガードレールに貼られた反射板だ。
もうやだ、こんな道。こんな田舎。
幹線道路、走ってりゃよかった。
今、どの辺りかも分かんない。
途中でなんか不安になって、太そうな道へハンドル切ったのが、今から思えばミスの上塗り。ナビのやつ、しきりに混乱して、やがてこの道を直進と指示を変えた。ほかに道なんか無いからな。到着予定時間、急に延びた。で、道もぐんぐん細くなってきた。やってらんない。
なんか、山道に入っちゃうんじゃないだろうか。右手の小山の連なりが、急に近くなってきた感じがする。寄ってみると意外にデカい山。
まあ、ナビがあるから、大丈夫。
ふいに辺りがひらけてきた。野っぱら?相変わらず街灯もないけれど、両側が木じゃないだけ、なんか明るい。体の緊張がほっと緩む。あちら、こちらに家の影。寝静まって生気もないけれど、でも人家があるだけ心強い。この辺の人、夜早いんだなあ。ウチの辺なら深夜でも誰か起きてる。
通り過ぎた家、1.5階建てみたいだった。屋根が地につくほど傾いでる。冷水を浴びせられた心地がした。次に近づいてくる家をじっと見る。たちまち行き過ぎる。でも、いちお見えた。崩れかけた壁。
この辺り、…みんな廃屋なの? 
緩んでた気持ちがギュッと締まる。
落ち着け、落ち着け。地方の村だろう。この辺、きっと過疎って…て、どこだろう、ここ。高速で通過するはずだった場所、分かんないよ。でもナビがあるから大丈夫。
と見たら。ナビの現在地が、静止していた。
ぎょっとしてブレーキを踏み込んだ。後続もいないド田舎でよかった。ナビ、つついてみる。反応しない。電源切ってみる。再起動を待つ。出た、現在地。いや、そんなはず無い。高速の横だなんて有り得ない、壊れてる。
エンジンを止めた。スマホを取り出す。…圏外。ウソ、なんてド田舎!
笑った声が車内にこだました。今、どこ、ここ。地図なんて積んでない。どっかに標識か何か。いや、大丈夫。ここは道路。走っていけばどこかには着く。狭い日本、そんなに土地、余っちゃないって。ただ、この道、ギリギリ細くて。…引き返したくても向き、変えらんない。…イヤだなぁ。
何気なく右を見た。民家が一軒。窓ガラス破れて、枠が朽ちてる。窓枠が木なんて、そりゃ腐るよねえ。
そのとき、もっと近い窓で何か動いた。人けにホッとするよりギョッとした。カーテンが開いたんだ。なんだ、誰かいるのか。月の光に――月光が明かり代わりになるなんて知らなかった!――カーテンをつかむ手がほの白い。いや、ちょっと待て。あれは右手。あの角度なら、真正面に手の主がいるはず。なのに、そこは闇だ。ヘンだ。異様だ。
それにあの指、カーテンをどけているんじゃない。しっかりと握りしめている。ぶら下がってるんだ、カーテンから。で手首の位置で…ぶつりと切れて、…。
反射的にエンジンをひねった。動くまでが遅い。すぐ真横で、何かが動いた。あの手が来ていた。爪が長くて指が細い、たぶん女の手が、車の窓に引っかかっていた。指をヤドカリの足のように動かして、窓ガラスをよじ登り出す。窓は、上がほんの少し開いていた。手だけならちょうど通れるくらいに。
そのとき手は、指を滑らせた。ガラスの上を落ち、窓枠にしがみつく。こっちを見る。
ぎゃああ。
自分の声と思えない叫び声が、車の中に響きわたった。
アクセルを踏む。ハンドルを右、左と激しく切る。
手は、ぽろりと落下した。ミラーの中で、それはみるみる遠ざかる。一瞬丸まった。それから猛烈に追っかけてくる。速い。距離がみるみる縮まっていく。
ぎゃああ。
咽喉をつく悲鳴をそのままに、アクセルを全身で踏みしだく。
暗い。
次々現れるコーナーや木を、火事場の馬鹿力、かわしながら、生まれて初めての速度で走る。振り向いたら、まだあれが追っかけて来てる気がする。
しばらく経った。木立を抜ける。ひらけた野っぱら、まっすぐな道。遥か彼方に穏やかな山なみが、夜空に稜線を見せている。尾根にならぶ鉄塔の赤い光。そのふもとには光の筋が、右から左から行き来してる。ああ、あれは幹線道路だろう。ホッと気が抜けて、同時にとつぜん笑いたくなる。何あわててたんだ、現代(いま)の日本で。
