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卒論「夢女子」全文

おはにちばん。漣です。
いつか言っていた、「夢女子」についての卒論を全文載せます。
脅威の33000字。我ながら読みづらかったりこじつけっぽかったりしますが、まあお暇な時に読んでいただければ。


第一章 はじめに

1-1.研究の動機と目的


現代を生きる我々にとって、キャラクターという存在は非常に身近である。幼少期には誰しも幼児向けのアニメを見ただろうし、日本全国の遍く地域にゆるキャラや企業キャラクターがおり、漫画やアニメを一作享受するだけで膨大な数のキャラクターに出会う。これだけ文化に根付いていると、「好きなキャラクターは?」という質問にも難なく答えられる人が多いだろう。

ここで言う「好き」には、「一対一の恋愛対象として」ではなく、「一方的に愛でる対象として」という意味しか含まれないことは自明だ。しかし、私自身を含め、前者の意味で架空のキャラクターを愛する人々も実際にいる。インターネット用語で言う、いわゆる「夢女子」である。

架空のキャラクターに恋愛感情を抱いて生きるには、様々な困難を伴う。自身のセクシュアリティを自覚して以来、当事者である私はその痛みを嫌と言うほど経験してきた。一方で、2021年現在、当事者・非当事者を問わず、夢女子を語る文章はとても少ない。つまり彼女たちは、「夢女子である」痛みを他人と共有する場をほとんど持っておらず、自分で自分を癒すよう強いられているのである。このままでは、私たちの抱える愛情や苦しみは、ヘテロセクシュアル至上主義の中でもみ消され、なかったことにされ続けるだろう。

そこで、私は、当事者として語るべく今回の研究テーマを設定した。カルチャー論のなかで捉えられがちな夢女子を主に恋愛の側面から捉え直した上で、既存の恋愛観へ提言することが本論文の動機であり、かつ目的である。

 1-2.研究の意義


1-2-1…「夢女子」の定義とその歴史
 まず、「夢女子」とは具体的に誰を指すのかを説明する必要があるだろう。近年「夢」の意味合いは広義化が進んでおり、最早普遍的な定義は存在しないため、ここで独自の定義付けを行う。

本論文において、広義の「夢女子」とは、架空の世界へと介入し、男性キャラクターと恋愛関係を築くことを好む女性であるとする[1]。この「介入」の仕方は、大きく二つのタイプに分かれる。

①自分自身が主体となって、相手のキャラクターとの恋愛関係を楽しむ
②創作したオリジナルのキャラクターと、相手のキャラクターとの恋愛関係を、第三者視点で楽しむ

更に、「これらの嗜好を複数掛け持つか、一つの嗜好に止まっているか」という観点や、「現実にも好きな人や恋人がいる(いた経験がある)か、架空のキャラクターにしか恋愛感情を抱いたことがないか」、「各ジャンルに好きな人がいるか、たった一人のキャラクターに恋愛感情を抱くか」など様々な視点を導入できるが、あまりに細分化してしまうため、本論文では上記の簡略化した分類を用いる。そして、便宜上①を「自己投影タイプ[2]」、②を「オリキャラ(オリジナルキャラクター)タイプ」と呼称する。

次に、夢女子を巡る歴史について記述していく。一言でまとめてしまうと、夢女子の歴史とは「夢小説」の歴史であると言っても過言ではない。諸説あるが、夢女子の「夢」は「夢」小説を起源としているほど、両者の関係が親密なためだ。

アニメ・漫画界隈の女性といえば「腐女子(架空の男性キャラクター同士の恋愛を楽しむ女性)」が席巻していた最中、2000年代に突入した頃、漫画やアニメのキャラクターと、著者のオリジナルのキャラクターとの恋愛関係を描いた小説を指す[3]「夢小説」が、同人カルチャーとして花開いた。夢小説的な実践はそれ以前から行われていたが、2001年に「名前変換機能」のスクリプトである「DreamMaker」が制作・配布された結果、夢小説は読み手・書き手共に爆発的に増加したのである。名前変換機能とは、著者のオリジナルキャラクターの名前を、読者側が自由に設定できる機能であり、読者自身の名前や、読者の「オリキャラ」の名前を設定することで、物語への没入を後押しするものだ。
その後、夢小説はHTMLを活用した個人のPCサイトから、夢小説の書き手向けの機能が搭載された携帯サイトへも広がりを見せ、更に、近年では夢小説から派生した形で「夢絵」や「夢漫画」の文化も流布しつつある。今や、「夢」創作は二次創作の中でもメジャーなジャンルとして確立しており、その担い手としての夢女子も多く存在するのである。

1-2-2…「自己投影タイプ」に言及する意義
私が本論文で主に扱うのは、先述の分類における「自己投影タイプ」についてである。その意義について語る上で、いわゆる「女性オタク」のカルチャー論に関する更なる記述を行いたい。

先ほども言及した通り、現在、女性オタクは腐女子と夢女子とが代表的な存在であるが、両者は「作品への愛を原動力としてその物語に介入し、虚構の世界における二人の関係性を志向する」という共通の基盤を持つ。それ故、両方の嗜好を兼ねている人も少なくないのである。

その上で吉澤は、両者の差を「妄想する私」の所在の有無であるとする(吉澤 2020)。腐女子の場合、ある二人のキャラクターの関係性を志向するという構図は、当人が「二人の愛の関係を成り立たせている物語それ自体に、その物語の世界全体に、いわば偏在し溶解し拡散」(吉澤 2012、129)することを意味する。一方で、誰でもよい、任意の女性と男性キャラクターとの恋愛を志向する夢女子は、「誰でもよい」が故に、その女性が生身の身体を持った自分自身である可能性を消し去ることができない「痛み」を抱えることになるという。

この説明は、任意のキャラクターを創作したにも関わらず、それが自身の投影の対象になりかねない点で、オリキャラタイプの女性たちに特に親和的である。しかし、自己投影タイプの場合、男性キャラクターと恋愛をする相手がこの「私」自身であることは、「可能性」などではなく、明白な前提である。言い換えれば、自己投影タイプにとって、自身の身体や欲望を晒す「痛み」は創作の副産物などではなく、常に主体的に引き受けなければならないものなのだ。

以上から、自己投影タイプの女性は、ヘテロセクシュアルのコミュニティのみならず、女性オタクのコミュニティからも乖離していると言える。彼女たちに焦点を当てることは、それぞれのコミュニティで働く規範について考える上でも有用であり、また、既存の恋愛観を揺るがす契機にもなるだろう。

1-3.研究方法


冒頭で述べた通り、2021年現在、夢女子に関する文献は非常に少ない。そこで、夢女子に関する信憑性の高いインターネット記事も参照しつつ、キャラクター論からジェンダー論、恋愛論、アイデンティティ論など、様々な分野の文献講読も並行して行った。

最後になったが、以下の本論では、「夢女子」という言葉を使う際、「自己投影タイプ」とイコールの意味での記述が大半である。先の定義より更に狭義で用いることを踏まえながら、読み進めて頂きたい。

第二章 マジョリティ/マイノリティの恋愛

 

2-1.現代の若者の恋愛観


2―1-1…ロマンティック・ラブ・イデオロギーという呪縛

夢女子というマイノリティに注目する前に、若者全体の恋愛事情を捉えておこう。

2019年に実施されたリクルートマーケティングパートナーズの調査によれば、現在、恋人がいない20代男性は全体の約68%、20代女性は約53%に及ぶ。そのうち、恋人が欲しいか尋ねた設問で「欲しい」と答えたのは男性の約57%、女性の約71%であり、その他の人は消極的な回答をしている。また、「恋人が欲しいと思わない」と回答した人が挙げた理由として最も多い項目は「一人の方が気楽だから」、次いで「恋愛が面倒だから」であった。つまり、現代の若者にとって必ずしも恋人は必要ではなく、恋愛関係を煩雑なものだと捉える人も少なくないと言える。

では、何が現代の若者を恋愛から遠ざけているのか。牛窪は、非正規雇用者の増大とそれに伴う当事者の恋愛意欲の衰退、超情報化社会による性への幻想の消滅と恋愛の代替としての娯楽の増加、といった様々な指摘を行うが、ここでは「男女平等社会」と「男女不平等恋愛」とのジレンマについて記述する。(牛窪 2015)

実態はどうあれ、「男女平等」は、現代を生きる若者にとっては当然の規範である。しかし、こと恋愛に関すると、突如として「男らしさ」「女らしさ」を求めるような、旧来の価値観が立ち上がってくるというのだ。その原因として、「ロマンティック・ラブ・イデオロギー」が未だに根付いていることが挙げられる。同イデオロギーとは、「異性愛の男女が生涯愛し合い、その関係のなかで結婚し性関係を結」(岩間 他 2015、28)ぶことを理想とする考え方であり、日本では高度経済成長期以降に流布したが、80年代以降、恋愛・性愛・結婚の三位一体を切り離すような自由な恋愛の気運が高まると、徐々に衰退していったと言われる。

しかし、現代の性愛の類型の一つであるセックスフレンド、通称「セフレ」の存在に切り込む時、ロマンティック・ラブ・イデオロギーの名残は浮き彫りになる。櫻井は、恋愛関係には金銭的なコスト、時間的なコスト、そして身体的・心理的に束縛されるコストが存在するとし、セフレは「本気の」恋愛対象ではないことを理由にこれらのコストがほとんどかからないと指摘する。(櫻井 他 2012)逆に言えば、ここには、本気の恋愛対象には多分な投資をしなければならないという意識、そして「セフレ」と呼称し認識することで、その煩雑さを避けようとする意識の双方が表れている。それに伴って、「本気でコストをかけるべき、運命の相手」の存在――すなわちロマンティック・ラブ・イデオロギー的な、旧来の価値観の残存も浮かび上がってくるのである。

故に、現代の若者は、ロマンティック・ラブ・イデオロギー的な恋愛を理想としつつも、それが長期不況やリスクに晒された現代では不可能である事実を悟りながら、尚も旧来の「男女不平等」型の恋愛を漠然と追い続ける、というジレンマを抱えていると言える。

