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【特別公開中】「2020年のさざえ堂――現代の螺旋と100枚の絵」序説――太田市美術館・図書館の建築と展覧会|小金沢 智(太田市美術館・図書館学芸員)

・太田市美術館・図書館「2020年のさざえ堂ー現代の螺旋と100枚の絵」公式図録(左右社より3月末刊行)から、担当学芸員の小金沢智による展示解説と総論を特別公開しています。
・本記事は、担当学芸員による総論です。

 宇宙で絵画を展示することはできるだろうか? もしそこが真空で、壁はおろか地面もなかったなら、そこに絵画を展示することは難しい。絵画の展示とその鑑賞は、わたしたちが居住している地球の環境と、そこで形作られてきた人類の文化に大きく依拠しているということだ。重力があること、そしてその場に壁や床などの構造物を形作ることができること。
 展覧会とは、このふたつの前提のもと建てられたミュ ージアムという文化芸術のための場で実現される、一時的な行為である。ある一定の期間、作品・資料が空間のなかに設置され、そして撒去される。作品・資料は、その空間の条件を考えることなしに設置することができない。条件とは、(1)サイズであり、(2)構造であり、(3)意匠である。

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図1:太田市美術館・図書館 (c)Daichi Ano


 建築家・平田晃久(1971-)の設計による太田市美術館・図書館(図1)は、展覧会を開催するための場として考えたとき、特に(2)が特殊である。そもそも、図書館との複合施設であり、図書館をはじめとする他エリアの面積の方が美術館より大きく、そして双方の空間は一部重なっている。具体的に述べれば、1階の展示室から2階の展示室に行くためには、一度展示室を出たのち、雑誌が並ぶブラウジングコーナーやカフェ&ショップを右手側に見ながら、長いスロープを歩かなければならない。そしてそのスロープの、屋外に面する壁面はガラス張りであり、カーテンもなく、屋内にいながら屋外の市街地の光景が目に飛び込む。さらに、そうして辿り着いた2階の展示室を見終わり、3階の展示室に行くためには、螺旋階段を登る必要がある。その螺旋階段は、図書エリアの利用者との共有部である。そして3階に辿り着いたかと思えば、まず視界に広がっているのは書架の数々であり、視聴覚ホールであり、展示室があるのはそのほんの少し先だ(そしてここもガラス張りで、外部から内部が透けて見える)。
 このように当館の空間は、3つの展示室が1階から3階の各フロアに設けられ、そしてそれらは分断されている。したがって、展示室だけを展覧会場とするシームレスな鑑賞体験はできない。そればかりか、美術館以外の機能(図書館、カフェ&ショップなど)をもつエリアが、展覧会に大きく干渉する。それは展覧会の内と外が瞬時に入れ替わりうるような空間の連続性を、良くも悪くももっているということだ。訪れる人びとの話し声や子どもの泣き声が展覧会鑑賞者の耳に入ることすら日常的である。
 ならば、展覧会を、展示室の内側はもちろんのこと、その外側でも起こりうる(起こっている)ものと考え、積極的に介入・干渉することができないだろうか。鑑賞のために独立し、整えられたホワイトキュ ーブを前提とせず、異質かもしれない他者が棲む空間を含めて展覧会を成立させる可能性の追究である。そのようにして、平田による建築・空間を展覧会によって解釈・更新し続ける。それは平田による「生きている建築」という言葉をふまえ、建築を不動・不変の無機物ではなく、有機的な生きものに見立てることでもある。
 こうした筆者の考えは、静けさをたたえた美術館や図書館ではないこの場所における、ときにけたたましいとすら思える日常と、複雑な構造の建築から次第に作られた。そしてそれは平田の設計コンセプトに対する、筆者なりのキュレーションによる(乱)反射であるだろう。
 たとえば平田は、建築作品集『Akihisa HIRATA Discovering New』で興味深いことを書いている。

