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弊履/町田康

【第56話】「海道一の親分」として明治初期に名をはせた侠客、清水次郎長。その養子であった禅僧・天田愚庵による名作『東海遊侠伝』が、町田版痛快コメディ(ときどきBL)として、現代に蘇る!! 月一回更新。
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 嘉永三年十一月、清水港は秋であった。次郞長方の表の方では箒とちり取りを持った乾分が落ち葉を掃いている。
「いやいや、こう落ち葉が舞い散ると掃除も大変でサアなー」
「マア、ね。こっちは博奕をして、白粉をつけた女からかって、毎日をおもしろおかしく暮らしてぇと思ってやくざになったんだが、どーにも調子が狂っちまう」
「ふんとーにナー」
 とぼやいているところ、次郞長の女房、蝶が風呂敷包みを抱えて出てきた。
「ご苦労さん」
「あ、姐さん、お出掛けですか」
「え、ちょっと用足しに出掛けてくる。ここが済んだら尾張の客人の部屋を掃除しておいておくれ」
「わかりました。お気を付けて行ってらっしゃい」
 その後ろ影を見送って一人の乾分が言った。
「おめー、姐さんが持ってた風呂敷包みになにがへぇってるか知ってるか」
「知らねー。なにがへぇってるのよ」
「アレにはな、姐さんの着物や帯がへぇってるのよ」
「成る程な。そら大変だ」
「大変だ、っておめぇ、どういうことかわかってんのか」
「バカにするな、わかってるよ。出掛けた先で着物を着替えるんだろ。面倒くさくて大変じゃねぇか」
「まったく違う」
「じゃ、なんだってんだよ」
「姐さんはな、アレを持って質屋に行くのよ」
「なんで」
「カネがねーからよ」
「なんで」
「そら、おめー、アレだよ。例のおまえ、尾張の客人だよ」
「あー、あれかー」
 と、八尾ヶ嶽の名前を出した途端、愚鈍な方の乾分は全てを了解した。

 それほどに、八尾ヶ嶽の面倒を見るのにカネがかかっていた。抑も旅人に評判が良く、名前も漸く売れ出した次郞長方を訪れる旅人は多く、それが為に蝶は常にカネの苦労をしていたが、八尾ヶ嶽一行が滞在するようになって以降、その苦労は一入であった。
 と言うのはそらそうだ、なにしろ大飯食らいの元・相撲取りが十数人居るのだから、米代だけでもおっそろしい入費であった。そんなら少しは気を遣って少なく食べるようにしたり、手伝いやなんかをして小遣いを稼ぐ、くらいのことをしても罰は当たらないのだけれども、こいつらと来たら、そんな素振りはまったく見せず、昼間はグウタラしてなにもせず、宵から酒を飲んだり、博奕をしたりするなどして夜更かしをし、午近くになるまで起きてこない。
 ようやっと起きてきたかと思ったら、「飯はまだか」と飯の催促をし、上げ膳据え膳、乾分が台所から運んできた飯を座敷で食って、やれ、「汁がぬるい」だの「お菜が少ない」など不平を言い、乾分達に対する口の利き方もぞんざいで、その態度の悪さたるや実にえげつなかった。それ故、乾分達も口々に、「なんでぇ、あいつら」と不満を言い、兄哥株の大政などは次郞長に、「親分から一言、叱言を言ってくんない」と直言した。だけど次郞長は、「ま、いってことよ。なにしろ宗七は俺の飲み分けの兄弟分だから」と言ってヘラヘラしていた。

「いやいやいやいや、俺たちも苦労するが姐さんも苦労するね」
「ふんとだな」
 と乾分達がこぼしている頃、座敷では宗七と次郞長が相対していた。二人の間には明らかに気まずい会話があったと見え、宗七は横を向いていた。次郞長は俯いて畳を毟っていた。長い沈黙の後、次郞長がポツリと言った。
「ほんとに発つのかい」
「ああ」
「なにが不満なんだ。お蝶がなんか言ったか」
「なにも言わネー」
「じゃあ、なんで。ずっと居りゃいいじゃネーカ」
「マア、そうだけどよ。俺も男になりてぇじゃねぇか。このままおめぇン家で居候していたところでどうなるものじゃねぇ」
「それはさっきも聞いた。で、ここを出てどうすんだ、って聞いてんだよ」
「今、それを考えていたところよ」
「で、いい思案が浮かんだのか」
「あー、清水、上州、館林の江戸屋虎五郎親分に手紙一本書いてくんねぇか」
「そら、かまわねぇが、で、どうするよ」
「江戸屋虎五郎は大前田英五郎親分、伊豆の大場の久八っつあんとも縁家だ、そこへ行けば俺もどうにかなるかも知れねぇ」
「清水の次郞長じゃ不足だってのか」
「あー、不足だな」
「はっきり言いやがる。確かに今の俺の貫禄じゃそうかも知れねぇ」
 そう言って次郞長はまた俯いた。次郞長は己の無力を噛みしめていた。今、宗七の地元・尾張では一の宮太左衛門が勢力を保っている。それに対抗するためにはそれ以上の力が必要になってくるが、今の自分はその力たり得ない。そんなら宗七が別の力に助けを求めるのは当然の話だ。
 その為には江戸屋虎五郎と仲良くすることもあるのだろう。一緒にご飯を食べたり、楽しく博奕をしたり、道に籾殻を撒くなどもするのかしら。ああ、悲しい。切ない。
 次郞長の心は千々に乱れた。

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