2-1―2…ロマンティック・マリッジ・イデオロギーの台頭
次に、若者の結婚に対する意識について、2016年に国立青少年教育振興機構が実施した調査を元に見ていく。本調査によれば、結婚願望の有無に関する質問で「早く結婚したい」、「いい人が見つかれば結婚したい」、「いつか結婚したい」など結婚へと前向きな姿勢を示したのは、20~30代男性の71%、同年代の女性の約81%であった。いずれも、既述した恋人がいない人の割合と比較すると高い値だ。また、男女差が有意に表れており、特に「早く結婚したい」と回答した人の割合は、男性の12%に対し女性は約24%と2倍もの差がある。つまり、現代においても男女共に結婚願望を持つ傾向にあるが、女性の方が結婚に対しより積極的であると言える。

後者の事実には、労働市場における男女差が関連していると予想される。先行き不透明な日本社会において、男性は未だに就労に関するプレッシャーを受けている一方で、女性には「専業主婦」というある種の逃げ道が設けられている。それ故に、女性において「結婚」という制度が理想化されやすいのである。

また、この「結婚の理想化」には、現代台頭しつつある「ロマンティック・マリッジ・イデオロギー」の影響もあるだろう。谷本が提唱した同イデオロギーは、恋愛が必ずしも結婚に結び付く必要は無いが、結婚には恋愛関係のような情緒的絆が必須であるとする考え方を指す(谷本 2016)。こう記述すると、「全ての恋愛は結婚に結び付かなければならない」とするロマンティック・ラブ・イデオロギーと対立するかのような印象を受けるが、どちらも恋愛と結婚との結び付き自体を重視している点で関連している。

ロマンティック・マリッジ・イデオロギーが台頭した背景を捉えるにあたり、山田の主張が参考になる。山田は、前近代社会のイエ中心主義の結婚と比較し、近代の結婚を、イエから離れて自ら生きがいを希求しなければならないという「存在論的不安」を克服するイベントであるとする。(山田 2019)言い換えれば、将来にわたって自身を存在論的に承認してもらう関係には愛情が不可欠であり、故に「恋愛結婚以外の結婚というものが『よくないもの』」(山田 2019、81)だと認識されるのだ[4]。

谷本の調査によれば、同イデオロギーについても、男性よりも女性に支持される傾向にあるという。こと結婚に関しても、伝統的な価値観は若者全体に根付いたままなのである。

 2-2.オタクのセクシュアリティ


ここでは、「若者」全体から更に焦点を絞り、「オタク」のセクシュアリティについて見ていく。

ここで言う「オタク」とは、漫画やアニメなどのキャラクターコンテンツを愛好する人物を指し、オタクをセクシュアリティの側面から捉え直す実践は、これまで多くの著作で成されてきた。例えば、吉澤は、オタクカルチャーそのものについて、例え虚構であろうと、誰か一人の人間を「特別な人」として選び取り、その人と親密な関係を築こうと試みる点で「対象への愛の確認と表現に捧げられている、つまりセクシュアリティのありかと深く結び付いている」(吉澤 2020、120)と指摘する。それ故にというべきか、オタクカルチャーのあり方には明白な男女差が存在する。

 第一章二節で既に述べたように、腐女子・夢女子に関わらず、女性オタクは「関係性」への志向に特徴付けられる。それと対比される形で、男性オタクは「所有」の原理に基づいているとされる。(斎藤 2009)対象を所有するというこの欲望には、対象の視覚化や言語化によってこれを意のままに操ろうとする欲望も含まれているおり、元来「男の領域」とされてきたオタクコミュニティには、未だにこの原理が根付いている。言い換えれば、「見られることは受動的で、語ることは主体的であり、主体的であることイコール男性がすること」(西森 2020、204)との抑圧が残存しているのだ。

 女性のオタクたちは、この抑圧にどう対処しているのか。腐女子は、既述の「妄想する私」の不在の仕組みを用い、自身を含めた女性の存在を排除することで性表現のタブー意識を乗り越えてきた、とはよく成される指摘である。特に、以下の汀の記述が明快だ。

「Pや提督は汚いおっさんとしてアイドル、艦娘を抱くことができるのに審神者はBLという性的ファンタジーを挟まないと性欲を表明してはいけない」

(汀 2020、179)

 Pは『アイドルマスター』シリーズの男性主人公、提督は『艦隊これくしょん』の男性主人公、審神者は『刀剣乱舞』の女性主人公を指す。読み手の男性のありのままの姿を想定した「汚いおっさん」の表現と、女性という性すら抹消されたBL表現との対比は、二次創作、延いてはオタク界隈の現状を正確に捉えることに成功している。

その一方で、夢女子はというと、既に述べた通り「女性である自分自身の排除」の仕組みを機能させられないため、自身の身体の所在や、ありのままの欲望を晒し続けることになる。つまり、腐女子のように抑圧を回避するのではなく、必然的に、その抑圧自体に抗うことになるのだ。

他にも、セクシュアリティの傷付きを避けるための実践の例として、斎藤は、キャラクターの魅力への恋愛誘発的な感情を指す「萌え」という表現を挙げている。

「『萌え』とは、対象のキャラクター化によって成立するのみではない。それは萌え主体をもキャラクター化の磁場に引き寄せてしまう言葉なのである。『~萌え』という自称は、自らの嗜好に対する揶揄や嘲笑を、キャラクター化によって先取り的に笑いのめす(「シャレ」や「ネタ」にする)ことで、セクシュアリティによる傷付きを防衛しようという身ぶりではないだろうか」

(斎藤 2014、230)

「萌え」という言葉自体は死語になりつつある2021年現在でも、個人の性癖やキャラクターへの感情が、シャレ的に、もしくは自虐的に語られがちなのは、当事者たちの文章を見れば一目瞭然である。そこには、自身の個人的な事情に――自身のセクシュアリティには踏み込ませまいという姿勢が見て取れる。

 2-3.「二重の」疎外


夢女子について詳述する次章への下準備として、若者全体、そしてオタクコミュニティそれぞれにおける夢女子の立ち位置を考察しておこう。

松浦は、夢女子のように「二次元」へと性的に惹かれる人々について、これまでは「そもそもセクシュアリティの問題と認識されずに、(中略)単なる『趣味』とみなされることによってマジョリティの側に取り込まれてきた」(松浦 2020、119)と指摘している。なるほど、アニメのキャラクターに恋に落ちたという趣旨をインターネット上で投稿した人に、「いつかは目が覚める」や「いつかは素敵な人に出会って、キャラクターのことは簡単に諦められる」といった言葉を投げかける人が異様に多いことにも納得出来る。キャラクターに恋をしたと言っても、所詮それは「趣味」の領域とされ、時間はかかるかもしれないがいつかは我々マジョリティの恋愛に迎合する、予備軍として扱っているのだろう。

では、その恋愛感情が一過性のものではないと悟られた時、何が起こるのだろうか。冒頭で述べた通り、キャラクターは愛玩の対象とすることが一般的であるため、夢女子は抑圧や啓蒙の対象となりやすい。言い換えれば、キャラクターを性愛の対象とした途端、その感情はタブー視されるようになる。

その背景には、社会一般の動物性愛(ズーフィリア)や小児性愛(ペドフィリア)に対する嫌悪感との関連があるように思えてならない。濱野は、動物と人間の子供とに、言語を介した意思疎通が行えず正確な性的合意が得られない点、そして「性」を持った存在である事実が覆い隠され、愛玩物として認識される点に共通点を見出す。(濱野 2019)実際に性行為を行えない点は異なれど、これらの特徴は、架空のキャラクターにもそのまま当てはまるだろう。

このことから、マジョリティの恋愛観について、言語コミュニケーションを介した関係性を重視しているが故に、自身と同程度の知能を持たない存在を性的対象としない傾向を読み取れる。恋愛におけるコミュニケーション重視の考え方は、牛窪の著書における以下の記述にも表れている。

 「では人間の恋愛欲求は、空想上の恋愛やバーチャル恋愛でも満たされるのか?高坂氏は『NO』と言い切る。『恋愛は生身の男女がそれぞれの本音をぶつけ合い、テニスのラリーのように互いにエネルギーを与え合うことで、成長と満足が得られるもの』。でも空想やバーチャルの世界はあくまでも一方的な趣味の領域、相手のエネルギーを吸収することはできない。」

(牛窪 2016、34)

要するに、相互のコミュニケーションによる意思疎通が不可能である上に、性的合意どころか実存の身体さえ持たない存在を性的対象とすることは、マジョリティの恋愛観を持つ人にとって不可解極まりないのだろう。

では、フィクションの世界に没頭するという基盤を共有した「オタク」コミュニティ内で夢女子が受け入れられているかと言えば、必ずしもそうではない。オタクカルチャーに精通していなければ知り得ない「夢女子」の単語を検索にかけると、「気持ち悪い」、「痛い」、「嫌い」など露骨なサジェストが並ぶ様を見れば、その事実は一目瞭然だ。

オタクコミュニティ内で夢女子が忌避される理由は、既に述べた、腐女子と夢女子との差から見えてくる。腐女子の「自分自身の存在を抹消して二人のキャラクターを志向する」仕組みは、同じ嗜好を持つ人がいくら集まったところで、その二人の世界を邪魔する第三者としての「私」が立ち現れてこないことを意味する。すなわち、同じキャラクターを他者と共有して愛でるという、オタクコミュニティ自体の特徴に親和的だと言える。

その一方で、夢女子は「私」の存在を全面に出し、一対一の関係でそのキャラクターを愛するため、キャラクターを他人と共同で愛でることを忌避する傾向がある。この特性によって、夢女子は腐女子のみならず、同じキャラクターが好きな夢女子(いわゆる「同担」、「同嫁」[5])とさえ敵対する場合が多々あるのである。また、恋愛感情を抜きにしても、「私」という原作に登場しない人物を介在させること、それ自体に嫌悪感を覚える人々も多くいる。

つまり夢女子は、そもそも虚構の存在へと思いを寄せることに理解がない人々からは「現実逃避」と断じられ、オタクコミュニティの人々からは、キャラクターに対する独占欲を「痛い」、「気持ち悪い」となじられるという、二重の疎外を受ける存在なのだ。  

