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マシュマロのお返事:「反復」って結局なんですの?

こんにちは、かばねです。このあいだ吉祥寺の古本屋さんに行ったらレヴィナスのインタビューがたくさん載ってる本が置いてあったのでノリで買ってしまいました。こうして積読が増えていくのだな…。

さて、またしても長文でキルケゴールのことが語れそうなお便りをいただいちゃいました!ありがとうございます!!以下をご覧ください。

テツケン発売おめでとうございます。 私は、かばねさんのデンケンをピクシブで読み始めた事がきっかけで、キルケゴール を、読んでみたいという気持ちになり、かばねさんのnoteを参考に「死に至る病」を手にしました。 その後、日記を読んでみたりしているうちに、「キリスト教の修練」という運命的な本に出会ってしまいました。そこからの「反復」「愛のわざ」毎日読書が楽しいです。聖書を読むとキルケゴール (かばねさんの絵で)からのツッコミ?まで入るようになってきました。 すべてはかばねさんのお陰です ありがとうございます✨ そこでよろしければ質問があるのですが、キルケゴール のいう「反復」とはどのような意味なのでしょうか?岩波文庫版に、宗教的意味で使われているという補足がありましたが、難しくてよくわかりませんでした。 もしも可能でしたら、この本に書いてある等、ヒントでもいただけましたら嬉しいです。 それではここまで駄文を読んでくださりありがとうございます。 これからのご活躍も楽しみにしております。 | マシュマロ 匿名のメッセージを受け付けています。 marshmallow-qa.com
テツケン発売おめでとうございます。
私は、かばねさんのデンケンをピクシブで読み始めた事がきっかけで、キルケゴール を、読んでみたいという気持ちになり、かばねさんのnoteを参考に「死に至る病」を手にしました。

その後、日記を読んでみたりしているうちに、「キリスト教の修練」という運命的な本に出会ってしまいました。そこからの「反復」「愛のわざ」毎日読書が楽しいです。聖書を読むとキルケゴール (かばねさんの絵で)からのツッコミ?まで入るようになってきました。

すべてはかばねさんのお陰です
ありがとうございます✨

そこでよろしければ質問があるのですが、キルケゴール のいう「反復」とはどのような意味なのでしょうか?岩波文庫版に、宗教的意味で使われているという補足がありましたが、難しくてよくわかりませんでした。

もしも可能でしたら、この本に書いてある等、ヒントでもいただけましたら嬉しいです。
それではここまで駄文を読んでくださりありがとうございます。
これからのご活躍も楽しみにしております。

『キリスト教の修練』がお気に入りとはイイですねえ!!アンチ=クリマクス名義で書かれた後期のキルケゴール著作が好きなオタクなのでニコニコしちゃいますよ。『愛のわざ』も前回ご紹介しましたが、私も楽しく読んでいるので仲間ができてうれしいです!

して、本題の「反復」とは何ぞや?という話ですが、これはなかなかの難問です。重要そうな気配を醸し出しているわりに、パキッとした説明が与えられているわけではないので意味がつかみにくいんですよね。たぶんマジでつきつめると修論レベルになるんじゃない? 

なので、ひとまず「反復」とは何ぞや?を考えるヒントに成りそうな箇所を紹介していこうかなと思います!


まず一番参照されるのは、『不安の概念』の緒論に出てくるめちゃくちゃ長い注です。ここは『不安の概念』の仮名著者であるヴィギリウス・ハウフニエンシスが『反復』や『おそれとおののき』に言及している箇所で、コンスタンティンの文章を引用しつつ「反復」についてちょっと詳しい説明をしてくれています。以下をお読みください。

「反復は形而上学の関心[インテレッセ]であり、そうして同時に、形而上学がそれにおいて座礁する所以の関心である。反復は一切の倫理学的なものの見方における合言葉である。反復は一切の教義学的問題にとっての必須の制約である。」第一の命題の内には、形而上学は無関心的なものである(…)という命題への示唆が含まれている。(…)反復が措定されないならば、倫理学は束縛的な力となるであろう。(…)反復が措定されないならば、教義学は一般に存在することは出来ない。何故なら、信仰において反復が始まるのであり、そうして信仰は教義学的な諸問題にとっての器官だからである。(『不安の概念』岩波文庫,p.29-30)

