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地獄の南蛮船/町田康

【第47話】「海道一の親分」として明治初期に名をはせた侠客、清水次郎長。その養子であった禅僧・天田愚庵による名作『東海遊侠伝』が、町田版痛快コメディ(ときどきBL)として、現代に蘇る!! 月一回更新。
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 弘化三年七月。次郞長は三河で知り合った相撲取り、八尾ヶ嶽宗七とともに伊勢にいた。次郞長は八尾ヶ嶽と離れがたく思っていた。その訳は。
 そう。八尾ヶ嶽の顔貌が、かつて次郞長が思いを寄せた福太郎と酷似していたからである。そのうえ、角力の興行で全国、いろんなところへ行ったことのある八尾ヶ嶽は清水港のこともよく知っており、そんな話ができるのも次郞長はうれしかった。
 それならば次郞長が、「こいつ、もしかして福太郎本人なんじゃネーカ」と思ったとしても不思議ではない。だけど次郞長はそう思わなかった。なぜか。
 体格がまるで違っていたからである。
 福太郎は華奢な男で、背ぃも次郞長よりずっと小さかった。だが今、次郞長の目の前にいる八尾ヶ嶽は見上げるような大男であった。お尋ね者が上役人の追及を逃れるために、歯を抜いたり、酸で顔を焼くなどして、顔の印象を変えることは或いはできるのかも知れない。だが、背格好、これを変えることはできない。
 つまり八尾ヶ嶽が福太郎であるはずはないのである。しかし。事実は小説より奇なり。八尾ヶ嶽は次郞長の幼馴染み、福太郎その人であった。
 一体、福太郎の身の上にナニがあったのか。
 駿府で三馬政をたきつけ、美しい舞いを舞った後、福太郎はその後なにをしていたのか。
 駿府の裏長屋をスタスタと出てった福太郎は、それより以前、三島宿で盗みを働き、人も数人殺めており、下田の代官がその行方を血眼になって追っていた。その上、今はまだ知れていないがいずれ三馬政が太左衛門に捕まり、今般の画を描いたのが福太郎と知れれば、太左衛門にも追われる身となるはずであった。「だったらもうここには居られねぇ」そう思った福太郎は、長屋を出て、其の儘、出奔、姿を消したのであった。
 そして半年後、福太郎は長崎に居た。
 その時、福太郎は乞食同然の姿であったと云う。
 だが、さらに半年が過ぎる頃には、こざっぱりした着物を着て、オランダ商館にて手代を務めていた。身より頼りが一切ない長崎で福太郎はいったいどうやって、そんな職を得たのか。その詳細は不明であるが、おそらくはその天性の美貌と人当たりの良さによってであろう、実際の話、福太郎は手代を務めながら、カピタンの愛人であった。
 そしてそうやってオランダ商館に勤めるうち、福太郎は密貿易《ぬけに》に手を染めるようになっていった。禁制の品物を私的に売買して儲けていたのである。ところがそれが露見した。上役人に露見したのではなくして、雇い主のカピタンに露見したのである。
 と同時に福太郎が複数の唐人と交際していることも明るみに出て、嫉妬に狂ったカピタンは福太郎をオランダ船の船倉に監禁した。
 船倉には複数の若い男がいた。男たちはいずれも虚ろな目をして満足に話すことすらできなかった。食事になにかが混ぜてあると悟った福太郎だが食べずにはいられず、やがて福太郎の意識も混濁し、五色の幻覚に遊ぶようになった。
 船倉にはカピタンとともに医師らしき男が出入りしていた。部下を伴ったカピタンと医師は何日かに一度、船倉にやってくると、何事かを相談し、やがて船倉に繋がれた若い男のうち、一名を指さし、部下に連れて行くように命じた。
 連れて行かれた男は二度と戻ってこなかった。
 福太郎は涎を垂らし、虚ろな目で連れて行かれる男の背中を見送っていた。

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