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note始めた原点に立ち返ったら、ふと「バンド」と浮かんだ。

バンド。
それぞれの得意分野やスキルを持ち寄って、
それぞれの表現技法の相乗効果で、
独自の音楽をつくっている集団だ。

少なくとも、ぼくはそう定義している。
ことしの2月。後輩とふたりでKing Gnuのライブへ行って感動したが、まさしくそうだ。
あの感動は、常田大希だけでは起こせないチームによる感動だった。
だから、ぼくはバンドに憧れている。
けれどもだ。
ぼくには致命的にグリット※がない。

※グリットとは・・グリット(grit)は、困難や逆境に直面しても、目標を達成するために粘り強く努力し続ける能力や意志力を指します。これは、情熱と忍耐を持ち続けることで、長期間にわたって目標を追求する力を強調します。

これがないことは、すなわち、楽器習得には致命的な欠陥である。だから僕は音楽を辞めた
そして、ぼくにはリズム感のかけらもない。だから、この才能を奥まで深堀ろうという気にはなれなかった。
じぶんの歌声を好きだと思ったことはないし、
カラオケの採点で89点以上取ったことないし、
歌声から何かを伝えるみたいなこともできない。
加えて文才もない。歌詞。あの短い数行にあれだけの感動と熱狂を呼び起こす言葉選びは、ぼくの人生が何回あったって到達できるかわからん領域だと思う。

が、しかし、歌詞を堪能することは好きだった。
「この言葉選びすげぇな」
「うんうん、ここでこの言葉じゃなきゃいけないよな」
こんな風にアーティストの歌詞を堪能することは好きだった。

ぼくには、音楽の才能はなかったが、常田大希のもってる才能がえげつないことがわかるくらいのちっぽけな才能があることに気がついた。その一点でアーティストとつながれている。そこでその人の一部になれてる。そういう感覚をKing Gnuから教わったのだ。つまり、ファンのあり方の作法のようなものを学んだのである。ファンになるってこういうことかぁ、みたいな。

King Gnuの「雨燦々」は、
ぼくの一番大好きな曲だ。
何千回再生したかわからない、そんな大好きな曲である。
何度も聴いて何度も救われた。
PVも何度も観た。何度も観て次のシーンすら脳が記憶しているのに、それでも感動した。
言葉選びの一つひとつに救われる。
そこに幾重もの楽器が加わってひとつの世界観が構成されていることがわかる。
そのコトバを引き立たせるメロディやリズムで、相乗的な感動を起こす。
これ以上にこころ奪われた曲はほかにあるだろうか。

「雨燦々」の歌詞はすこし不思議な世界観だ。意味を解釈するなら「よくわからない」という感想がほとんどだと思う。でも、それなのになぜか励まされる。このなぜかが重要だ。このブラックボックス(よくわかならいのになぜか励まされる)が、聴く人ひとりひとりに豊かな解釈を彩らせるのだ。だから、ぼくはあなたにとっての「雨燦々」を感じてほしいから、あえて感想は言わない。ぜひ歌詞をみながら鑑賞してほしい。その貴重で実りある時間を大切にしてほしい。

ぼくはKing Gnuを通して、ファンになるということを学んだ。
その世界観を愛して、なんどもなんども堪能して、啜れる限り貪り食うように、なんどもなんども咀嚼する。
こういうあり方がじぶんの人生を明らかに意味のあるものにしている感覚があった。
ファンになるということは、じつはあなたの世界がちょっとだけ彩りに染まることなのである。
この雰囲気には、この曲だな。たとえば、失恋したらこの曲に励ましてもらおうとか、気分がいいときはこの曲に盛り上げてもらおうとか、朝の始まりはこの曲でとか、そんな風に少しだけ、ぼくの人生が着実に色味を帯びていく過程なのだ。
だから、King Gnuの常田大希はぼくに生きる意味を与えてくれる人なのだ。