 建築家として、古墳のような建築をつくりたいと思うようにすらなった。緑に覆われた建築という意味ではない。さまざまな時間の経過や生活上の必要にさらされ、元の姿がほとんど見えなくなってしまったとしても、その建築をつくった精神が、かすかに、強く標うような建築 をつくりたいのである。
 それは、言い換えるなら、建築がどれだけ多くの〈他者〉を受け入れられるか、という問いとほぼ同値である。自分だけで完結した美学をもつというよりは、そこにやってくるさまざまな事物にほとんど埋め尽くされたとしても、逆にそのことが美しいといえるような建築。(平田 晃久「他者」『Akihisa HIRATA Discovering New』205頁)

 この文章は太田市美術館・図書館について書いたものではない。だが、当館にもこの思考の反映が認められる。美術館と図書館という別個の目的のもと、老若男女が訪れ、職員もまた各自異なる業務を受けもつ当館では、建築自体が多くの事物=「他者」の受け入れなしには成立しない。加えてこのことは、「建築」(ハード)の「利用者」にとっても、自分以外の他者を受け入れやすい空間が形作られていることを意味している。
 平田は当館について具体的にこのように述べている。

 私たちは、インターネットを介した直接民主制の可能性すら、真剣に議論される時代に生きている。外部性を取リ入れながら次第に複雑な自然物のような質を獲得する建築――それは、〈他者〉を受け入れ、ある種の純粋さを捨てることによってより高度な「自我」を獲得する建築の進化を思わせる。
 太田市美術館・図書館の設計において、市民や各種専門家、行政の担当者らと同じ場所を共有して議論し、その場で設計上の重要な選択を行うという実験的な試みを行った背景には、上記のような他者的思考への期待があった。(中略)美術館であり図書館であるということ以前に、 さまざまなバックグラウンド、年齢層、指向性の人びとが、それぞれ自分の快適な環境を見つけることができるような、多様性を備えた場を 設計することが必要だった。つまリ、比喩的な意味での「生態学的ニッチ」を最大化すること。(平田晃久「他者」『Akihisa HIRATA Discovering New』207頁)

 この思考を展覧会に応用してみよう。開館記念展 「未来への狼火」(2017 年)では、淺井裕介の切り絵や林勇気の映像を図書館フロア各所に配置し、「佐久市立近代美術館コレクション+ 『現代日本画へようこそ』」(2018 年)では、 スロープを起点にして延長線上にあるイベントスペース(1階)にも市川裕司のインスタレーションを一部展開、そして今回の「2020年のさざえ堂――現代の螺旋と100枚の絵」では、蓮沼執太による「音」がイベントスペースとスロープから館内に響き、図書館フロアのレファレンスルーム(3階)には高橋大輔の絵画が展示された。すなわち、平田の言う 「それぞれ自分の快適な環境」とは、「人」のための場所にかぎらない。 展示室でなくとも、「作品」のための場所を各所に発見することができるのだ。そうして展覧会 は、「他者」との「快適」な関係をそこここで結びはじめる。

