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#16 ディエンビエンフーのウワサ話

リングにあがった人類学者、樫永真佐夫さんの連載です。「はじまり」と「つながり」をキーワードに、ベトナム〜ラオス回想紀行!(隔週の火曜日19時更新予定)

©Masao Kashinaga 

11月27日(水) 22:00〜 ウドムサイ
 薬が効いたのか朝六時まで眠れたのがうれしい。ホテルで朝食をとってから七時半に出発しディエンビエンフー戦勝記念50周年事業で整備された「A1の丘」と仏軍総司令部跡のみ見てタイチャン国境に向かった。
 国境で出国手続きを待っていると、ラオス側で待機しているものと思っていたサイ君が、国境を越えてとことこと、「着いてるよ」と告げに来た。そんな手続きのゆるさに驚きつつ再会を喜んだ。出国審査はすんなり終わったが、ラオス側は入国審査官が食事にでも行ったのか、行方をくらましていて何十分か待たされた。
 14時に川沿いの町ムアンクアに着いて遅い昼食をとると、次にポンサリーへの道との分岐点にある市場に寄った、六時半にウドムサイ着。まず夕飯を食べてからホテルに移動し、ロビーでしゃべっていると10時になった。


ホー・チ・ミンがフランスに対する独立戦争を呼びかけて70周年を記念する政府広報看板
(2016年 ハノイ)

巨大ホテルチェーンの「はじまり」

 ディエンビエンフー。
 このエキゾチックな響きの土地の名を知ったのは、高校世界史の教科書でだろう。近代植民地主義からの独立を自力でなしとげた、アジア民族主義の輝かしい勝利の地…。だが、まさかそんな遠いところをくりかえし訪ねることになるとは、10代のころ思いもよらなかった。
 そのディエンビエンフーで、S氏にとってはじめての一夜が明けた朝、ムオンタインホテルの朝食の席でこんな説明をした。
 ムオンタインは黒タイ語でディエンビエン地方のことだ。ディエンビエンフーとは、ベトナム阮朝が1841 年にここに置いた辺境防衛拠点の名称で、それが地名として現在まで引き継がれている。
 S氏が尋ねた。
「ムオンタインが黒タイ語ってことは、オーナーは黒タイですか」
「それが驚いたことにキン族なんですよ」
 このホテルの創始者レ・タイン・タン氏について、ドライバーたちからきいたウワサ話もまじえて記しておこう。
 タン氏は1950年、中部のゲアン省生まれだが、若いころに西北部にやってきて地元の人たちとも深いつながりをもった。ムオンタインホテルグループの公式ホームページによると、タン氏が1997年にオープンした第1号ホテルがまさにここ、ディエンビエンフーだった。その後、約60ものホテルチェーンをもつ巨大ホテルグループへと成長させ、ムオンタインの名を国外にまで知らしめた。
 彼自身はすでに経営トップの座を退きイギリス留学経験もある娘さんに譲っているが、このホテルグループは建設許可をめぐる相次ぐトラブルや、ハノイに新しくオープンさせたレジャー・プールでの子どもの溺死事故などで、なにかと世間をさわがせてきた。
 だが、ここで大事なのはタン氏やその家族の現在の話ではない。国民生活が配給制でまかなわれていた「バオカップ時代」(1976-1986)に、貧しいベトナムの中でもとりわけ貧しかった西北部にわざわざタン氏がやってきて、どうやって大資本を築いたかだ。
 もったいぶらずに答えをいってしまおう。麻薬王だったのだ。
 もちろんウワサにすぎない。だが体制批判がタブーな国ではおもてだっていえることなんて限られているのだ。

特別なハチミツ

 タン氏は西北部で最初ライチャウにいたそうだ。ライチャウと麻薬、そんなつながりからこんなことを思い出した。
 ちなみに、現在のライチャウと21世紀初頭までの旧ライチャウは場所が大きくちがっている。それはダム建設により旧ライチャウが水没したせいだが、話をややこしくしないために、ここでのライチャウはすべて旧ライチャウ(現ムオンライ)としてお読みいただきたい。
 ライチャウはディエンビエンフーから北へ約 100キロ、北から支流ナー川がダー河に注ぐ合流点にできた細長い盆地の底にある美しい町だった。残念ながらダー河のダム建設で2010年ごろ、町は盆地ごと湖底に沈んでしまった。だが、1890年にフランスに投降して以来最後までフランスに味方した白タイ首領デオ家一族の居城跡は、廃墟のまま高台のうえに残っている。植民地期におけるデオ家の経済基盤も、アヘン専売の特権によるところが大きかった。