形而上学と倫理学における反復がどのようなものかについては立ち入らないでおきますが(ややこしいので)、注目すべきは反復が信仰と深く結びついているというところです。そもそも「反復 Gjentagelse」は「繰り返し」「取り戻す」という意味のat gjentageの派生形で、「受け取り直し」と訳されることもあるのですが、信仰においてはこの「(失ったものを)取り戻す」という部分が重要になるのです。

この「取り戻し」について、イサクの燔祭を例にあげながら説明しているのが『おそれとおののき』です。ヨハンネス・ド・シレンツィオ(仮名著者)は、アブラハムの偉大さを強調する中で、信仰とは「一度完全に断念したものが取り戻されると信じること」であり、それは非常に難しいことなのだと語っています。具体的に言うと以下のような感じです。

神がイサクを要求されるならば、彼[アブラハム]はいつでもイサクを喜んで捧げるつもりであったが、神はイサクを要求し給わぬであろうことを彼は信じていた。背理なものの力によって信じていた(…)。刀がひらめいた瞬間にもなお、かれは信じた――神はイサクを要求し給わぬであろう、と。(…)彼は二重の運動をすることによって最初の状態に帰り着いていたのである。だからこそ、最初の時よりも喜んでイサクを受け取ったのである。話を進めよう。イサクがほんとうにささげられたとしてみよう。アブラハムは信じた。彼はいつかあの世において祝福されるだろうと信じたのではなく、ここ、この世において、幸福になれるであろうと信じたのであった。神は新しいイサクをあたえることができた。ささげられたイサクをよみがえらせることができた。アブラハムは背理なものの力によって信じたのであった。(『キルケゴール著作集 5』白水社,p.60-61)

つまり、キルケゴールによれば、アブラハムはイサクを犠牲に捧げることによってこの世においてイサクを得ることを完全に諦めておきながら、同時に、何故か全く反対のことを、つまりイサクを失うことはないだろうと確信しているのだと言います。

というのも、もしアブラハムが単に「神様が言うなら仕方ないね……」とイサクを諦めているだけだったとしたら、丘の上で羊を発見した時に「エッ…………イサクのこと完全に諦めたのに……………??」と動揺してしまい、喜んでイサクを受け取れないはずだからです。

例えるなら、大好きな友人にもう二度と会えないと思って盛大に送別会をしたり別れを惜しんでベシャベシャに泣いたりしたのに、なんか急に別れずにすんだわ~テヘヘと言われた時のような感じでしょうか。多少はうれしいかもしれないですけど、「エッ…………?」ってなってしまって、さほどありがたみ感じない気がしませんか?

結局、聖書にあるように、アブラハムがイサクを捧げなくても良くなったことを喜んだとすれば、イサクを諦めて殺そうとするその瞬間も「いうて、神はイサクをとったりしないでしょう=イサクは戻ってくるよね」と信じていたと考えなければならない!!…というのがキルケゴールの説明です。

こうして考えてみると、信仰がいかに意味不明(=背理)で理解不能なものかがよく分かります。より高いものを手に入れるために他のものを犠牲にする・諦めることは、(それがどれほど非情なことであろうとも)人間的に理解可能な行為です。大義のために自己の幸福を諦める英雄的精神は、賞賛されることだってあるでしょう。一方で、信仰は諦めると同時に諦めていない状態なので、マジで意味が分かりません「リクツも勝算もないけど、信じてるから…」という何の頼りにもならない確信だけを頼りにバンジージャンプをキメるのが信仰なのです。まとめると、以下のような感じになります。

永遠なるものを得るためにすべての時間的なものを断念するには、純粋に人間的な勇気が必要である。しかし、わたしが永遠なるものを得、そしてそれをわたしが永遠に断念できないというのは、これは自己矛盾である。しかしながら、時間的なもの全体を入りなものの力によってとらえるには、逆説的で謙虚な勇気が必要である。そしてこの勇気が信仰の勇気である。信仰によってアブラハムはイサクを断念したのではなく、信仰によって彼はイサクを得たのである。(『キルケゴール著作集 5』白水社,p.82)

こうした信仰において諦めた=失ったはずのイサクを再び「取り戻す」ことが「反復」と関わっているっぽいです。実際、先に挙げた『不安の概念』の注でも、『おそれとおののき』の内容に触れつつ以下のようなことが言われています。

