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7月10日(1993年) そのとき僕は、日本平のゴール裏にいた

 30年の中で、僕もゴール裏で試合を見たことが1度か2度ある。と言っても、そこにいた、というだけで90分ずっとそこで応援したことはない。今回はその一つだ。

 1993年7月10日(土)、浦和レッズは日本平運動公園球技場に乗り込んで、清水エスパルスとJリーグ1stステージ第17節を行い、0-0の末PK戦で敗れた。

優勝チームも再最下位も決まり

 この前の第16節では、レッズがホーム駒場競技場で鹿島アントラーズに敗れ、目の前で相手の1stステージ優勝を見たばかりだった。
 当時のルールでは、年間勝ち点1位になんの資格もなく、両ステージの優勝チームが同じだった場合、両ステージの2位チーム同士がプレーオフを行い、その勝者と両ステージ優勝チームがチャンピオンシップを戦うというものだったから、1stステージの2位になっておくことは大きな意味があった。
 清水も残り2試合を勝てば10勝になり、すでに10勝に達していたヴェルディ川崎と横浜マリノスが全敗すれば得失点差勝負で2位になる可能性はわずかながらあった。
 一方、レッズは3勝13敗ですでに最下位が確定。そんな状況で迎えた第17節だった。

2度目のPK戦にたまらず

 拮抗していた、というよりレッズが踏ん張っていた。清水がだいぶ押していたがレッズは守備陣、特に前々節から先発しているGK田北雄気が最後の場面でゴールを死守した。延長後半には清水にPKを与えてしまうが、長谷川健太のキックを田北がセーブし、相手のVゴール勝ちを阻んだ。シュート数35対14という120分の劣勢をスコアに反映させず、勝負はPK戦に持ち込まれた。

 このステージ、PK戦は2回目。いや延長自体が2回目で、最初に延長PK戦になったのが第5節、V川崎からJリーグ初勝利を挙げた試合だった。別にPK戦になれば勝つという一度だけの事実をジンクスととらえたわけではないが、前回のPK戦はホーム、今回はアウェイ。少しでも応援の力になりたいという気持ちだったのだろう。僕は急いでレッズのゴール裏に走った。まだ改修前でゴール裏は芝生席かコンクリートか、とにかくイス席ではなかった。
 いつものメンメンの後ろについて、念を送りながらそれまで口にしたことがほとんどないチャントを発した。「門前の小僧」で、耳にはいつも入っていたから問題はなかった。

今も耳に残る子どもの声

 先蹴りは清水。先頭キッカーは両者とも決め、2人目は清水が×でレッズが○、3人目も清水が外した。レッズの3人目が決めればリーチがかかる。
 そのとき、なぜか近くにいた清水ファンらしき小学生が言った。

「勝ってもレッズはビリ~!」

 そのときの心情を正直に記す。「なんだ、このガキ」
 そりゃムカつくだろ。間違いない事実ではあるが、こんなところで言うセリフではない。だが次に浮かんだ気持ちは、「気にくわないガキだが、レッズサポが何かしようとしたら、自分が止めよう」ということだった。
 ところが、レッズサポーターたちは誰もその子どもに構わない。拍子抜けするほどだったが、なるほどそんなことより、ピッチに集中するということか、と納得した。
 
 その後も、レッズのキックになるたびに、その子は「勝ってもレッズはビリ~!」を繰り返していたが、やめろという大人も同調する子どもも周りにいなかったから、1人で来ていたのだろうか。
 結局5人目が終わっても決着はつかず、サドンデスに入り、レッズの8人目が外して清水の勝ちが決まった。

ちなみに当時は固定背番号ではありません

 レッズにとっては完全に消化試合だったこの清水戦を覚えているのは、ある意味で、あの子の「おかげ」だった。今でもあの、小ニクらしい声が耳に残っている。

 さて、みなさんは1993年7月10日、何をして何を感じていましたか?

【あの日のわたしたち~浦和レッズ30年~】は、レッズサポーターのみなさんから投稿を募っています。浦和レッズ30年の歴史をいっしょに残していきましょう。詳しくはマガジン「あの日のわたしたち~浦和レッズ30年~」のトップページをご覧ください。


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