岩村の七蔵/町田康
天保十三年九月。次郞長が寺津の賭場を見回っていると、
「清水」
と後から声を掛けてくるものがあった。今ではすっかり兄哥株となった次郞長はこれがおもしろくなく、
「なにが清水、だ。気安く呼びゃあがって」
とむかっ腹を立てて振り返ったが、その顔を見て、表情を和らげ、
「おお、気安く呼びやがるから誰かと思ったら吉左さんじゃねぇか。このところ暫く合わなかったが、お達者ですかい」
と言った。
吉左さんと呼ばれた男は三好の吉左衛門。寺津の治助の兄弟分である。となればやくざ社会においては次郞長にとっても親戚、さほど付き合いはなかったが、次郞長はなんとなくこの男が好きで、そのうちゆっくり話がしたい、と思っていた。しかしお互いに見回りや揉め事の解決に忙しく、なかなかその機会に恵まれなかったのであった。
吉左衛門はその次郞長に言った。
「ちょっと、おまあんに折り入って頼みてぇ事がありましてね。少し許、付き合ってもらえませんかねぇ」
好きな男に頼み事をされた次郞長、一も二もない、
「よろしゅうござんす。お、鶴、てめぇ、俺は今からこの吉左衛門さんと話があるから、まず、あすこに行ってああして、次にあすこに行ってこうして、こうしてこうしてこうするんだぞ。わかったか」
「わかりました」
「よし、じゃあ、俺が今、言ったことをもっぺん言って見ろ」
「忘れました」
「ぶち殺す」
「思い出しました。まず、あすこに行ってああして、次にあすこに行ってこうして、こうしてこうしてこうするんでごぜぇあすね」
「うん、そうだ。じゃあ、行ってこい」
「へい」
と自分の代わりに若い奴を行かせて次郞長、吉左衛門と連れだって、いつも行く「吉田屋」という茶屋旅籠に向かった。
「邪魔するで」
と言いながら敷居をまたぐ。寺津一家はいつもここんちを贔屓にしているから、
「これはこれは三好の貸元に清水の次郞長様、お揃いで、どうもいらっしゃいまし。これ、早うおすすぎもてこう」
と愛想がよい。
奥の好い座敷に案内をされて、「みつくろってな」と言うと、やがて酒肴が運ばれてくる。横に座ってなにか愛想を言っている女中を、吉左衛門、下がらせて、障子唐紙をぴったり閉めると、膳を脇に避け、身をグッと乗り出してきた。
「い、いきなり?」
と当惑した次郞長は思わず身を固くした。しかし次の瞬間、吉左衛門は意外な行動に出た。
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