インドシナ戦争でフランス側についてベトミンと戦った白タイ首領デオ・ヴァン・ロンの居城跡(2010年、ライチャウ)

 ダムができるまえダー河の中洲に、ログハウス風コテージが並ぶ瀟洒で値段も手頃なゲストハウスがあった。創業したオーナー夫婦は1960年代に紅河デルタのタイビン省から移住してきたキン族だった。夫婦にはハノイの大学を出た才色兼備の愛娘がいて、彼女は2002年だったか、フランス留学帰りの、これまたスマートでキレ者の若者と結婚した。ゲストハウス経営をひきついだ若夫婦はIT化を進め、ブログも開設して英語やフランス語でも国内外に情報発信したから、トレッキングツアーやエスニック観光の拠点としてたちまち外国人に人気の宿になった。

ライチャウにあったログハウスふうのゲストハウス(2004年)

 2004年にタイ人の研究者夫婦と3人で、いくつかの民族の村を訪問しながらダー河を下る一日の旅を、若夫婦に企画してもらったことがある。
 一般的にベトナムは外国人の村への立ち入りに対する制限が厳しいのだが、とくに西北部は厳しい。村に行きたければ事前に地方政府に届け出て許可を取り、公安付き添いでないとなかなか行かせてもらえない。しかし、わたしたちは役所や公安から交付された許可証なし、通訳もガイドもなしに、地元の白タイの船頭を二人雇うだけで自由に村に立ち入っていいと伝えられびっくりした。オーナーの家族はそれほど各方面に顔が利くのだ。それというのも、ウワサによると、先代は宿泊業をはじめる前、ケシ関係で財をなしたからだとか。
 昔からケシがけしからんかったのではない。ベトナムはベトナム戦争まで、中国やソ連など共産圏各国から武器、技術、人の供与をかなり受けた。そのお返しに西北部からもアヘンケシや麻薬を大量輸出していたとも、ベトナム戦争後の国家財政の貧窮をその密輸出で補ったとも、ウワサにきく。要するに、少なくとも1980年代までベトナムのケシ栽培や麻薬の製造販売は軍や政府ぐるみだった。そのころそれを請け負った人たちは体制側のエラい人たちともツーカーの仲だったはずだ。そしてそのコネは、商売替えしたあとあとまでかなり役に立ったことだろう。
 こんな甘い、おまけの話をひとつ。
 2004年に宿泊した際だったか、チェックアウトするとき先代のオーナーの奥さんが、餞別として1.5リットルのペットボトルたっぷり「特別な」ハチミツをくれた。あっさりしていて、甘味は上品、香りは芳醇だった。奥さんが耳打ちした。
「ケシのハチミツよ」
 ダム建設にともない、一家は風光明媚な別の土地を開拓し、ゲストハウスごと移っていった。そちらでも成功しているというウワサだ。

ダム建設で水没する前のライチャウの盆地(2004年)

ゆたかなくにの「はじまり」

 思い出のなかのライチャウに長居しすぎたので、またディエンビエンに話を戻そう。
 ディエンビエンの盆地は広大だ。衛星写真で見ると、西北部で目立って広い。黒タイはこの土地をこんなふうに形容する。

