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7月15日(1995年) 大宮で鹿島に競り勝ち、ステージVの可能性残る

 1995年7月15日(土)、浦和レッズは大宮サッカー場に鹿島アントラーズを迎えて、Jリーグ1stステージ第24節を行い、2-1で勝利した。

 第20節の横浜マリノス戦に勝利し、勝敗を10勝10敗としたレッズだが、その後アウェイで柏レイソルに、ホームでサンフレッチェ広島に競り勝ち、チーム史上初の4連勝を果たした。さらに第23節のアウェイ、清水エスパルス戦でもVゴール勝ちし5連勝。5勝のうち3勝がVゴール勝ちという粘り強さだった。

「全部勝てば」が現実的になってきた

 レッズサポーターはもともと、可能性がなくなるまでチームの優勝を信じていた。と、思う。少なくとも僕は過去2年間、最下位にいながらも「まだ残り全勝して、上が全部負ければ優勝できる」と思っていた。そう思いたかった、と言った方がいいかもしれない。だから当然このステージも同様に、残り全部勝って…、というのは常に考えていた。
 広島戦の勝ち方が、「7月8日」に書いたように神がかっており、残り全部=その時点では残り4試合、勝つというのは決して難しくはないように思えた。そして首位は横浜Mだったが、全部負けなくても2敗すれば、4勝したレッズが並ぶという状況だった。決して過去2年間抱いた妄想のような小数点以下の確率とは違うのだ。横浜Mとはもう2試合終わっているから直接対決はないが、このステージ2試合ともレッズが勝っていることで、まだ射程距離内に置けているということだ。首位のチームを2タテしているのだから、ステージ優勝する資格はあるように思えた。

水かけるサッカー誌にMDPで反論

 ところが某サッカー雑誌に「こんなレベルの低い大会でどうする」という趣旨のコラムが掲載された。
 26試合のリーグ戦で残り4~5試合になっても優勝チームがあまり絞られず、第20節でようやく勝率5割に達したようなチームにまで可能性があるというのは、なんと情けないことか、という内容だった。

 頭にきた。たしかに突出したチームがいないということではあるが、それがレベルが低いということとイコールなのか。メディアとしては2強対決みたいな図式の方がいいかもしれないが、Jリーグ全体としては終盤まで多くのチームのサポーターが可能性を信じていられる方が盛り上がりにつながるのではないか。そう思った。大相撲なら、平幕が11勝4敗で優勝したりすれば、横綱や大関がだらしない、という言い方はできるだろうが、それとは話が違うだろう。レッズが初めて優勝の可能性を残して終盤を迎えたときに、水を掛けられた気がして、MDPにかなりきつい反論を載せた覚えがある。

 鹿島も当時、優勝の可能性を残していたチームの一つで、この第24節はサバイバルゲームのようなものだった。
 試合は43分に鹿島が先制。この時期、レッズは先制されたり勝ち越されたりして火がつくという流れがあった。61分、ギド・ブッフバルトが同点ゴールを決めると、鹿島の攻撃をはね返し、85分にウーベ・バインが前線へスルーパス。これに岡野雅行が追い付き、そのままペナルティーエリアに侵入し、相手に倒されたが最後のタッチがボールをゴール内へ押しやっていた。岡野は自分がゴールしたことに気付かず、起き上がるとPKをアピール。土橋正樹が駆け寄って「入っているよ」と説明すると、一転、立ち上がってゴールランしだした。この日の入場者は1万人を超えた。

土橋「オカ、ゴール入ってるよ」 岡野「なに? あホントだ」

 レッズは6連勝で3位に浮上。残り2試合に勝ち、横浜Mが2つとも負ければ勝利数で並ぶ、という状況まで来た。横浜Mがどうあろうと、もう勝つしかない。最高に幸せな毎日を過ごしていた。

 さて、みなさんは1995年7月15日、何をして何を感じていましたか?

【あの日のわたしたち~浦和レッズ30年~】は、レッズサポーターのみなさんから投稿を募っています。浦和レッズ30年の歴史をいっしょに残していきましょう。詳しくはマガジン「あの日のわたしたち~浦和レッズ30年~」のトップページをご覧ください。


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