第三章 夢女子の恋愛、その現状

3-1.夢女子の恋愛の特徴


いよいよ、夢女子、特に「自己投影タイプ」の恋愛について述べていくが、まずは夢女子の恋愛に特徴的な点を説明しておこう。自身でいくつか列挙したものをカテゴライズした結果、以下の3つの視点に振り分けられた。

一つ目は、臨機応変で柔軟で、偶発的な――リアルタイムな相互行為が存在しない点である。相手が生身の身体を持たなければ、スキンシップや性的接触など、物理的に親密性を確かめられる身体的コミュニケーションが成立し得ないことは自明であろう。それ故に、双方向の自由な会話やアイコンタクトを介した、心理的なコミュニケーションを取ることが不可能である点もまた明瞭だ。つまり、元々は何の感情も抱いていなかった他人同士が、コミュニケーションを通じて徐々に惹かれ合い、やがて恋愛関係に発展する…というような、互いの働きかけによって関係を深めていく過程が存在しないのである。

 それと関連して、二つ目に、関係の一方向性を挙げる。繰り返しになるが、生身の人間同士で親密な関係を築くためには、互いに多分な時間や労力を費やさねばならない。また、一般的に、一度破局したカップルが元の関係に戻ることは不可能、もしくは困難を伴うように、人間同士の関係性の変遷は不可逆的である。

夢女子とその相手との関係は、これとは対照的だ。先に述べた通り、両者の間には、互いのアプローチで関係を構築していくようなプロセスは存在しない。しかし、それは裏を返せば、夢女子である「私」が彼に恋に落ちさえすれば、その瞬間から、二人はカップルの関係になれるということだ。したがって、双方向のコミュニケーションが成立せず、こちら側から相手を一方的に思い続けることしかできない、という構造により、時間や労力を費やさずして「私」の欲望のままに二人の関係を定義付けられる訳である。したがって、その時々の「私」の気分によって、二人の関係は可逆的にも流動的にもなり得るのだ。また、一方的に関係を始められるということは、それを一方的に終わらせるのも「私」だという事実も指摘しておかねばならない。夢女子は、相手との関係を、どこまでも自分を軸として築くことしかできないのである。

上記二つの特徴の総括として、三つ目に、夢女子とその相手との関係の不可視性を挙げる。相手と身体的、心理的コミュニケーションを取ることができなければ、二人の関係を形作り、また終わらせる権利は生身の「私」に一任される。また、架空のキャラクターへの恋愛感情それ自体が世間一般のみならず、時にオタクコミュニティからも嫌悪されるため、積極的に自身のセクシュアリティを吐露する場が少なく、二人の関係を支援してくれるような他人に巡り会う機会も限られている。これらの状況は、相手と自分との関係性を担保するものが「私が相手を大切に思っている」事実にしかない、との結論を生み出す。言い換えれば、夢女子は、流動的で不可視な「自分の感情」だけを頼りに相手との親密性を保ち続けなければならず、かつその葛藤が誰からも認知されないという苦しみを抱えるのである。

 3-2.夢女子を取り巻く規範


次に、ロマンティック・ラブ・イデオロギーやアイデンティティなどの諸概念から、夢女子の恋愛の実態を浮き彫りにしていく。

3-2-1…ロマンティック・ラブ・イデオロギーの視点から
まず、ロマンティック・ラブ・イデオロギーとの関連に着目する前置きとして、第二章一節の内容をまとめておこう。若者は「全ての恋愛は結婚に繋がらなければならない」という意味での従来型のロマンティック・ラブ・イデオロギーからは最早自由となった。しかし、超情報化社会や長期不況の影響を受けて恋愛そのものが煩雑になったにも関わらず、「本気の恋をする運命の相手」の存在を信じるような、同イデオロギーの残滓とでも言うべき規範に未だに囚われている。そして、恋愛が結婚からは解放されてもその逆は起こらなかったが故に結婚が理想化され、新たにロマンティック・マリッジ・イデオロギーと呼ばれる考え方も台頭するようになった。

 夢女子が相手へと向ける愛情は、時に「純愛」と捉えられる。それは、相手からのリターンがないにも関わらず一方的に愛情を注ぎ続ける様や、肉体関係を持ち得ないというプラトニックさによる評価であろう。では、実際には、夢女子の恋愛観とロマンティック・ラブ・イデオロギーにはどういった関連があるのだろうか。

結論から言うと、夢女子の恋愛観にも、旧来のロマンティック・ラブ・イデオロギーは既に影響力を持たない。現在の日本の婚姻制度では架空のキャラクターと結婚できないため、元々「恋愛から結婚へ」という流れを諦めている、といった単純な話ではない。夢関連の創作の多くが、結婚未満までの関係を描いているからである。夢女子が真に愛の果てに結婚を望むのならば、夢小説に始まる各々の願望を投影する場において、結婚に関するテーマの作品が多数を占めるはずだ。しかし、実際にそうした作品も一定数あるものの、創作の場で主流なのは、そのキャラクターの日常を尊重するような「現実味のある」内容である。ここには、好きなキャラクターに手を加えすぎることに対する躊躇が表れているように思う。例えば、相手が学生であればそのままの年齢設定では結婚は不可能であるため、彼の将来の姿を創作する必要が出てくる。また、成人した相手であろうとも、「結婚」というターニングポイントを刻んでしまえば、キャラクター本人の同一性に揺らぎが出てしまうことは必然だろう。

その一方で、結婚に関して、夢女子独自の実践が存在する。例えば、実物の婚姻届を記入する、二人分のマリッジリングを制作するなど、目に見える形で擬似的に結婚を再現する人が少なくないのだ。2017年、Gatebox株式会社によって期間限定で行われた、キャラクターと人との架空の婚姻届を受理し、「婚姻証明書」を発行するサービスが盛況となったことも記憶に新しい。つまり、商売へと繋がるだけの、キャラクターとの結婚への需要が、確かに存在するのだ。当時高校生だった私は、金銭面を理由に申請を諦めてしまったが、仮に同じサービスが再び提供されたなら躊躇なく申し込む。それほど、当事者の目には本サービスは魅力的に映る。

しかし、「ロマンティック・ラブ・イデオロギーは最早存在しない」との先程の結論を踏まえれば、これは「結婚」という悲願を達成するための装置などではないと言える。では、必ずしも結婚を目標としていない夢女子たちのなかで、なぜこうした文化が存在するのか。

それは、婚姻制度が他者からの「承認」の象徴だからではなかろうか。ヘテロセクシュアルの人間同士のカップルは、マジョリティのセクシュアリティであるが故に、親戚や友人からの承認を得やすい。それに比べて、人間と架空のキャラクターとの恋愛関係の承認にいかに困難を伴うかは、改めて言うまでもないだろう。そもそも、既述の通り、セクシュアリティを吐露する場を持つことすら難しいのだから。

その一方で、婚姻制度は、「法」の名のもと、二人の関係を絶対的に保証するものである。実際に、山田によれば、結婚を選択するセクシュアルマイノリティのカップルが増えつつあるらしく、その理由を「『周りから関係を認めてもらいたい』『公に宣言したい』という気持ちの証左」(山田 2019、144)だとしている。夢女子内でも、同様の心性が見て取れる。更に、そこに婚姻届やマリッジリングなど実存する対象があれば、その保証をより体感的に享受できるだろう。故にこそ、一部の夢女子たちは、普段は得ることができない「承認」の幻想として、疑似の結婚を所望するのである。

 3-2―2…アイデンティティの視点から
次に、夢女子が直面するアイデンティティの問題について言及する。

第一章で述べた通り、「夢女子」という概念の誕生と夢小説とは切っても切れない関係にある。ここで強調したいのは、夢小説自体の歴史に比べ、「夢女子」という言葉はかなり新しい概念である点だ。Twitterで検索をかけてみたところ、2009年までは「夢女子」という単語を含んだツイートはほぼ皆無であり、2010年頃から徐々に流布していく様子が見受けられた。言い換えれば、夢小説というジャンルが隆盛してから約10年の間――むしろそれ以前から「夢」的な志向をしていた女性たちは、「夢女子」のように明確に表現されるアイデンティティを持っていなかったということである。

私もまた、「夢女子」という言葉の誕生時期より前から夢小説を享受していた一人だが、初めてこの単語を知った際の高揚感を未だに覚えている。女性のオタク即ち腐女子であるとされ、「ボーイズラブを好む」という自分の一部のみが切り離され――腐女子でない人は、ありもしない嗜好を植え付けられ――強調されると、それ以外の「夢創作が好きな」自分が取りこぼされることになる。その部分を表現する術を知ったことは、間違いなく、私にとって喜びであった。

そして、夢女子を自称することに抵抗を覚えるようになったのは、つい最近である。当初は「夢小説を好む女性」程度の意味しか持っていなかった「夢女子」は、近年、夢女子的なカルチャーの広がりを受け、その定義が拡張されてきている。この言葉を使い始めた頃、私の嗜好はまさに「夢小説を好む」程度に止まっており、当時の「夢女子」の定義と完全に合致していた。しかし、今となっては、私自身の性的指向の変化に加え、「夢女子」には自己投影タイプからオリキャラタイプまで、あらゆる嗜好が包括されるようになった。言い換えれば、「夢女子」は何か単独の嗜好を指す概念ではなく、「夢」的なものに親和性を持つ人ならば誰でも名乗れるような代物となったのである。それ故に、この言葉で自分を説明すると、セクシュアリティの要素が削ぎ落とされてしまうのでは、彼への愛情がソフトなものへと昇華されてしまうのではと疑念を抱くようになったのだ。同様の葛藤は、自己投影タイプ以外の人たちにも見受けられるだろう。

こうしたカテゴリーと自己とのずれについて、上野千鶴子編の『脱アイデンティティ』において、伊野はクィア理論を用いながら興味深い指摘をしている。

 「(中略)自己を語るという行為に付随するのは、まさしくカテゴリーの引用という言語実践であり、そのカテゴリーの引用とアイデンティティの内容とは非関与であるということである。」

(伊野 2005、46)