 ザルのように丸いくに
 水牛の角のように丸く囲んでいる

そして、こんなふうに言祝ことほいだ。

 ムオン・タインの下手は塩の産地
 ムオン・タインの上手は米所
 盆地の下手には銅床がある

わたしにとってディエンビエンは気候が温暖で見はるかす沃野に米がみのる「うましくに」のイメージだ。しかも岩塩も銅も採れるなんて、海岸部の勢力に塩を人質にして脅されることもなければ、自前の銅で武器や貨幣も調達できるわけだ。
 だが、実際には「うましくに」どころか、かなり最近までディエンビエンはくらしが厄介な土地で、住民も権力も長居できなかったようだ。
 俚諺に曰く、天が黄いろ赤いろのムオン・タインのタイは米に苦しむ、と。
 天が黄いろ赤いろとは、日照りのことだ。
 ディエンビエンには、その丸くて大きな盆地全体を潤す水が足りない。ゾム川の水を分ける堰を築くのが難しく、山からそそぎ出る川はいずれも細すぎたからだ。稲作は天水頼りで、日照りになると住民はたちまち飢餓にあえぎ村が離散した。したがってこの広い盆地を統べる権力も育ちにくかった。
 「ムオン・タインは座面のごとし」といわれるのは、腰かける人がころころかわる椅子みたいに、よそからの統治者が入れ替わり立ち替わりしたからだ。
 しかも統治者は黒タイとは限らず、白タイもいたし、ルー(中国雲南省シプソンパンナに多いタイ族)、キン族もいた。 19世紀末にはタイ国(シャム)も支配を目論み土地の測量調査にまで来てフランスと対立した。
 ディエンビエンが豊かな沃野の価値を得たのは、民族自治区時代の1962年にはじまったゾム川開発事業のあとだ。紅河デルタから大量の労働力をここに投入して、市街東北のヒムラム地区に取水堰が築きあげ、盆地全体が灌漑できるようになった。現在は全国に出荷されるほどの良米の産地だ。2000年代にはわたしもハノイのスーパーでディエンビエン産の日本米を購入して炊いたものだった。

広大なディエンビエンの盆地(2009年)

黒タイと、白タイと…

 キン族でディエンビエンを支配したのは、18世紀のホアン・コン・チャット(1706-1767)だ。農民を抑圧する憎っくき封建主義に対して蜂起し、約30年間ディエンビエンを拠点に立てこもり黒タイ、白タイら少数民族と団結して後黎朝と闘ったとして、模範的農民として共産主義者らに賞賛されている。
 彼は紅河デルタのタイビン省出身者だった。西北部に関してタイビンつながりの話を少ししよう。
 ディエンビエンフーに限らずそうなのだが、西北部の町の中心部は紅河デルタのキン族が住民の大半を占めている。なかでもとくに多いのが、1960年代の移民政策で入植したタイビン省出身者だ。旧正月前の帰省ラッシュ期など、西北部各地からタイビン行きバスが大増発されるほどだ。
 西北部におきまりのベトナム語ジョークがある。
「タイ族は3種いる。黒タイ、白タイ、平タイタイビンだ」
 タイ族に黒タイと白タイがいるのは知っているだろうけど、実は第3の集団がいるよ、という冗談だ。
 かつてディエンビエンフーでカム・チョン先生と現地の役人らと5、6人で歓談していたとき、一人がこのお決まりのジョークをいった。お約束の笑い声があがり、だがそれが静まるより前に先生が口をはさんだ。
「その続きがあるの知ってるかい?」
 みんなの表情をうかがってからつづけた。
「どのタイも森を荒らしてる!」
「こりゃあ、上手い」と、タイビン出身者まで爆笑した。
 自虐とも風刺ともつかないこの毒のある冗談に、だれも目くじら立てて怒らない。みな寛大で鷹揚だ。以来、わたしはこのネタをパクった。
  1990年代、ベトナム政府は森林減少という環境破壊の元凶を「貧しい」少数民族による「未開な」焼畑のせいと決めてかかり、禁止や罰金で取り締まりを強化した。
 たしかに少数民族の人口増加により焼畑面積が拡大し、焼畑が本来必要とする休耕期間がどんどん短縮されて常畑化し、それが土壌流出など山の荒廃を引き起こしていることはまちがいない。いっぽうで、1960年代からキン族を西北部に大量に移民させて森林を伐採し農地開拓をさせた事実もある。またそれが違法伐採に人々を向かわせた。しかも重要なことは、現地少数民族をその最末端の実働部隊として組み込んで、運搬や流通をとり仕切って利益をせしめたのが主にキン族だってことだ。ついでに、違法伐採された木材の流通が、アヘンケシや麻薬の流通とダブっていたことも想像に難くない。
 だれも公言しないが、こうした構造は西北部の人にはわかりきっている。先生のジョークが地域のそんな不条理で不均衡な民族間の、さらには中央と山間部の関係性をうがったものだったら、政治的にヤバい。
 いや、笑いをとるためにパクって使い回しているわたしもヤバいかも…。