大きく息をして、で気がついて、速度を少し低下させる。ハンドルから手を順々に放して、肩を軽く回す、手首を振る。ああ、バカだった。なんかパニクッてた。大丈夫、この野をまっすぐ走り抜けて、あの街道に合流すればいい。
空にはやや太りぎみの月。さっきの廃村を思い出した。もはや恐怖なんて感じない。きっと何かの錯覚だったんだ。月光、明るかったなあ。薄い幕が、たなびいて見えるくらいきれいだった。
そのとき。トントンと肩を叩かれた。
血液が一気に逆流する。見たくない。左の肩。見ちゃいけない。なのに首が、そちらへ向いてしまう。
背もたれの肩に、手首が載っていた。指が伸びたり、縮んだりしている。私の視線を確認して、いっせいに小刻みにざわついた。
手って、笑うんだ。そう思っ


「悪いのは、ヌケミチってやつですよ。それがほら、ネットとか、載ってるんでしょ?」
ハンドルを返しながら、そう言った。苦々しい思いが突きあげてくる。
「だいたいここ、地元民にはだいじなんですよ。ここ塞がると、20号にぐるっと回らなきゃなんない。なのにね、ヨソもんがわざわざ来て、めっちゃくちゃな走り方をして。」
今日最後のお客になりそうだった。○○寺。聞いたことがない。でも道はお客さんが知ってるって言うし、ウチがある方向にも便利だし、一日の終わりにツイてる、今日は。
ライトをハイに上げて疾走する。この一帯、田んぼなんだよね。見通しもいいから気が楽だ。ふんふんと鼻歌したいくらいになってたら。お客さんが急に身をよじった。通り過ぎたものをじっと見つめてる。
「ああ。すごい量ですよね。あの花束。」
お客さんはふりむいて、こっちを見てきた。関心があるらしい。まあ黙りっきりより、ちょうどいいか。話し始めたら、ついついグチも言ってしまった。
「月がきれいな晩には、ヨソもんが来るんですよ。どうして変な走り、したがるんですかねえ。お互いライトもつけてるのに、ぶっとばして正面からガチンコですよ。別に好きにやりゃあいいと思うけど、ヨソでやってほしいですよ、地元的には。」
お客さんは、…品のいい感じの女性だった。タクシーなのに背中がしゃんと伸びてるのはすごい。踊りでもやってる人かねえ。
「女の子の方なんてね。ご両親がわざわざ来て泣いてたけど。ほんとに親不孝なもんですよ。ああ、そうだ。その女の子ね。顔も体もきれーなもんだったのに、右手だけつぶれちゃってたんですよ。男性の方はまるで逆でね、全身ぐっちゃぐちゃなのに、手だけはキレイだった。まるで呼び合わされたようにね。怖いですねえ。」
声をあげて笑って、ふと見ると、ミラーの中のお客さんと目が合った。
「なんで知ってるんです。」
細い声が言った。儚げなのに芯がある声。
「いや、小さい頃からの友達が、地元で警官やってましてね。」
汗が湧いた。まずいな、この雰囲気。怪談とか苦手なお客だったか。会社に苦情とか入るかな。最近はヤな客が多いから。
「その太い道。そこ、右に。」
「え?!ああ、ここですか。…こんな道、ありましたかね?」
「…。」
ハンドルを切る。無駄口は止めておこう。ただただ走る。道、狭くなってくる。
「この先って、何村でしたっけね。」
わざと明るい口調で言ってみた。返事、なし。木が茂って、明かりも標識もない。走ったことあったっけか、こんな道。
「運転手さん。」
「はいッ!」
声がうわずる。お客さん、こっちを見つめてる。ミラー、見ないようにしてても、感じられる。
「運転手さん。右手が、ありますね。」
「はあ。え?」
「…。」
胃がぎりぎり痛くなってきた。ああやだやだ、ヘンな客だ。早く送って帰ろう、そうしよう。
行く手の闇は、どんどん深くなる。

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