北澤先生_図版4_曹源寺本堂

図2:曹源寺さざえ堂


 このような「他者」への視線が本展のとりわけ重要な要素になっている。前提として、曹源寺さざえ堂(図2)と太田市美術館・図書館は、同じ三層構造で、かつ螺旋状の構造をもちながらも、じつはずいぶんと違っていることを確認しておく必要があるだろう。つまり、曹源寺さざえ堂は一方通行であり、当館もまた一方通行の導線が認められることは共通点である。当館では 1階中央の総合カウンターを起点にして、 美術館の導線(「創造の道」)が反時計回り、図書館の導線(「学びの道」)が時計回りとなっていて、それらがぐるぐると螺旋状の構造を形作っている。そしてふたつの導線は最上階の3階で合流するため、「創造の道」を用いて1階から3階まで上がり、さらに「学びの道」を用いて3階から1階に降りることで、曹源寺さざえ堂同様、同じ場所を通らずに進むことができる。だが当館の場合、あくまでそうしたー方通行の導線が発見できるということであって、建築全体として、その導線だけを強制していない。むしろ、初めて当館を訪れる人たちは、初見で全体の構造を把握できず、順路に戸惑い、自分のいる場所が不確かになる感覚すら覚えるかもしれない。「多様性を備えた場」である当館は、いくつもの「ニッチ」(隙問) があり、それらが来館者の空間認識を複雑なものにしているのだ。そして「他者」は、そこにこそ居場所を見つける。
 本展出品作家のうち、筆者から 「さざえ堂」「螺旋」をテーマに作品を依頼した3名の作家(蓮沼執太、三瀬夏之介、持田敦子)は、いずれも曹源寺さざえ堂を訪れ、そのリサーチも反映し た作品構想・制作の過程において、異なる立場から両者の共通点と相違点に気がついたようだった。
 蓮沼の新作《Walking Score (spiral)》(2020年)は、太田市美術館・図書館と曹源寺さざえ堂を会場にして「音」の録音と「映像」の撮影を行い、ふたつの建築空間・構造・素材などとその経年の「差異」こそが重要な要素となっている。新作1点を含む10 点弱の作品群を空間内に「螺旋」状に展示した三瀕もまた、その思考の背景には螺旋構造を起点としながらも、それを決壊させるような意思が空間構成に認められる。回転する壁を有する空間を作り出した持田の脳裏にあるのは、まさしく戸惑いを誘発するような「迷宮」的な空間にほかならない。さらに、さざえ堂の「百観音巡礼」にならい、「100 枚の絵」を展示した高橋の絵画は、曹源寺さざえ堂の観音像がそうであるような整然とした陳列は採用していない。1階から3階まで性質の違う3つの展示空間で、それぞれ異なるアプローチを行うことで、空間の差異を大きく引き出すことに成功している。
 したがって、本展は曹源寺さざえ堂と太田市 美術館・図書館との共通性をむやみに囃し立てるものではない。むしろ「違い」があるにもかかわらず、当館を「2020 年のさざえ堂」と称してみることで生まれるかもしれない新たな文化芸術の可能性を拓くものとして、最終的に形作られた。平田の建築がそうであるように、本展もまた、「テーマ」に対する純粋性を捨てることによって、展覧会としての独立した「自我」 の獲得が目指されている。当館で実施する展覧会が、建築に対する実践的批評でもあることのひとつの表明にほかならない。


[本展企画制作のための主な参考文献]
・小林文次「羅漢寺三匝堂考」『日本建築学会論文報告集』第130号、1966年12月、53-59頁
・井上充夫『日本建築の空間』鹿島出版会、1969年
・ジル・パース(著)、高橋巖(訳)『螺旋の神秘――人類の夢と怖れ』平凡社、1978年
・吉増剛造『螺旋形を想像せよ』小沢書店、1981年
・澁澤龍彦「螺旋について」『胡桃の中の世界』河出書房新社、1984年、53-73頁
・青木茂(編)『高橋由一油画史料』中央公論美術出版、1984年
・芦津丈夫「ゲーテの螺旋表象――『植物の螺旋的傾向』をめぐって―」『モルフォロギア ゲーテと自然科学』10号、ナカニシヤ出版、1998年12月、23-36頁
・鶴岡真弓『ケルト/装飾的思考』筑摩書房、1989年
・北澤憲昭『眼の神殿――「美術」受容史ノート』美術出版社、1989年
・吉増剛造『螺旋歌』河出書房新社、1990年
・千田稔『うずまきは語る 迷宮への求心性』福武書店、1991年
・中村雄二郎『かたちのオデッセイ』岩波書店、1991年
・中谷礼仁『国学・明治・建築家 近代「日本国」建築の系譜をめぐって』波乗社、1993年
・松浦寿輝、中谷礼仁「螺旋的な往還 エッフェル塔と螺旋塔をめぐって」、磯崎新(監修)、田中純(編)『磯崎新の建築遊戯』TOTO出版、1996年、148-159頁
・毛綱毅曠、横尾忠則、藤塚光政『神聖空間縁起』住まいの図書館出版局、2002年
・岩鼻通明『出羽三山信仰の圏構造』岩田書院、2003年
・ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ (著)、木村直司(編訳)『ゲーテ形態学論集 植物篇』筑摩書房、2009年
・篠田知和基『ヨーロッパの形――螺旋の文化史』八坂書房、2010年
・福岡伸一『芸術と科学のあいだ』木楽舎、2015年
・毛綱毅曠(著)、石山修武(編著)『異形建築巡礼』国書刊行会、2016年  
・平田晃久『Akihisa HIRATA Discovering New』TOTO出版、2018年


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