6月12日(1999年) 解任を判断した時期は正しかったのか

 1999年6月12日(土)、浦和レッズは大分市営陸上競技場に乗り込んで、大分トリニータとヤマザキナビスコカップ2回戦の第1戦を行い、0-1で敗れた。この敗戦を受けて、翌週19日の第2戦を待たずに、クラブは原博実監督の解任を決定した。

1st不振を受けて4人を補強

 このシーズン、J2発足と同時に自動降格制度も導入され、1stステージを13位で終えたレッズ。2ndステージが始まるまでの約2か月で立て直すべく、クラブはテコ入れをした。まず前年の途中からドイツのカールスルーエで武者修行中の永井雄一郎と、オランダのアヤックスにこの年の初めから練習参加していた岡野雅行を呼び戻した。
 さらに2人を期限付き移籍で獲得。ヴェルディ川崎から守備のベテラン中村忠、横浜F・マリノスから左のスペシャリスト路木龍次。2人とも元日本代表で、岡野もそう。永井もU-20日本代表として、この年の4月に行われたワールドユース選手権準優勝に貢献した選手。実績十分の4選手を一気に補強したことになる。

加入5日~11日後に大分戦

 しかし、永井がドイツから帰国したのが6月1日、岡野がオランダから帰ってきたのが5日、中村と路木を期限付き移籍で獲得したのが7日で、試合が12日。この短い間で補強の結果を出すのは難しかったと思う。
 たしかにJ2の大分に負けたというインパクトは大きかった。だが僕はこの第1戦を見て、逆に何とかなりそうな気がしていた。特に、途中出場した永井と岡野はヨーロッパに行く前より明らかに身体つきもプレーの雰囲気も、たくましさを増していた。それに「負けた」と言っても、第2戦が終わるまではナビスコカップ敗退が決まったわけではないのだ。あと1週間、新加入選手たちがフィットする期間があるのだから、改善は十分可能だと思えた。もちろんナビスコ杯での逆転だけでなく、2ndステージに向けても。

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 これはあと出しじゃんけんで言っているのではない。12日の試合を見て、悔しさと共に抱いた気持ちだ。
 選手補強の結果を見るなら、19日の試合の後で解任か続投を決めても遅くはなかったと思う。もう後任監督が決まっているならともかく。

チーム状況以外の要素も

 この時期は「原監督をやめさせろ」という周りの声がたしかに大きくなっていた。それに伴い。グッズなどの売り上げもダウンしていたという。
 だが、最も大事なことは、この監督とこの選手たちで残りのシーズン、勝てるかどうか、ということだ。それはファン・サポーターを含めた周囲の目ではなく、日常の練習や選手の雰囲気を直接把握するクラブにしか判断できない。
 監督と選手たちの気持ちに大きな乖離があるとか、監督の求心力が極端に小さくなっているというなら試合の結果を待たずに解任を決定することもあるだろうが、僕はそういうふうに感じ取れなかった。

第2戦で「やはり」逆転勝ち

 6月19日には違う試合のことを語る予定なので、駒場での大分との第2戦についても言ってしまおう。
 試合前に原監督本人にだけは解任が伝えられたという。選手たちは知らずに試合に臨んだ。
 岡野、永井が2トップで先発。その岡野のクロスから永井がヘディングで先制するなどレッズは3-1で第2戦を勝利。2試合トータル3-2でレッズが準々決勝進出を決めた。試合後、原監督と握手を交わす選手たちの満足げな表情が、この後、監督解任を知らされてどう変わったのか、僕は知らない。

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 クラブはクラブでこのことをきちんと総括しているはずで、僕はクラブ内での議論の正確なところを知っているわけではない。だからあくまで僕の見方として、浦和レッズとして初めての監督の途中交代はこういうふうに行われたということを、30年の歴史に刻んでおきたい。

 さて、みなさんは1999年6月12日、何をして何を感じていましたか?

※この内容はYouTube「清尾淳のレッズ話」でも発信しています。映像はありませんが、“ながら聞き”には最適です。
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