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福太郎の去り、次郎長の涙

【第53話】「海道一の親分」として明治初期に名をはせた侠客、清水次郎長。その養子であった禅僧・天田愚庵による名作『東海遊侠伝』が、町田版痛快コメディ(ときどきBL)として、現代に蘇る!! 月一回更新。
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 弘化二年。また夏がやって来た。次郞長は清水に戻って一家を構えている。「あすこン家は姐さんがいい。お蝶さんがいい」ってんで旅人がひっきりなしにやって来る。
「お控えなすって。手前、生国と発しまするは……」
 ってアレである。それはやくざの親分としてはいいことなのだけれども困った事があった。というのは。そう、旅人が米の飯を食う、という一事であった。
 次郞長方には毎日数十人の旅人が来て、次郞長一家では日に三斗の飯を炊いた。その米代をいったいどうするのか。
「はは、米屋をしていた俺が米屋の払いに困るってのはおもしれぇ」
 と次郞長は笑ったが、しかし笑い事ではない。蝶の着物や帯まで質に入れて、家には槍や刀しかない、なんてことも屢々であったのである。
 弘化二年の夏はことに客人が多く来て、幾張かあった蚊帳もみな米に変わり、残ったのはただの一張であった。
 今時はそうでもないが、前方(まえかた)は街中でも溝ッ蚊がうんと居て、夏は蚊帳に入らないと寝られたものではない。
 だけど一張の蚊帳の中に入れるのはせいぜい五、六人、
「ああああっ、蚊が唸って寝られたもんじゃネーヤ、此方は。おいっ、俺っちもそっちぃ入れてくんねぇ」
「ダメだ、ダメだ。もう一杯だ。狭い蚊帳ン中、もう七人もへぇってる。これ以上、入ってきたら暑苦しくて寝られたもんじゃねぇ」
「いやん、いやん。どつく」
「やめてクレヨン」
 といったくだらない諍いが夜毎に起き、これを憂慮した次郞長は、
「同じ一家の中で蚊帳に入れる者と入れない者がある、というのは公平公正という観点から見てよろしくない。その蚊帳も売っちまえ」
 と裁断、蚊帳の使用を停止せしめた。しかしそうしたところ、当たり前の話だが乾分や旅人から、「親分、これじゃ寝れねぇ」と苦情が殺到した。
 と言うのは当然である。「此の世に金持と貧乏人が居るのは不公平だ」と言い、金持から財産を取りあげて溝に棄て、「みんなで貧乏になろう、みんなで不幸になろう」なんてなのは馬鹿げた話で、そこで指導的立場にある者が考えるべきは、どうやったらみんなが金持になれるか、幸福になれるか、ってことである。
 と言うことで、そう言われて次郞長も丸っきりの馬鹿ではないので一計を案じ、乾分たちに、「杉の枝を刈ってこい」と命じた。
 親分にそう言われた乾分たちは、妙境寺という寺の境内の杉を和尚に断って刈り、これを大八車に積んで帰ってきた。
「へい、刈って参りやした」
「よし、じゃあ、それを交替で燻べろ。夜通し、煙を絶やさねぇようにな」
 命じられた乾分がその通りにすると、この煙を嫌って蚊が寄ってこなくなり、みんなが眠れた。みんなが幸せになった。
 その代わり、一夏で妙境寺の杉の木はすべて棒杭のようになってしまった。これに対し、「庭の木を伐るなんて酷いいいっ」などと絶叫する阿呆は当時はおらず、里人はこの杉を「次郞長杉」と命名し、みんなで楽しく笑った。
 ただしその成り行きを陰気な瞳で覗う者もあった。八尾ヶ嶽宗七(実は福太郎)である。台所の戸口の處からその様子を見た八尾ヶ嶽は自分の心の声を表して、次のように言った。

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