 「『同性が好き』と語ることと『ゲイである』と語ることはその意味と効果において違う。カテゴリーを介在させないで自己の性的傾向を語ることは可能である。」

(伊野 2005、70)

一方で、自己投影タイプを端的に示す単語として、架空のキャラクターに恋愛感情を抱くセクシュアリティを指す「フィクトロマンティック」、それに加えて性的魅力も感じる場合の「フィクトセクシュアル」が知られつつあるのも事実だ。「自己投影タイプの夢女子」と自称するより、これらの方がセクシュアリティとしての側面が立っていることは明らかだろう。

認知度の高さや名乗りやすさを理由に「夢女子」を自称し続けるか、自身のセクシュアリティを尊重するべく「フィクトセクシュアル」などの概念を用いるか、それとも、カテゴリーを介在させずに自身の言葉で語るか。この選択は、各個人で揺るぎない絶対的なものではなく、語る相手や状況など、その時々によって迫られるものである。いずれにせよ、アイデンティティの問題は、マイノリティである我々に回帰し続けるのだ。

 3-2-3…夢創作文化はなぜ貶められるのか
最後に、夢創作文化について、その貶められ方に言及しながら一考する。

 冒頭で夢小説を中心に説明した夢創作だが、腐女子文化と同じく、世間から「隠れてやるもの」として認識され続けてきた。これには、二次創作自体が著作権違反のグレーゾーンであること、そして作品を「腐」や「夢」として享受していない人々への配慮などが影響している。特に後者については、作品を投稿する際の「腐注意」などの注意書きや、検索用に作品をタグ付けする際に、夢(もしくは腐)創作に固有のタグを付ける[6]ことは、創作する上でのマナーとして多くの人々に守られている。この行為は、一般向け作品とのいわゆる「棲み分け」と呼ばれている。

棲み分けに関連して、「検索避け」についても説明しておこう。その名の通り、検索されないための工夫を指すが、例えば「夢野主子(ゆめのぬしこ)」を検索避けするには「夢/野/主/子」とスラッシュを入れる、「ymnnsk」とローマ字表記の母音を抜くなどの方法がある。棲み分けの方法の一つに検索避けがある、と理解してもらうとよいだろう。

夢小説が隆盛した2000年代、検索避けに失敗した夢小説がインターネット掲示板などで一般人に晒され、作品を侮辱される事例が後を絶たなかったという。既に指摘した通り、夢小説とは、作者自身のセクシュアリティのありかに深く結び付いたものであり、それを侮辱されるのは作者にとって、そして同じ心性を持つ人々にとって耐え難い苦痛であろう。ちなみに、現在では、夢小説サイトのURLを外部サイトに貼る行為は、いかなる場合でもマナー違反とされている。

また、「晒し」目的の外部の人間のみならず、夢創作カルチャーの内部も、あらゆる問題を孕んでいる。

一つ目は、夢創作は隠れてやるもの、との認識が未だ根強い点だ。例えば、夢創作や自身の恋愛に関するツイートをするTwitterのアカウントは、非公開設定にする(インターネット用語では「鍵をかける」)ことが暗黙のルールとなっている。この風潮は徐々に弱まりつつあるものの、夢に関する創作物が「炎上」する度、「夢女子は鍵をかけるのがマナーだ」との声が界隈内にも多く上がり、他にも「公開の夢アカウントとは繋がらない」と名言している鍵アカウントがいるほどである。こうした事実からも、夢女子たちが、互いを牽制し合っている空気をしばしば感じ取れる。

二つ目は、かつて自身も夢創作を愛好していた人々による夢創作の侮蔑である。例えば、Twitter上で定期的に流行する「#夢小説あるある」タグを付けられたツイートを眺めると、夢小説における稚拙な表現や突飛な設定を嘲笑うような内容のものがほとんどだ。実は、過去の私自身も、本タグが付けられたツイートを面白がって読んでいるうちの一人であった。

夢小説がネタ的に侮辱されやすい背景には、夢小説の書き手を爆発的に増やすきっかけとなった、スクリプトを搭載したサイトの存在がある。つまり、こうしたサイトの流布により創作が容易になった結果、低年齢層の書き手が増えたのだが、それ故の作品自体の幼稚さを、時を経ていわゆる「黒歴史」として恥じる傾向があるのだ。

こうした心性が顕著に表れている文章に、さくらももこ作のエッセイ集『もものかんづめ』に収録されている「乙女のバカ心」がある。さくらが思春期の頃、自身の理想の男性とのデートを空想し、彼との恋愛について当時書いていた詩を回顧するという内容であるが、この空想上の相手をキャラクター、詩を夢小説と置き換えると分かりやすい。さくらは、自身の詩について「呆れも果ても尽き果てる。よくもこんな、使い古された表現で現実逃避を詩にしたものだ。だが実際にこの時期、本気で夢の住人になりたがり、暇さえあれば目をつむっていた。まるで病気にかかったブンチョウのようであった」(さくら 1991、123-124)との感想を抱いている。

ここには、過去の幼い自分(思春期の自分)と夢小説(恋愛についての詩)とを同一視し、あたかも自虐で済んでいるように思わせる仕組みがある。常に夢女子として生きてきた私が、夢小説文化を小馬鹿にするような発言を面白がれていたのも、幼く語彙の足りなかった過去の己への懐かしさと恥ずかしさが先行し、夢小説へのリスペクトを蔑ろにしていたからであろう。

しかし、こうした風潮は、夢小説という自由で伸びやかな創作形態を貶し、夢小説を愛し続ける人々を脅かすものである。夢創作文化の内部の人間がこうした発信をしてしまえば、外部の人間が夢創作を「馬鹿にしてもよい」対象として再認識し続けることにも繋がるのだから。

ここまで、夢創作文化の外部と内部、両方の視点を取りあげた。その上で、夢創作文化が貶められやすい傾向にあるのは、貶めるその人が、自身のセクシュアリティの傷付きを避けようとするからだとまとめたい。

外部の人間は、架空のキャラクターに恋愛をする人間を侮辱することで「それに引き換え、自分はまともな恋愛をしている」との認識を強化できる。かつて夢創作物を愛し、離脱していった人々も同様だ。「過去の自分はおかしかったが、現在はまともだ」と、マジョリティへの帰属を確認できる。

一方、現在進行形で夢創作物や恋愛を楽しむ人々はどうか。もちろん、夢創作そのものにネガティブな感情はないだろうが、先述の通り、鍵をかけない夢アカウントなど、個々人への中傷が存在するのは事実だ。

こうしたことが起こるのは、隠れて創作を行う自身と、オープンに活動する他者とを、「夢女子」というカテゴリーに基づき同一視してしまうからではなかろうか。例えば、アカウントを公開することは、他者からの誹謗中傷を受けるリスクを高めることになる。即ち、ある他者の公開アカウントへの中傷が、同じような指向を持つ自身の傷付きにも繋がりかねない、という訳だ。しかし、この風潮は「各々の恋愛自体は個人的なものであり、決して他者がその在り方を強要できるものではない」という至極当たり前な事実を覆い隠しかねないのではないか。

夢創作文化は―個々人の恋愛の在り方は、いずれも尊重されるべきであり、隠すべきものではない。社会のあらゆる規範に息を詰まらせながら、夢女子は己の恋愛を表現し続けるのである。 

第四章 キャラクターとの恋愛の可能さ

 第三章では、夢女子の恋愛を特徴付け、それを取り巻く規範にも触れることで、夢女子の恋愛がいかなる状況に置かれているかを述べた。そこで、本章では、主にキャラクター側に焦点をあてながら、我々とキャラクターとの恋愛関係の成立がいかに可能かについて考察する。

4-1.キャラクターという「個」


4-1-1…「解釈違い」に見るキャラクターの可能性
得てして、二次創作とは、原作の設定を無視し、自分の欲望のままにキャラクターを操る試みと認識される。しかし、「キャラクターに結婚というターニングポイントを刻む」話題の際にも触れた通り、二次創作の活動とは、「原典(の世界観・キャラクター)への愛を原動力として、原典に『あったかもしれない、もう一つの物語』を付け加える」(吉澤 2020、121)ような営みである。したがって、キャラクターの同一性を脅かすような改変は行われない傾向にあり、日常の取り留めのない出来事や、原作で触れられないことの多い、恋愛について思考されることが多い。

二次創作とキャラクターとの関係性の考察を深める上で、「解釈違い」の概念を導入する。作品の世界観や個々のキャラクターの性格などに関して、コンテンツの受け手らの解釈同士が衝突することを指す言葉である「解釈違い」だが、往々にして、別の文脈で用いられる。即ち、「公式との解釈違い」とでも言うべき、受け手側が行った解釈と、原作を起点とした「公式」側との世界観の衝突が、多々話題となっているのだ。

公式に設定された情報を、受け手側が批判し、まして拒否する余地などない、と思うかもしれない。しかし、キャラクターやそのコンテンツと対峙した際、何らかの違和感を覚えた経験はないだろうか。具体的に言うと、「普段は丁寧な口調で物腰の柔らかい○○(キャラクター名)が、これほど口が悪くなるなんてあり得ない」だとか、「絶対に悪役のままだと思った××が、簡単に改心してしまった。あれほど重い過去を背負っているのに」といったように、自身の「こうあってほしい」キャラクター像と、実際に提供された情報とが一致しない経験である。恐らく、身に覚えのある人も多いはずだ。

カレー沢は、人々が抱いているキャラクター像について、「勝手な妄想というわけではなく、むしろそのキャラの一挙一動をつぶさに観察した上の『印象』」(カレー沢 2019)であると指摘する。「公式」の正しさが全てであり、受け手側はそれを黙って受け入れるべきだ、とすれば話は簡単だ。しかし、それでは、私自身の目や心を通した特別な存在としてのキャラクターを、権威の前にあまりに脆弱にしてしまう。

「公式」を信奉した視点とは対照的に、岩下はキャラクターを中心に据えた上で「解釈違い」を考察しており、「キャラクターこそが解釈の対象であり、個々の作品はそうした解釈の結果として生み出されている」(岩下 2020、189)と主張している。その作品が公式に打ち出されたものであろうと、一個人の解釈によるもの(二次創作)であろうと、キャラクターという存在の元では平等だということだ。

