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8月7日(1999年) 京都に逆転負けで、血の気が引いた

 本当に正直な話、この年の僕は、この試合までは降格の危機感を真正面からとらえていなかったと思う。

 1stステージが終わって16チーム中13位というのは、まだ降格圏ではないし(15位以下が降格)、2ndステージが開幕する前、大きな関心は、タイミングも含めて原監督解任の是非だった。
 解任そのものの是非というより、解任したはいいが後任が決まっておらず、最もチーム強化に大事な8日間のキャンプを含め約1か月間を監督不在のまま過ごしたことの是非だ。

 クラブが原監督の解任を決めたのは6月12日、ナビスコカップ2回戦の第1戦でJ2の大分トリニータに敗れたことだった。
 僕はこの試合を見て、「これなら第2戦で逆転勝ちできるんじゃないか」「残留争いに巻き込まれずに済みそうだ」と感じた。ヨーロッパから帰ってきた岡野雅行と永井雄一郎はひとまわりたくましくなっていたし、期限付き移籍で獲得した中村忠と路木龍次も戦力アップになったことは間違いなかった。ただ4人とも合流してからの期間が短かった。一番長い永井が6月1日、岡野が5日、中村と路木は7日、そして試合が12日。この短期間で補強の成果を出すのは難しかっただろう。だから、せめて1週間後、6月19日の第2戦を見てからでも良かったはずだ。

だがクラブは第1戦の内容や伸びしろに目を向けず「J2に負けた」という結果だけを重く見て、監督解任を決めてしまった。
 チームの成績の悪さでグッズの売り上げも落ちていたらしいし、パートナー企業からの突き上げもあっただろう。またクラブへの抗議メール、電話、FAXなどもボディーブローのようにじわじわ利いていったに違いない。だが、そういうチームの強化以外の部分も監督を決める重要な判断材ではある。横山謙三GMは第1戦を見て「これなら原監督続投で大丈夫」と思ったそうだが、抗しきれなかった。
 6月12日の「あの日」にも詳しく書いたことだが、これはレッズ史の中で非常に大事なことなので、何度でも書く。

 監督解任を急いだ結果、上記のように約1か月監督不在の時期があり、ア・デモス新監督が着任したのは7月17日。その直後に鹿島アントラーズとのナビスコカップ準々決勝2試合があり、それから2週間後が2ndステージの開幕だった。

 1999年8月7日(日)、浦和レッズは西京極総合運動公園陸上競技場に乗り込んで、京都パープルサンガとJ1リーグ2ndステージ開幕戦を行い、1-2で敗れた。30分にDFザッペッラが先制したが、後半追い付かれ、87分に決勝ゴールを決められた。

 前半先制したときには、緊張感が緩むほど安心したのだが、終了の笛が鳴ったときには、血の気が引いた。
 京都に逆転負けって、どうよ。新しい監督になっても全然だめじゃん。
 これから11月までの苦しい戦いを覚悟した。

 さて、みなさんは1993年8月7日、何をして何を感じていましたか?

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