…宗教的な観念性こそが現実性の観念性にほかならぬのであり、それは美学の観念性のように望ましいものであるとともに、倫理学のそれのように不可能なものでもないものとせられている。しかもこの観念性は弁証法的な飛躍を通じて出現し来る所以のものであり、それは「見よ、すべては新しくなった」という肯定的気分によって伴われていると同様に、背理に対する熱情の否定的気分によって伴われている「反復」の概念がこれに対応している。(『不安の概念』岩波文庫,p.28)

…………………確かに『おそれとおののき』の話をしているはずなのにマジでこの箇所全然ピンとこないんですけど、さしあたり「背理」=諦めてるけど諦めてないみたいな矛盾に対する気分に「反復」の概念が繋がっているということでしょう。たぶん………………。

一応、『哲学的断片への非学問的あとがき』でも、『反復』の内容を紹介している箇所で以下のようなことを言っています。

反復とは元来が内在の表現である。すなわち絶望に徹してしかも自己自身を失わず、懐疑に徹してしかも真理を失わぬことを指す言葉である。美的な権謀術数に長けた頭脳の持ち主であって、ほかには絶望することを知らないコンスタンティン・コンスタンティウスが、反復に関しては絶望する。そして例の青年は、もし反復が生起するとすれば、それは新しい性質の直接性でなければならぬこと、かくして反復そのものは不条理としての真理の力によって引き起こされる運動であり、そして目指す目的や理想が不条理としての真理ゆえにお預けされることによってこの《目的論的停止》は《試練》を意味すること――その生きた実例を見せてくれるのである。(『キルケゴール著作集8』白水社,p.147-8)

反復が不条理(背理)によって引き起こされる運動であるというのは、まさしく「完全に失ったものが、何故か分からないけど戻ってきた!(あるいは、戻ってくると信じる)」という例の意味わからん運動を指しているといえるでしょう。反復における《目的論的停止》が《試練》を意味するとも言われていることからも、イサクを捧げるというアブラハムにかせられた試練の話と反復の話が繋がっていることがうかがえますね。


…………どうでしょう、反復がいかに信仰にとって重要であり、いかによく分からん概念なのかということがお分かりいただけたのではないでしょうか? 信仰や背理や反復といった概念は、キルケゴールの思想の核心(サビ)に近い部分なので、つつくとドデカイ問題が一緒に出てきてめちゃくちゃ困っちゃうな……。上のような感じでフワッと理解することは出来るけど、完全に腹落ちするにはかなり骨が折れそうな感じです。

までも、その分ヒントや手掛かりが色んな著作にちりばめられているので、時間の許す限り色んな本をめくってみるのも楽しいのではないでしょうか? 『不安の概念』は岩波から文庫版が出ているのでアクセスしやすいかと思いますので、興味がある方は開いてみると良いかと思います。



蛇足

お気づきかもしれませんが、今回挙げた引用、半分くらい仮名著者が別の仮名著作について解説・論評している箇所なんですよね…。補足説明をしてくれるのは大変ありがたいのですが、「仮名著者はそれぞれ別人ですよ」設定を徹底して喋っているのが面白いというか「マジめんどくさいな(褒めてる)」ってなりますね。こことかちょっと見てよ。

小生はライツェル書店から『反復』という題名のついた一冊の本を受け取ったのだった。ここでも、教えてやろうと言った講義口調はそれこそ爪の垢ほども見当たらない。そしてこのことは小生の気持ちにまさにピッタリであった。(『キルケゴール著作集8』p.146)

自分で書いたものなんだから気持ちにピッタリなのは当然だろうがよ!!!!!しらじらしいな!!!!

『不安の概念』でも「反復が倫理学的なものの見方における合言葉であると彼[コンスタンティン]が語っているのは、思うに(formodentlig/probably)そのためであろう」とか言ってて、「なーにが"思うに"じゃい!!!」って思っちゃいますね。副垢を別人扱いして1人会話を楽しむオタクかよ!!!好き!!!

キルケゴールがこういうめんどくせえ設定を忠実に守っていること、しかもそれが彼の思想と結構つながっていることは、著作に実際に触れてみないと気づけないことだったりするので、キルケゴールの本を読むときはぜひ注目してほしいですね。私はキルケゴールのこういうところが死ぬほどムカつくが大好き。現場のオタクからは以上です。


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