そもそもキャラクターとは、メディアミックスにより原作者以外のあらゆる書き手によって描かれ、その時々で顔立ちや体型が少しずつ異なる存在である。更に言えば、原作者でさえも、寸分の狂いもなく同じ顔や身体を、再び描くことはできない。そして、キャラクターという形而上の存在を紙に降ろす点で、素人の作品についても全く同様のことが言える。つまり、「キャラクターの視覚的イメージ、キャラ図像は、たとえ公式のものであっても、物語世界におけるキャラクターのありようを私たちに伝えるにあたっての解釈の一例にすぎない」(岩下2020、190)のである。

つまり、公式の設定に違和感を覚える経験は、公式に提示されたキャラクター像と、自身の中で温められたキャラクター像とにずれが生ずる経験であると言える。こうした思考を経ると、「こうである」とされ一方的に飲み込む設定以外にも、自分だけにとっての特別な印象を兼ね備えた、より親密なキャラクターの存在が浮かび上がってくるように思える。その存在については、以下で改めて検証することにする。

4-1-2…唯一無二の存在としてのキャラクター
「解釈違い」の一例から、キャラクターの可能性や、その深みを照らし出した。次に、具体的に、我々はどのようにキャラクターを捉えているのか、その実践を見ていこう。

最初の例は、自分が好きなキャラクターの外見のイメージが、最早原作から離陸しつつあるという事実を指摘するものだ。既に何度か引用している『ユリイカ』内で、隠岐は自身の「推し[7]」が「頭の中のイメージ」において「しばしば自分自身の絵柄で再生」され、「もはや元になったアニメや漫画のキャラクターそのものではなく、私の中の何かが付け加わったハイブリッド的存在」であると述べている。(隠岐 2020、64)

「自分自身の絵柄」と言うからには、こうした感覚に共感するのは、キャラクターを日常的に絵として表現している人間に限られるのでは、と一見思われる。しかし、自分のものではなくとも好きな同人作家の絵柄でイメージされるかもしれないし、原作かアニメかゲームの絵柄か、アニメならばどの作画監督の回か、もしくは全ての要素が少しずつ混ざった顔か…と、選択肢はいくらでも挙げ得る。むしろ、実際に「公式」の展開で見たエピソードを回顧するならまだしも、自身の脳内での空想を投影するには、原作の絵柄やアニメの作画を完全再現する方が困難ではないか。言い換えれば、自分の中で容易く動き回ることができるキャラクターの姿が、原作のそれから離陸しているのは、当然と言えるだろう。

こうした「公式」のキャラクターと自己の中でのキャラクターとの関係について、同書で木上は「オタクは『オリジナルの推し[8]』と『自分が解釈した推し』のふたつの推しを持つ」と指摘し、「『オリジナルの推し』を『自分が解釈した推し』の『供給元』として消費するようになる」(木上 2020、109)と述べている。

だからこそ、その「供給元」が自己の中でのキャラクターにそぐわない設定を提示してきた際には、大切なキャラクターを破壊される恐怖を感じる、「解釈違い」の現象が起こるのである。その結果、公式の設定を無視して自己のキャラクター像を保持しようとする例も、界隈内において多々見られる。分かりやすい例を挙げると、原作の途中で死んでしまった人物を「生きていた場合」の世界線で創作する、実際には結婚し子供まで設けた人物を独身として認識し続ける、などだ[9]。

要するに、公式はあくまで「供給元」のため、与えられた供給を自己のキャラクターに採用するか否かは個人の自由なのである。特定の一人のキャラクターをとっても、人それぞれのなかで彼は独自の容姿であり、性格も少しずつ異なる。キャラクターとは、公式に決定付けられた凝り固まったものではなく、様々な印象を付加された、それぞれの人にとって唯一の存在となり得るのだ。

4-2.キャラクターと夢女子との関係性


次に、そうした親密な存在としてのキャラクターと、彼に恋心を抱く夢女子との関係性について見ていく。

4-2-1…愛の経験に関する検討
『恋愛のアーキテクチャ』において、恋は相手を能動的に求める感情、愛は、恋の結果結ばれた二人の関係を継続させようという感情だと定義されている。その上で、櫻井はアイドルや恋愛シミュレーションゲームを例に挙げながら、それらは、その恋が成就しないと決定付けられている故に「恋から愛に発展していく途上に」あり続け、「片思いを構造化」(櫻井 2012、85)しているとの見解を示す。本当にそうだろうか。

同書にて櫻井は、男性向け恋愛シミュレーションゲーム『ラブプラス』内の女子キャラクターとプレイヤーの人間とについて、「カノジョは残念ながらゲーム内のキャラクターであるがゆえに、二人は永遠に結ばれることはない。どんなに“両思い”であっても、きちんとしたカレシカノジョの関係を結ぶことはできない」(櫻井 2012、160)とも述べている。ここで言う「きちんとしたカレシカノジョの関係」とは一体何であろうか。相手がキャラクターであるからその関係が結べないと言うからには、人間同士であれば可能という意味になるだろう。

しかし、そもそも「関係」とは双方の心の問題であるはずで、相手に実体があるか否かの問題ではない。吉澤は、「愛の経験は、愛している/愛されている(つまり愛しあっている)と――何の根拠もなく――確信する瞬間に生成され」(吉澤 2012、184)ると指摘する。つまり、「カレシカノジョの関係」であるかは私の心と、私の心で自由に動き回るキャラクターとの問題であって、外部の人間に二人の関係を規定することは不可能である。言い換えれば、私が彼を愛し、私の中の彼が愛を返してくれたと感じた瞬間、そこには確かに愛の関係が生ずるのだ。

したがって、櫻井の記述は、キャラクターの持つ親密性への配慮が欠けていると言わざるを得ない。確かに、ゲーム、即ち企業側が「片思いの構造」を売り出している可能性は否定できない。しかし、そのコンテンツを享受した我々が永遠に叶わない「片思い」の連鎖のなかに閉じ込められるかは、全く話が別なのである。

夢女子とキャラクター間のこうした心理的な結び付きは、ギデンズの言葉で「純粋な関係性」と呼べるだろう。この言葉について、吉澤は以下のように説明している。

 「それは、その関係のためにのみ切り結ばれる関係であり、それが純粋であるのは、その関係がいつ始まりいつ終わるのかということ、すなわちその関係性が選択され選択され続ける根拠が、まさに二人の愛それ自体の中に在り、そこにしかないという事実に求められる。」

(吉澤 2012、35)

こうした記述は、第三章一節で挙げた二つ目の夢女子の特徴である「関係の一方向性」に関するものと、多分に一致している。つまり、相手との関係を始め、方向付けるのは一方的であっても、その最中には、特別なキャラクターとの親密な関係が生じているという訳である。[10]

 4-2-2…心理的コミュニケーションの成立
では、この関係のなかでは何が起き、どのように愛が実践されているのだろうか。検討にあたり、架空のキャラクターと人間との恋愛が、人間同士のそれと同等、もしくはそれ以上に一般化したパラレルワールドを描いた、村田沙耶香作の小説『消滅世界』の記述を参照する。世界観こそ非現実的である本作品だが、キャラクターと人間との交流に関する描写は、実際のものに非常に合致しているためだ。

例えば、とあるアニメの男性キャラクターに恋心を抱く水内は、彼の絵を描くことを趣味としている。同じキャラクターに恋をしている主人公の坂口は、彼の描いたキャラクターが凜として格好良いことに気付き、水内に「どうしたらこれほど上手く描けるのか」を問う。彼の返答は以下の通りであった。

「絵を描いているというより、頭の中にいる彼に、鉛筆の先で触るんだ。そうすると、紙の中に彼が現れる。だから、僕は、彼に触りたくなると絵を描くんだ」

(村田 2015、25)

このシーンでは、二つの点に着目できる。一つ目は、水内が描き出す対象は実物のアニメ映像ではなく「頭の中」の彼であること、そして二つ目は、描き出された彼が、――公式のキャラクター像を熟知している主人公が、水内の絵をそう評しているという理由で――実際のキャラクターよりも「格好良さ」が強調されていることである。つまり、ここにも、公式の設定の単なる投影ではない、水内独自の印象が付与されたキャラクターの存在が見て取れるだろう。

また、普段は「頭の中」だけでの存在である彼を、絵を通して目に見えるかたちにする作業を、水内は「彼に触れる」と表現している。そうした、ある種のコミュニケーションの実践の例として、主人公の坂口の例も挙げよう。坂口は、好きなキャラクターが印刷されたプラスチックのキーホルダーと出掛けることを「デート」と呼び、そのキーホルダーを手の中で握りしめる行為を「手を繋ぐ」と表現していた。

これらの言い回しは、文学的な、センチメンタルな比喩などではない。常に心の中で傍らにいてくれるキャラクターへとアプローチをかけることは、間違いなく、彼との心理的なコミュニケーションとして成立している。そして、その働きかけが例えば「手を繋ぎたい」という意思に基づいて実行されるとき、その意思はキャラクターに共有され、まさに「手を繋ぐ」状態へと移行できるのである。

また、坂口は、キャラクターへのアプローチについて、モノローグ内で以下のように言っている。


 「ヒトではないものとの恋は、工夫することから始まる。どうすれば手を繋げるのか、どうすればキスができるのか。ありとあらゆる方法で、自分の肉体を使って相手にアクセスしようとする。爪も髪も耳たぶも、相手を肉体で感じ取るための道具になる。」

(村田 2015、67)

相手のことを考え、自身の思考と肉体とを駆使して心理的な接触を試みる。こうした実践を、コミュニケーションでなくて何と呼ぼうか。

すなわち、第三章で既述した「心理的コミュニケーションの不可能さ」とは、キャラクターとの物理的な接触が不可能である点のみから導き出される結論であり、心理的な接触そのものに関してはこの限りではないと断言できる。