かつては「A1の丘」にある戦車で青空を背景にかっこよくポーズをとって写真が撮れたが、今は屋根がついてしまっている。(モデル:タイ研究者の津村文彦氏、2005年)

丘の上の巨大な穴

 ディエンビエンフー観光といえばディエンビエンフーの戦いゆかりの地、と昔から相場が決まっている。だが、その観光が昔からつまらない。土地の魅力をちゃんと掘りさげてうまくアピールすれば、良い観光地になるはずだ。
 気候、景観、食事もいい。黒タイの神話のふるさとだし、東西南北から征服者がかわりばんこにやってきて腰かけるイスだったゆえの歴史と文化の深みがこの土地にはある。だが、正史をなぞることしか許されないなら、歴史と文化の深みになど触れられない。
 実は旅行の計画段階では、ホアン・コン・チャットを祀る神社、ルーやラオが建てた仏塔、サムムンにあるタム・ヴァン城塁跡など、地域の理解にもっと時間を費やすことも考えた。だが、それには旅行日程が足りない。やるかたなく、2004年の戦勝50周年記念事業でおこなわれた大規模な史跡整備に、どんなビックリがあったかをS氏に現場で伝えるだけの観光にとどめた。
 朝食をすませ、7時半にチェックアウトすると、わたしたちは「A1の丘」を訪ねた。ここに布陣したフランス軍への猛攻がディエンビエンフーの戦い最大のヤマ場だ。
 50周年直後に来たときよりもA1の丘はさらに整備が進んでいた。丘全体を柵で囲み、なかに資料館が建って、入場料も必要になった。かつて丘の木は近隣住民に薪として切り出され、まばらに生えた灌木のあいだで放し飼いのスイギュウやヤギが草を食んでいたものだが、今は手入れされた林のなかに小径まで整えられている。
 丘の頂上で掩蔽壕を見学したあと、つぶやいた。
「50周年でやり過ぎたかも。この丘にある塹壕なんて、再現というより、ずいぶん新しくつくられています」
「えっ!」とS氏は声をあげた。
 わたしはこの丘の観光の目玉、地面にぽっかり開いた巨大なすり鉢状の穴へとS氏を導いた。1954年5月7日、地面を掘りすすめこの丘に迫ったベトミン軍は960キロもの地雷を仕掛け、その爆破を合図に総攻撃をかけたという。この穴こそ、まさに戦いのクライマックスの爆破跡なのだ。
「すごいですね」
 S氏が感嘆した。
「すごいでしょう。50周年にかこつけてこんな大きいの掘っちゃったんです」と笑ったら、S氏が呆気にとられて、また「えっ!」と声をあげた。
「50周年の直後は、この穴も塹壕もまだ赤土がむき出しでできたてホヤホヤ感満載でした。15年もたって、コンクリートで固められすっかりできあがっちゃった」
 こんな会話をS氏としたあと、史跡としてのできばえを吟味するように深い爆破穴を見おろし佇んでいると、軍服軍帽で正装の退役軍人が奥さんをつれて近くまでやってきた。彼は奥さんに案内板にある解説を読んで聞かせてから、
「ちがうよ。もっと上だよ。それにあっちなんだよ」と、丘のもっと上の、掩蔽壕からもっと離れた別方向を指さした。奥さんは笑みをうかべて静かにうなずいていた。
「爆破はここじゃないんですって」とわたしはS氏に伝え、その場をあとにした。
 本当は65年前の話をなぜ知っているのか、退役軍人に直接尋ねたかったが、夫婦の大切な時間に水を差すような気がしてやめたのだった。

ディエンビエンフー戦勝50周年で「A1の丘」のうえに再現されて間もない頃の爆破跡。
現在はもっと整備が進んでいる(2005年)