こんな風になりたい。
そう思った。
でも、先述のとおり音楽の才能はからっきし。

じゃあ、なにがある?
文章だけはまわりから褒められることが多かった。というか、AO入試だったから文章で大学に入っていると言っても言い過ぎじゃない。それに、大学入ってからもコトバを磨き続ける日々だった。ひたすらにページをめくった。
来る日も来る日もコトバと格闘したら、知識もついた。
だったら、そろそろコトバの世界で闘ったっていいんじゃないか。そう思って立志した。これが山門文治の始まりだったことを今、思い出した。
ずっとビジ門文治になって、無理してたノドの小骨が抜けた感覚だ。
お金は稼ぎたい。でも、それはこの生活を続けるため。
それより書きたい。だから、売れて欲しい。売れ続けたい。
そこに矛盾はない。でも、ゴールはやっぱりビジネスじゃない。
「売れる」より「読まれる」だ。

そこで、ひとつ。
アウフヘーベンしてしまった。

「売れる」と「読まれる」を両立する妙案だ。
というわけで、実はこっからが本題。

山門文治は、アーティストだ。
ぼくはnoteという媒体を選んだアーティストである。

アーティストなら制作物が必要だ。
なのにそれが見当たらない。あれ、山門文治って何つくってんだ?ん?作家?このあたりが多くの読者にとっての「小骨」にちがいない。

ということで、山門文治はアルバムを制作する。
とはいえ、いきなりぼくがマイクをとって歌い始めるわけではない。
(noteにはそういう機能もあるので、歌の投稿なんかは実は向いてると思うけどね。)
そうではなく、noteという媒体で、テーマとコンセプトをもった創作物をつくるのだ。
そして、それをまとめる。
それは物語かもしれないし、講談調のなにかかもしれないし、紹介かもしれない。何が飛び出すかは、買ってからのお楽しみである。
でも、なんどもなんども読みたくなる、そんな文章だ。
そして、読んだら、いろんな感情や疑問を呼び覚まして、あなたの世界を拡張する。
これは、noteの有料マガジンという機能で実現しそうだ。
有料マガジンはアルバム。

それでは、いよいよタイトルを回収する。タイトルには、「バンド」というキーワードがある。
今までこのキーワードについて、まったく触れずに来ていたが、いよいよ回収だ。ただ、これはまだ妄想の段階の話である。
それは、noteでバンドだってできるという妄想である。
コンセプトを決めてメンバー同士で知恵を文殊し、文才で掻き鳴らせば、音楽というジャンルじゃなくとも、みんなのこころに響く傑作ができるんじゃないだろうか。
執筆というと、とても個人的なイメージがつきまとうけど、たとえば分担したり、たとえば任せちゃったり、こういう形でチームでひとつのものをつくるという創作物もひとつのあり方だよなぁと思う。

これを読んだ人の中で、ぼくと一緒に「武道館」を目指したいと思った人がいたら連絡ください!
かなりシビアな審査基準だけど、あなたをバンドメンバーにします。興味ある人はDM待っています。
※もちろん、これはnoteだけの話です。だけど、こういう微細なニュアンスや文章のキビが読めない人は、DMしてきてもそもそも相手にしない程度にはシビアです。
こちらは、山門文治のコトバテラスとはちがうプロジェクトで、「虹色パレット」というマガジン名で曜日を担当制設けて、毎日なにか投稿をするというコンセプトになります。

ここからはさらに激しい妄想なのだが。
山門文治がこういう活動を続けていたら、それに呼応する人が現れてくれるのではないだろうか。
情報ではなくじぶんの文章を売りたいnoterがたくさん登場してくれて、そういう文化がこのnoteから醸成されてくれるかもしれない。そうすれば、面白い文章が読めるプラットフォームとして話題にもなるだろうし、人の文章に値段をつけるという行為もそこまでネガティブな嫌悪感を示されずにようになるのではないだろうか。
そうすれば、こういう生き方が肯定されて、文章を書くという行為で稼ぐ人がもっと増えてくれるのではないか。そう信じている。

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