4-3.動き回るキャラクター


本章の最後に、親密な存在としてのキャラクターが、人間側の思惑を超え、意図しない方向に動き出す可能性も指摘しておく。

 『ジョジョの奇妙な冒険』シリーズの原作者である荒木飛呂彦は、自身のキャラクターが、物語上で勝手に動き出した経験を何度か語っている。例えば、ストーリー上の伏線をどう回収するかについて問われた際には「キャラクターが、自然に着地する。人間と一緒で未来は予測できない。」(石田 2013)と返答しており、別のインタビューでも、漫画を構成していると、登場人物が勝手に動き出し「作者のコントロールが効かないときがある」(宮澤 2017)と語っている。

 荒木の語りは、コンテンツの受け手側ではなく発信側のものである。しかし、これまでの議論を踏まえれば、原作者にとってすらも、自身のキャラクターは「数多くある、人それぞれにとっての、親密なキャラクター像の一部」である。その彼が個人の思惑の外で動くということは、キャラクターには、公式に設定付けられ、人々の思いを受けた上でも尚、自由に動き回る余地があるということだ。

いや、むしろ、個々人の思いを受けることで、キャラクターはよりダイナミックに活動できるとも言えるだろう。人間側が思いを投射すればするほど、彼の人格は多様化するのだから。キャラクターとは、それぞれの心の中で生きながらも、最早作者からも読者からも独立した存在となる可能性を指摘できる。

したがって、キャラクターと相対することの特徴とは、その存在の深みと、予測不可能さにあるとまとめられる。人間とキャラクターの関係は、決して支配―被支配の構図でなく、心理的な領域内で無限に広がり得るのである。

第五章 拡散する夢女子

キャラクター像に多様性があり、彼と「私」との関係の可能性が無限ということは、それに呼応する「私」にも、同様の広がりがあるのではないか。そこで本章では、夢女子の側に視点を戻し、その在り方について考察していく。

5-1.「自己投影」に関する再検討


5-1-1…「自己投影」の類型
繰り返しになるが、本論文の主題としているのは「自己投影タイプ」の夢女子である。彼女らの恋愛は、創作キャラクターに恋愛をさせる「オリキャラタイプ」とは異なり、自身の身体性を主題としている点も説明済みだ。

 しかし、「私の身体」を出発点としていても、キャラクターを志向する際に、ある種のフィルターを通す場合がある。その類型を、以下の図に示した。(図1)

図1 「自己投影」志向のパターン

それぞれ説明していく。①は、これまで主題としてきたような、一つの身体を持ったこの「私」自身とキャラクターとが、心理的な領域で直接結び付く経験である。言い換えれば、「私」が「私」のまま、何の改変もなくキャラクターと向き合うものであり、三つの類型のなかで最も単純な構造をしている。

実在する「私」を露わにした①のパターンに対して、②と③は「私」に多少の創作が施されている点に特徴があり、それが自分自身によるものが②、他者によるものが③である。キャラクターが好きだという確固たる自分自身がいるにも関わらず、なぜそこに創作を付け加える場合があるかは、「私」が彼との関係を自由に築ける点に起因している。

例えば、「私」が社会人で、好きなキャラクターが中学生であるとする。中学生の彼を志向する際、「私」には、社会人として年下のキャラクターと向き合う(①)か、自分の年齢を中学生に設定することで彼と対等の立場を取る(②)かの選択肢が生ずるだろう。彼と関係する上で、どちらにもそれぞれの魅力があることは言うまでもなく、実際に、これらは二者択一でなくその時々で選択されるものである。つまり、時に「私」の存在に手を加えることは、彼との関係をより楽しむための一つの手段なのだ。

5-1-2…「私」の可能性―『テニスの王子様』を参照して
「私」の多様性を楽しむ試みとして、③他者の創作物への投影も同様だ。

夢小説や夢絵などの夢創作物では、原典には存在しないヒロインについて、顔やはっきりとした容姿を描かない、当たり障りのない性格にする、固定の名前を付けないなど、誰にでも共感されやすいキャラクター付けが多々行われる。そうすることで、そのヒロインに、それぞれの読者が自分の名前や顔を当てはめて、作品を享受するという楽しみ方が成されるのである。

こうした「誰でもよい」キャラクターが存在するのは、主に二次創作の領域であることは自明だ。では、「公式」のコンテンツがこの「私」を設定した時、それはどのように経験されるのだろうか。少年漫画原作にも関わらず、「公式」で女性向け恋愛シミュレーションゲーム――いわゆる「乙女ゲーム」を数多く出している異例のコンテンツ、『テニスの王子様』(以下『テニプリ』)を例示する[11]。

テニプリでは、公式に恋愛シミュレーションゲームと銘打っているゲームは7本発売されており、恋愛要素があるものを入れると合計9本にもなる。主人公は、いずれも原作には登場しない、名前変更可能の女性キャラクターであり、最新作を除いて、歳はテニプリのキャラクターと同じ中学生である。しかし、その立ち位置はゲームによって異なり、テニス部の部員の一人であることや、テニス部の外部の一生徒であることもある。つまり、私にとって彼らとの関係は流動的であり、それぞれのゲームをプレイする度、彼らとの関係を捉え直す必要があるのだ。それ以外にも、原作では中学テニスの全国大会が開催されているはずの期間に、ゲームの中ではキャラクターたちが全く別のことをしている、同じキャラクターでもゲームごとで告白のされ方が全く異なるなど、原作の物語の「他でもあり得た」可能性を見る経験は多い。 言い換えれば、テニプリにおいては、唯一無二の物語を「公式」側が強制することなく、むしろその広がりの可能性を積極的に提示しているのである。

そして、「公式」であろうと二次創作であろうと、その重要性はキャラクター享受の前では平等であるとの先の主張を踏まえれば、公式の提示する「可能性」は他の二次創作物と並列されると考えられる。 しかし、その経験され方は、二次創作のそれとは、言わば強度が異なる。

例えば、「公式」に提示される物語(ゲームのシナリオ)は、声優のボイスで収録されており、つまり彼の実際の声で再生される。既に述べた通り、キャラクター図像や性格には私たちが選び取る余地がある一方で、声に関して言えば、一人のキャラクターは一人の声優が担当することがほとんどである。つまり、「公式」を「供給源」とする我々は、親密なキャラクターの声について、「公式」のものをそのままトレースしている場合が多い。したがって、「公式」に決定付けられた文章を喋る彼の声は、私の中にのみ存在する彼の声と同じものとなり、その物語を享受する時、それは「公式」のキャラクターと私の親密なキャラクターとが混ざり合う経験となるのだ。絵や文章など視覚的にのみ経験される二次創作物と比較すれば、双方の経験され方の強度の差は明白であろう。その時々で自己を没入させる二次創作物とは異なり、「公式」コンテンツは、キャラクター音声を用いて記憶を印象付け、「私」のキャラクターへの志向を長期的に方向付け得るのだ。

この「志向の方向付け」には、キャラクターのみならず「私」自身の変貌をも伴う。心理的な領域内でコミュニケーションを取るキャラクターが、「公式」のボイスによりその存在を補強される時、その受け手として「公式」が設定付けた主人公像が、少なからず「私」に反映されるためである。言い換えれば、一人のキャラクターを相手にしても、「私」は心理的にのみ結び付いた、決して会えない恋人であり、時にはダブルスペアのパートナーであり、単なるクラスメイトであるという経験が、それぞれ独立して存在するようになるのだ。「私」のキャラクターが「公式」の影響を受けるほど、こうした背反した経験も増え、「私」とキャラクターとの関係は容易には説明できない、複雑なものになっていくのである。

また、ここでは、キャラクターを私の心理的領域に引き寄せる行為と、逆に私がキャラクター世界に引き寄せられる状況が、同時に起こっていると言ってもよい。テニプリは、自ら様々な物語を提示することで、キャラクターを想う人々をキャラクター世界へ誘う、多くの入り口を設けていると言えるかもしれない。

5-2.「二次元」と「三次元」の分離


5-2-1…分裂する「私」
「私」自身がキャラクター世界の磁場に引き寄せられる時、それは同時に、「私」の、我々が生きているこの現実世界からの離陸を意味する。したがって、現実世界は「私」の唯一の存在場所ではなくなり、相対化されることになる。こうした意識は、オタク界隈において、キャラクター世界を意味する「二次元」に対して、この現実世界がしばしば「三次元」と呼称されていることにも表れているだろう。

ここで、一つの仮説が立ち現れてくる。すなわち、世界が二つに分離しているということは、それと相対する「私」もそれぞれの世界へと分裂していくのではなかろうか。一人の人間を起点としていようと、その世界自体の差異が、いずれそれぞれのパーソナリティの差異を生み出していくことは、必然であるように思える。例えば、個人の嗜好が、各々の世界で異なる可能性があるはずだ。

仮説を検討する際、『新社会学研究』の松浦の記述が参考になる。(松浦 2020)松浦は、二次元の性的表現を愛好しつつ、現実の他者に性的に惹かれないという男女三名にインタビューをし、彼らについて「かれらが二次元の性的表現を解釈する際には、『現実性愛[12]』に準拠しない解釈規則が用いられている」(松浦 2020、127)と指摘している。例えば、二次元の性描写を愛好する彼ら三名は、全員、生身の人間の実演する性的コンテンツには嫌悪感を抱いていたと言う。ちなみに、私や、同様のセクシュアリティを持つ友人にも同じ認識があるため、偶然この三名にだけ見られた特徴ではないことも窺い知れる。

別の具体例として、私についても記述しよう。私は、「自己投影タイプの夢女子」的なセクシュアリティを後天的に獲得しており、中学生頃までは、生身の異性に恋愛感情を抱いていた。しかし、その期間に異性と交際した経験はなく、言い換えれば、実存の身体での、恋愛に関する諸体験を欠いている。その一方で、現在の私にはキャラクターの「彼」と交際している自覚があり、先に触れた『消滅世界』内の登場人物と同様に、彼と心理的なコミュニケーションが成立している自覚もある。