かまぼこ屋根のうえの金星紅旗

 かまぼこ屋根のうえの金星紅旗
 ドゥカストリ将軍の総司令部を占拠したベトミン兵士が、そのかまぼこ屋根の上で大きな金星紅旗を掲げてふっている。
 ディエンビエンフーの戦いですぐに思い浮かべるのはそのシーンだ。A1の丘をおりると正面にある博物館はスルーし、その総司令部跡を見に行った。
 大屋根と柵の中に保存されている総司令部のかまぼこ屋根のうえに、若者たちが備えつけの大きな金星紅旗を手に順ぐりにのぼっては写真や動画を撮りあい興じている。SNSにでも投稿するのだろう。S氏もちょっとやりたそうだったが、時間の都合上車に乗り込んだ。
 タイチャン国境に急ぐ必要があったのだ。そこまで1時間以上かかるうえ、出入国審査にどれくらい時間がかかるか読めないからだ。それにラオスに入国してから宿泊地ウドムサイまでさらに130キロ以上ある。

司令部跡の掩蔽壕の上で金星紅旗を振るベトナム人の若者(2019年)

 ディエンビエンの広い盆地を南に突っ切って走る車内で、S氏に問いかけた。
「有名なあの映像、ヤラセだってご存じでした?」
 驚きの表情を一瞬見せたものの、今度は「えっ!」と声をあげなかった。
「なるほど。A1の丘と同じ流れですね」
「ずいぶん前に、大西(和彦)さんという方からきいて知ったんですけどね。大西さんは小松さんや福田さんくらいハノイに長く住んでいて、ベトナムの宗教史研究の第一人者ですが、おそろしく物知りな方です。2010年にいっしょに来て博物館にもご一緒しました。なんの注釈もなくヤラセ写真が並んでいて展示はツッコみどころ満載だし、また、屋外展示場では中華民国によるコピー生産らしい旧日本軍の四一式山砲も見つけて楽しんでおられました」

ディエンビエンフー博物館に展示されている四一式山砲(2010年)

 あとで調べて見ると、ディエンビエンフーの戦いの一ヶ月後にはウクライナ出身の映像作家で写真家のロマン・カルメンがソ連から現地入りし、ドキュメンタリー映画「ベトナム」の制作にとりかかっていた。
 インドシナ戦争従軍中に「不正で、バカげているとしか思われぬ戦争にこれ以上関与するのはごめんだ」と軍を辞して文筆活動に専心し、ディエンビエンフーの戦いを徹底分析したジュール・ロワは、「総司令部の掩蔽壕のうえにフランスが白い旗があげすぐに下ろした。だが、そのあと金星紅旗を広げて打ち振るった者がいるとはフランス側の誰も知らない」といったことを書いた。おそらくあの有名シーンはロマン・カルメンらによる創作だ。
 翌1955年には公開された映画「ベトナム」も共産主義国万歳のヤラセ映画の一つにすぎない。そういってしまえば身も蓋もないが、悲願の独立を勝ちとった国父ホー・チ・ミン、「赤いナポレオン」として世界に名をはせた英雄ヴォー・グエン・ザップ将軍、俘虜となったドゥカストリ将軍らの、まさに当時の姿がみられるだけで感動ものだ。もちろん、すべての作戦を終え意気揚々と引き上げてくるベトミン兵士たちを、ディエンビエンの広大な焦土のいったいどこから湧いて出てきたのか、民族衣装できれいに着飾った黒タイの女性たちが満面の笑みを浮かべて手を振って喜び迎えるシーンをはじめとして、不自然極まりないヤラセシーンが多い。だが映像に対する信頼とその影響力は今とちがって絶大だったから、映画のプロパガンダ効果は抜群だったはずだ。

タイチャン国境のベトナム側イミグレオフィス(2019年)

