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陰茎の揺れ/町田康

【第26話】「海道一の親分」として明治初期に名をはせた侠客、清水次郎長。その養子であった禅僧・天田愚庵による名作『東海遊侠伝』が、町田版痛快コメディ(ときどきBL)として、現代に蘇る!! 月一回更新。
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 天保十三年六月。堀切の富豪、何左衛門の借金を取りに行き、「治助に返した」と言って居丈高、強請扱いされたのに腹を立てた次郎長、それまで下手に出ていたのが急に態度を変えて、
「やかましいやいっ」
 と怒鳴って、その腕を、ぐいっ、と摑んだから何左衛門、驚いて、
「なにをするっ」
 と大声を上げた。その声を聞いた何左衛門の家の者、何事ならんと見るなれば、なんてぇこったい、やくざ者が主人の手を摑んで、「金を出せ」かなんか言っている。
 驚いた家僕は、次郎長たちに見咎められないよう注意しながら、そっと屋敷を抜け出すと、村中の家々に、
「たいへんだー、やくざ者が二人来て、主人を脅してカネをせびっている」
 と触れて回った。
 今だったら、これを聞いたところで、せいぜい警察に通報するくらい、多くは後難を恐れて聞かなかったことにするか、SNSに上げるべくスマホで撮影するかくらいで、積極的に救援するということはない。だけれどもこの頃の村は共同体としての結びつきがずっと強く、自分たちの村は自分たちで守る、という意識が強いから、
「俺たちの村に来て乱暴狼藉とは太い奴ら。いくら、やくざ者と言ったって、なーに、相手はたった二人、俺たちの村で勝手なことをさせてなる者か」
 と言うので家々から男だち、めいめい割り木・棍棒といった得物、或は猟銃を手に家を飛び出し、大勢で何左衛門の屋敷に急行、土間に踏み込むと、手にした得物を振りかざし、何左衛門を捕らえて放さず談判を続けていた次郎長に向かって、
「やい、盗賊。その手を放せ。放さないとぶち殺すぞ」
 と言い、銃を持った者はこれを構え、次郎長の胸のあたりに狙いをつけた。
「なんだと、てめぇら。誰が盗賊だ。俺たちゃあなあ、貸した金を返してもらいにきたんだ。盗賊じゃあ、ござせんよ」
 鶴吉がそう言い返した。そうしたところ、押しかけた群衆の一人が、
「なにを吐かす。俺ぁ、道々に聞いたぜ。その星はもう返したってじゃないか。返したものをまた取りに来る、ってのはそりゃあ、盗っ人と同じだで。なあ、みんな」
 と言い、全員がそれに呼応して、
「そうだ、そうだ、盗っ人だ」
「卑怯者だ」
「人間の屑だ」
「死ねばいいんだ」
「やーい、やーい、屑、屑」
 と罵り、最後に銃を構えた男が、
「死にたくなかったら、さっさと帰れ。今、帰ったら命ばかりは助けてやる。帰らないのなら、俺がこの鉄砲で撃ち殺してくれる。さ、どうする、盗っ人」
 と凄んだ。
 これはやくざにとって二重の恥辱であった。
 ひとつは、切った張ったの暴力的な世界に生きて、一般市民に恐れられるはずのやくざが、あべこべに一般市民に威嚇される、という不面目で、これはまあ当たり前の話。ただもうひとつは説明しないと分からないが、盗っ人呼ばわりされたことで、やくざ者は無法者で、犯罪者集団であったが、だからと言ってあらゆる犯罪に手を染めたわけできなく、賭博、傷害、放火、殺人のようなことはしたが、窃盗は行わなかった。
 もちろん遵法精神に乏しい者の集まりだから、博奕に負けて借金ができてどうにもならなくなった挙げ句、なかには盗みを働く者もあるにはあったが、そういう者は仲間内で軽蔑されたし、当人も盗みを働いていることはひた隠しに隠した。
「おい、聞いたかい、あの野郎、盗みを働いた挙げ句に、それがばれてしょっ引かれたらしいで」
「そうかい、やくざの風上にも置けねぇ野郎だな」
 とみなに言われ、やくざ社会での評判を落とすのである。
 そんなだから、盗っ人呼ばわりは次郎長にとって、弱いと言われるのと同じくらい、いやさ、それ以上の恥辱であったのである。
 だからもし、
「おい、聞いたかい。寺津の治助ンところの、清水の次郎長てのは盗っ人だで」
 なんて評判が界隈に広がったら次郎長の評判は地に堕ちる。だからそれだけは絶対に認められない。
 その一方で村人たちがなんと言っているかというと、「盗っ人であることを認めて直ちに立ち去れ。立ち去らなければ撃つ」と言い、銃を擬しているのである。ということは立ち去らなければ射殺されるということである。それははっきり言って嫌なことである。
 だけれども立ち去れば自分が盗っ人であることを認めたことになり、それも嫌である。
 とは言うもののそれをやったらこれまで努力して築き上げてきたポジションを失う。
 つまり次郎長は、盗っ人と認めなければ射殺、認めれば認めたで飯の食い上げ、という王手飛車取りみたいな選択を迫られたのである。

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