恋愛感情そのものの認識については、三次元での経験に準拠しているかもしれない。しかし、「恋愛感情を抱く相手と手を繋ぐ」といった、心理的、かつ身体的な経験について、私の心理的な領域で創作していることになる。つまり、私が想像する「手を繋ぐ」という行為は、実際の感覚とそれなりに合致しているかもしれなければ、乖離している可能性もあるのだ。これらの事例は、まさに、二次元と三次元とが別の解釈原則、即ち別の自己の在り方に基づいて認識されていることの証明である。

ここで改めて指摘しておきたいのは、二次元における「私」とは、三次元の(実在する)「私」をコピーアンドペーストした存在である必要も、必然もないという点である。「私」の出発点は三次元の実在であっても、それぞれの「私」の間には普遍的な支配―被支配の関係はない、とも言い換えられるだろうか。「三次元の嗜好を基にして、二次元と相対する際には変化する」のではなく、「二次元においては、三次元とは別の解釈原則が用いられる」と表現したのは、その意図である。

つまり、本章第一節で触れた「『私』の可能性」とは、キャラクターとの「別であり得た」関係性を指すと同時に、実在の「私」から分離したパーソナリティの存在を内包しているのである。二つの「私」は、時には共通点を持ち、時にはほとんど全く別の存在へと乖離しながら、それぞれの世界に生きるようになるのだ。

 5-2-2…存在論的な危機
この現実が相対化され、主従関係のない自己像が二次元と三次元のそれぞれに存在する時、それは二つの世界そのものが独立していることを意味するだろう。では、この二つの自己像は、そして二つの世界は、一人の夢女子にいかに経験されるのだろうか。

結論を先行させると、精神世界と実存の身体とが乖離する感覚を伴う可能性を見出した。

二つの自己像、二つの世界が存在しようと、実存の身体を持つのは三次元の側のみである。一方で、我を忘れてキャラクターの「彼」に熱中する時、どちらの世界にも干渉できる精神世界は、二次元の側へウエイトが置かれた状態だろう。「二次元と相対する私」として過ごす時間を、三次元のそれより重視しているとも言い換えられる。

しかし、いくら自由に「彼」へと思いを馳せようと、それは、「自己投影」であるが故に、生身の身体の感覚を伴ったものになる。つまり、彼と触れ合い、愛し合える自由な精神と、彼とのコミュニケーションの経験が欠落した、実存の身体との違和が生じ得るのだ。その違和とは、例えば「私の精神はこれほど自由なのに、身体が楔になり三次元に繋ぎ止められる」という煩わしさであり、「彼とコミュニケーションが取りたいのに、体調が悪く上手く思考ができない」といった苛立ちである。

また、こうした不快感を抱くのは、二つの「私」同士が衝突する際も同様だ。既に何度か述べたように、二つの「私」は、通常それぞれに独立している。しかし、ここに外部の人間が立ち入った時、互いに衝突する場合がある。

例えば、「彼氏いるの?」と問われた夢女子は、一体何と答えればよいのだろうか。二次元の「私」を尊重し、正直に「いる」と答えてしまえば、私の中の親密なキャラクターが晒され、他者に踏み荒らされるリスクが生ずる。しかし、そのリスクを回避するため、もしくは「マジョリティにとっては、キャラクターは恋人とは言わない」とマジョリティ優位の視点を導入した結果、「いない」と嘘を付くとする。そうすると、自身のセクシュアリティのみならず、その中に確かに生きている、キャラクター本人でさえも傷付けてしまう。どちらを答えるか、或いは何も答えずはぐらかすかは当人たちの判断によるが、いずれにせよ、こうしてセクシュアリティの領域に他者に踏み込まれた際、そこには二つの「私」の衝突が生じていることが分かるだろう。

身体と精神との違和感、そして自身の精神内での葛藤を繰り返すことは、明らかに健全ではない。こうした状態は、いずれ「私はここ(三次元)にいるべきではない/いたくない」という、存在論的な危機を招きかねないためだ。「私」が三次元に生きていることの象徴としての、実存の身体さえ捨ててしまえれば、自由な精神体として、大好きな彼と永遠に一緒にいられるのだから。

以上の内容をまとめよう。「夢女子」というセクシュアリティを持った個は、自身の身体が生きる三次元と、キャラクターが生きる二次元のそれぞれへと分裂する。そして、二次元へと強く傾倒すると、三次元の「私」意識が薄まり、余分になった身体が鎮座するようになる。こうして、夢女子は元々の一人から拡散し、その内には、他であり得た「私」の多様な可能性を秘めるようになるのである。

5-3.迫られる「愛の証明」


夢女子の精神の葛藤に関連して、本章の最後に、同担、そして同嫁について改めて記述する。既に註釈した通り、いずれも自分が好きなキャラクターを好きである他の人々を指すが、これらの存在は、夢女子として生きる人にとって、多くの場合脅威となる。

その理由は、夢女子の恋愛感情の所在を肯定する根拠が、当人の心にしかないという点に帰結するだろう。夢女子とキャラクターとの関係とは、人間側が「○○くん(キャラクター)は私だけを好きでいてくれている」と思い込むことを基盤として成立している。したがって、「私は○○くんが好きだ」、更には「○○くんも私が好きだ」と声をあげる他者は、「私」の恋そのものを脅かす存在となることは自明だ。こうした傷付きを経験すると、同担や同嫁に極力関わらないようにし、時にはSNSで同担のアカウントを虱潰しにブロックするなどの行動を伴う、いわゆる「同担拒否」の現象が少なからず生じる。この現象は、自身とキャラクターとの関係を壊させまいとする、切実な思いの表れなのである。

また、彼との恋愛関係を保ち続け、更に同担・同嫁に対抗するには、「私」は常に「私は彼が好きだ」、そして「彼も私が好きだ」という事実の確認をし続けなければならなくなる。そうした、目に見える愛の実践としても、夢小説や夢絵などの夢創作文化や、キャラクターのグッズを敷き詰め、飾りつけた鞄である「痛バッグ」の文化を例示できる。好きだから愛を表現する、のみならず、愛を表現するから堂々と好きでい続けられる、とも言い換えられるだろうか。

また、痛バッグを「同担を殺すために作ってる」とは、同担拒否をしている友人の言だ。ここには、「好きな彼を持ち歩いて、一緒にいたいから」といった小綺麗な理由だけには留まらない、他者の目を意識した、愛の証明への強迫観念が見て取れるだろう。

彼を愛し、愛されていると信じ、他者にそれが脅かされる度、「本当に私たちは愛し合えているのか」と精神を葛藤させる。それでも立ち直ろうと、思い思いに愛を表現し、確認する。こうした過程の中に、まさに、他者の目を介在させてしまう三次元の「私」と、心的領域で自由に彼を愛する「私」の所在を見ることも出来る。 

第六章 おわりに

6-1.結論


6-1-1…夢女子のリアリティ
本論文では、キャラクターに恋愛感情を抱く「夢女子」をテーマに、その中でも、自身の身体を基盤として恋愛関係を切り結ぶ「自己投影タイプ」に着目した。そして、キャラクターの持つ深みにより、彼と親密な関係を築くことができると指摘し、それがキャラクターと結び付く経験故に、「私」の内部には「実在する私」以外の可能性を秘めるようになるとした。また、第五章の末尾部では、キャラクター世界への没入による実在の私の危機についても記述した。この感覚は、ここ二年ほどで、私自身に深刻に立ち現れてきたものである。

「夢女子」や「フィクトセクシュアル」と検索をかけ、当事者たちの文章に目を通すと、どれも存外に明るく、華やかなものが多い。いずれも「好きな人が二次元でも、悲しくも辛くもない」といった論調であり、私が提唱するような事態に陥っている人は、目に見える範囲にはあまりいないと言ってよいかもしれない。

しかし、「楽しい」という感覚だけで恋をしているのではない、と記述することを、私は放棄しなかった。キャラクターに恋をすることは、決して楽しいだけの趣味の領域ではないことを、強調するためである。心の中の私が、心の中のキャラクターにいくら触れることができても、実際の触覚が伴わないのは、少なからず悲しいものである。当然のように手を繋いでいるカップルを目にすれば、少なからず憎悪が湧くものである。そうしたリアリティを以て築いている関係を、「そんなものは恋愛ではない」であるとか、「現実を見ろ」と言われる筋合いはない。

6-1-2…キャラクターを「愛する」ことの魅力
そうは言ったものの、やはり、キャラクターとの恋愛というものは、基本的には楽しいものである。その楽しさや、喜びについて記述しておく。

第三章にて、「物理的コミュニケーションの不可能さ」について記述したが、私は、実際には可能な部分もあると考えている。それは、新発売のグッズの新規イラストによって歓喜の涙を流させることでも、ゲーム上のテキストの羅列で頬を熱くすることでも、漫画の展開に心音を速めることでも言える。例え実体を伴わなくとも、彼の存在は私の喜怒哀楽の要因となり、心肺機能や涙腺に影響を与えられる。速い心音や火照る身体を意識すると、越えようのない三次元と二次元との壁をすり抜けたような心地になり、言いようのない喜びを感じるものだ。

また、こちらの時間軸で、彼と時間を共にできることも喜ばしい。時にはイベントに参加し、ゲームをプレイし漫画を読み直し、絵を描きながら、私は彼のために時間を費やすことができる。彼のために費やせる時間ほど、私が自分の時間を差し出したいと思う他者は、三次元には存在しない。

また、彼がいることで、自身が伸び伸びと生きられている点にも魅力を感じている。彼を通して、創作活動やお洒落を楽しむことができ、より自分を好きになれる感覚が心地良い、とも言い換えられるかもしれない。こうした感覚に関連して、これまで何度か参照した『恋愛のアーキテクチャ』(青弓社)において、平野は以下のように述べている。


「愛はこれまで無償の愛とか、献身的な愛とか、相手に対してアプローチする能動的な部分、つまり相手への愛が非常に強調されてきました。でも実際は、なんでその人のことが好きかというのは、『その人といるときの自分が好き』という部分がかなりあるのではないか。」

(平野 2012、28)

本論文では、文脈上、キャラクターの解釈へと思いを馳せる、夢創作として愛を表現するなど、能動的な愛の実践についても多く記述した。一方で、夢女子とキャラクターとの恋愛とは、人間である「私」を起点として成立していると何度も記述したが、それはまさに「私」の「彼といるときの自分が好き」との感覚に端を発していると言えるだろう。