タイチャン国境

 タイチャン国境が外国人に広く開放されて間もない2009年10月に、わたしはラオスから国境越えをした。そのときのことを思い出した。
 当時、国境に向かうラオス側の道路は未舗装の箇所も多かったし、あふれ出た沢の水が道路を横切っている箇所もところどころにあった。すれちがった車両は、荷物を大量積載したベトナム行商人のバイク数台だけだった。
 草と木ばかりの峠のうえに、新しい役所建築のイミグレーションがラオス側とベトナム側にそれぞれたっている。それが国境の景色だった。運転手のブンユーさん、ルアンナムターで旅行ガイドをしている黒タイのサイ君にお別れをいって出国審査をすませると、ベトナム側の建物へと向かった。
 ベトナムの公安が大きな審査カウンターのなかに腰かけて、しかつめらしい表情で日本のパスポートをチェックしながら
「通行願は?」と難クセつけるように尋ねた。
「ハノイの公安できいたら、パスポートだけで大丈夫と言っていましたけど」と嘘っぱちをいってから「でも、アニキの力でなんとかならない?」と気安く頼んでみたら、短い沈黙のあと、
「次は気をつけろよ」といってハンコを押してくれた。ちょっと脅して袖の下をとろうという魂胆を引っ込めたのかもしれない。
 手続きがすんで外に出ると、サイ君と運転手のブンユーさんがベトナム側にまで入りこんでお見送りに来てくれていた。せっかくなので公安のアニキに記念写真を頼んだら、厳しい表情を崩さないまま外まで出てきて、国境のゲートをバックに撮ってくれた。エバりながらもそういうかわいらしさがある。
 今度こそ二人とはお別れだ。ベトナム側の待機場では、長年のつきあいになる運転手タンさんが車をとめてずっと待ってくれていた。
 それから10年半も経っている。今回はベトナムからラオスへと国境を越えるのだ。かつてタンさんの車一台しかとまっていなかった広い待機場には、今は大型トラック、乗用車、バイクが所狭しと列をなしている。その手前で、ハノイからわたしたちを連れてきてくれた運転手にお礼とお別れをいって、ベトナム側のイミグレーションの建物にむかおうとしたとき、
「マサオさん!」
後ろからよびかけるサイ君の声が…。またしてもベトナム側に入りこんでいるではないか。国境があいわからずゆるくて、なんだかホッとした。
 ラオスへの入国審査がはじまるのを待つあいだ、わたしは付近の森から建物のまわりに集まってきている虫を見て楽しんでいた。
 壁のうえの方に、大きな茶色いクツワムシがいる。サイ君に黒タイ語でなんてよぶのか尋ねた。
「マイン・モイ・ヌー。触覚がネズミのヒゲ(マイ・ヌー)みたいだからね」
 ラオスではこいつが鳴くと雨が降るという。
 鳴くようすはない。雨はだいじょうぶらしい。村の道はぬかるむと厄介だからありがたい。

タイチャン国境のイミグレの建物にとまっていた大きな蛾(2019年)

参考文献
樫永真佐夫  2001 「山間盆地の地域性」『ベトナムの社会と文化』3: 269-282
武内房司 2003 「デオヴァンチとその周辺−シプソンチャウタイ・タイ族領主層と清仏戦争」塚田誠之編『民族の移動と文化の動態−中国周辺地域の歴史と現在』645-708ページ、東京:風響社
ロワ、ジュール 1965 『ディエンビエンフーの陥落—ベトナムの勝者と敗者』(朝倉剛、篠田浩一郎訳)至誠堂新書

樫永真佐夫(かしなが・まさお)/文化人類学者
1971年生まれ、兵庫県出身。1995年よりベトナムで現地調査を始め、黒タイという少数民族の村落生活に密着した視点から、『黒タイ歌謡<ソン・チュー・ソン・サオ>−村のくらしと恋』(雄山閣)、『黒タイ年代記<タイ・プー・サック>』(雄山閣)、『ベトナム黒タイの祖先祭祀−家霊簿と系譜認識をめぐる民族誌』(風響社)、『東南アジア年代記の世界−黒タイの「クアム・トー・ムオン」』(風響社)などの著した。また近年、自らのボクサーとしての経験を下敷きに、拳で殴る暴力をめぐる人類史的視点から殴り合うことについて論じた『殴り合いの文化史』(左右社、2019年)も話題になった。

▼著書『黒タイ年代記 ―タイ・プー・サック』も是非。ベトナムに居住する少数民族、黒タイに遺された年代記『タイ・プー・サック』を、最後の継承者への聞き取りから読み解きます。


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