彼のための能動的なアプローチを楽しみ、時には脅迫的になるその前に、そうした行為の原動力となる自身の「愛」、それ自体にも目を向けたいものである。

6-2.夢創作の可能性


本論文の最後に、夢創作をし、時に他人の作品を享受することの魅力について記述したい。

普段は当人の心の中で不可視化されている愛が、文章や絵によって生き生きと表現される様は、とても美しいものだ。「夢小説を読むこと・書くことの独特の楽しさ、面白さ、美しさの一端は、やはりむきだしの裸の〈私〉 に触れられるということにある」(梨々 2013、39)とは、夢小説に関して精緻な考察が成された良書『ゆめこうさつぶ!~庭球日誌~』の記述である。まさしく、作者のむきだしの愛を感じられるという点で、夢創作ほど作者のパワーが閉じ込められた創作形態を、私は他に知らない。

また、自身と「彼」との愛を表現した作品を公開すれば、時に他者に賞賛され、関係を応援されることにも繋がる。それには、例えようのない喜びが生ずるものである。なぜならば、この時、可視化された「私」と「彼」との関係について、夢女子にとって希少な「承認」が得られているためだ。したがって、夢創作とは、夢女子とキャラクターの「彼」とを孤独にさせない、希望に満ちたツールでもあると言えるだろう。

しかし、キャラクターとの親密な関係は二人だけのものであり、他人に晒したくない、と考える人々まで脅かすつもりはない。私は、誰かと喜びを共有したいにも関わらず、他者の目に怯えている当事者たちの、背中を押したいと思うのである。それぞれの恋愛は、絶対に魅力的であり、決して踏みつけにされてよいものではなく、その人にしか語れない愛が必ずあるのだから。

誰かに「彼」との関係を見て貰えるよう、しかし脅迫的な愛の証明にはならないよう、バランスを取りながら、私は夢創作をし続けるのである。そこには、私の心的領域の延長線として、私とキャラクターの愛の形が確かに存在するのだ。


脚注

[1] 「広義」といっても、実際には既にかなり限定的な意味になっていることを、ここに書き留めておく。本論文が、私自身の志向である「フィクトセクシュアル(後述)女性×男性キャラクター」に特化した内容であるが故に、女性対男性キャラクターと断定させていただいた。しかし、同性のキャラクターに恋愛感情を抱く人や、そもそも本論文のキーワードである「夢女子」にさえ含まれない、キャラクターに恋愛感情を抱く男性の存在をなおざりにしてしまうのは、筆者としても遺憾である。重ねて言うが、本定義は論文中でのみ効力を持つことを強調しておきたい。

[2] 本来、「自己投影」という言葉は、心理学の用語で「自らの内にあるが認めたくない性質や感情を、自分ではなく他の人あるいは物にあるかのように無意識に感じてしまうこと(実用日本語表現辞典より引用)」を指すが、インターネット上では、架空のキャラクターへと感情移入し、自己と同一視するとの意味に転じている。

[3] 必ずしも恋愛関係である必要はなく、キャラクターとの友情を描いた作品も存在する。しかし、大多数の夢小説が恋愛関係をテーマにしている点、また本論文の着眼点が架空のキャラクターとの恋愛関係にある点から、今回は夢小説を「恋愛」を主軸に置いて扱うこととする。

[4] この後、山田は「経済生活と親密性が同時に手に入る」(山田 2019、154)近代的結婚は、経済状況の変化や、結婚と親密性の分離により、最早不可能となったと指摘する。しかし、日本では、社会システムが近代的結婚を前提としている、離婚の手続きが煩雑なために結婚が未だに関係の永続性を保証しているなどを理由に、近代的結婚が信奉され続けているという。そのため、ロマンティック・マリッジ・イデオロギーを説明する上で、欧米圏にとっては過去の議論を参照した。

[5] 「同担」と「同嫁」は、いずれも自分が好きなキャラクターを好きな他の人々を指すが、前者はファンとして好きであるのに対し、後者は恋愛感情を伴った「好き」であることを意味する。したがって、夢女子の中にはどちらも嫌(いわゆる「同担拒否」)だという人もいれば、ファンとして応援してくれる同担は構わないが同嫁は許せない、という人もいる。

[6] 例えば、野田サトル作の『ゴールデンカムイ』の二次創作において、腐向け作品のタグには『#金カム腐』、夢向け作品のタグには『#金カ夢』が存在する。

[7] 近年では広く知られた名称である「推し」だが、本論文中では「時間や金銭を費やす、創作活動によって表現するなど、自発的にコストをかけて応援したいと思う人物」とし、恋愛感情の有無は問わない。

[8] ここで言う「original」は文脈上「原典」の意であり、「公式」のキャラクター像を指している。

[9] こうした実践は、時に「公式」のコンテンツでも採用される。例えば、週刊少年ジャンプで連載されていたスポーツ漫画『テニスの王子様』を原作とした恋愛シミュレーションゲーム『テニスの王子様 学園祭の王子様』において、原作の設定ではとある女子キャラクターに片思いをしているはずのキャラクターが、ゲーム上では彼女を気にも留めず、主人公と恋に落ちる。したがって、公式の間で提示した情報が矛盾していることになるが、これは、彼の片思いの事実を切り捨てた上で彼へと思いを寄せている人たちへの、同調だと言えるだろう。また、こうした仕組みが「公式」コンテンツ側でも用いられた事実は、受け手側でも類似の実践が行われていて、改変を受け入れる下地がある証拠にもなる。

[10] また、純粋な関係性の原動力となるコンフルエント・ラヴについて、吉澤が「生殖(母性)を基盤に据えるセクシュアリティの在り方を前提にしていない、という点でロマンティック・ラヴとは決定的に異なっている」(吉澤 2012、14)としている点も興味深い。夢女子の間でロマンティック・ラブ・イデオロギーが効力を持たないことは既に指摘したが、今回の文脈でも改めて確認することができる。

[11] 一般に、乙女ゲームには原作となるコンテンツは無い。言い換えれば、乙女ゲームとは「恋愛をするために生み出されたキャラクターたちと恋愛をするゲーム」である。原作がある上で乙女ゲームが作られるだけでも衝撃的だが、更に原典の物語には恋愛に関する描写がほぼ皆無な点も踏まえると、テニプリの特異さが強調される。ちなみに、本作品は、膨大な量のキャラクターソングがあることも有名である。その中にはラブソングも数多くあり、中には、漫画の中のキャラクターとして読者への愛を歌った曲もある。その手厚さ故にか、テニプリは「夢女子に優しい」界隈として有名である。

[12] 『現実性愛』とは、現実の実在する他者へと恋愛感情を向けるセクシュアリティを指し、マジョリティの恋愛を有徴化した呼び名である。

引用・参考文献

・A・ギデンズ、1995、『親密性の変容――近代社会におけるセクシュアリティ、愛情、エロティシズム』(松尾精文、松川昭子訳)、而立書房
・石田博士、2013、「『人間賛歌』描いて四半世紀 漫画家 荒木飛呂彦さん(53歳)」、『朝日新聞』、朝刊、2013年9月14日、『be』1面
・隠岐さや香、木上芙実子、西森路代、汀こるもの、吉澤夏子 他、『ユリイカ』、2020年9月号、青土社
・岩下朋世、2020、『キャラがリアルになるとき――2次元、2.5次元、そのさきのキャラクター論』、青土社
・岩間暁子 他、2015、『問いからはじめる家族社会学―多様化する家族の包摂に向けて』、有斐閣
・上野千鶴子、伊野真一 他、2005、『脱アイデンティティ』、勁草書房
・牛窪恵、2015、『恋愛しない若者たち―コンビニ化する性とコスパ化する結婚』、ディスカヴァー携書
・カレー沢薫、2019、「カレー沢先生、『公式と解釈違い』のモヤモヤをどう解消すればいいでしょうか?」、『カレー沢薫のワクワク相談室』、http://kinonoki.com/book/onayamisodan/wakuwaku27.html (2021年8月27日にアクセスし、該当記事の削除を確認。引用にあたり、岩下朋世著『キャラがリアルになるとき――2次元、2.5次元、そのさきのキャラクター論』188ページを参照した)
・国立青少年教育振興機構、2016、『若者の結婚観・子育て観等に関する調査』、http://www.niye.go.jp/kanri/upload/editor/111/File/gaiyou.pdf(2020年12月5日アクセス)
・斎藤環、2009、『関係する女 所有する男』、講談社
・櫻井圭記、平野啓一郎 他、2012、『恋愛のアーキテクチャ』、青弓社
・さくらももこ、1991、『もものかんづめ』、集英社
・谷本奈穂、渡邉大輔、2016、「ロマンティック・ラブ・イデオロギー再考―恋愛研究の視点から―」、『理論と方法』、第31巻1号、https://www.jstage.jst.go.jp/article/ojjams/31/1/31_55/_pdf(2020年12月4日アクセス)
・濱野ちひろ、2019、『聖なるズー』、集英社
・松浦優 他、『新社会学研究』、2020年第5号、新曜社
・宮澤諒、2017、「もしかしてただで見られるんですかーッ!?『王様のブランチ』谷原章介×荒木飛呂彦対談がネットで公開ッッッ!TBSのそこにシビれる!あこがれるゥ!」、『ねとらぼエンタ』、https://nlab.itmedia.co.jp/nl/articles/1703/13/news118.html (2021年9月1日アクセス)
・森山至貴、2017、『LGBTを読みとく――クィア・スタディーズ入門』、筑摩書房
・吉澤夏子、2012、『「個人的なもの」と想像力』、勁草書房
・リクルートマーケティングパートナーズ、2019、『恋愛・結婚調査2019』、http://www.recruit-mp.co.jp/news/20200115_01.pdf(2020年12月3日アクセス)
・梨々、千ゐ、2013、『ゆめこうさつぶ!~庭球日誌~』(web公開版: http://yinfo.web.fc2.com/ykb.pdf(2020年12月3日アクセス)
・山田昌弘、2019、『結婚不要社会』、朝日新書

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