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#6 ベトナム四千年の歴史

リングにあがった人類学者、樫永真佐夫さんの連載です。「はじまり」と「つながり」をキーワードに、ベトナム〜ラオス回想紀行!(隔週の火曜日19時更新予定)

 ©Masao Kashinaga 

11月24日(日) 22:10〜 ギアロ
 七時半に車でハノイを発ち、昭和女子大も関わって景観保存がなされているドゥオンラム村を訪ねた。村ではゴー・クエン廟とミア寺に詣で早めの昼食をすませると、雄王神社があるギアリン山へ。レジャーランド化した「ベトナムの故地」はギアリン山麓からの一瞥で済ませるとギアロへと急いだ。ヴィエトチとイエンバイ間は、五年前に開通したばかりの高速道路をはじめて走った。その先は昔からなじみの峠道。ギアロ到着は六時。
 カンナー村のビエンさん宅で黒タイ料理をご馳走になり、ビエンさんが指導する若者たちによる黒タイ舞踊を見て、九時頃ホテルに戻った。

 ムオン・ロは広くて先がかすんでいる
 何万、何十万もの米倉を満たす大ムオン 

 黒タイの人たちは、屈指の米所ギアロの土地柄をこう言祝ことほ いだ。
 ムオンとはタイ系民族のあいだで、およそ盆地単位で政治的にまとまった「くに」のことだから、ムオン・ロとは「ロのくに」。「ロのくに」をキン族はベトナム語でギアロとよぶ。それがこの日の最終目的地だ。

ギアロ盆地(2005年)

 ギアロは、紅河の西側にあるホアンリエンソン山脈の高山に抱かれた大盆地にある。もはやムオン、タイー、白タイ、黒タイ、モン、ザオその他の少数民族がくらす、はるかなる山の世界にあり、ハノイから300キロも離れている。
 紅河デルタから外に出てしまう前に、キン族の村もS氏に見せたい。
 ちょうど通り道に、旅の趣旨にもぴったりのドゥオンラム村がある。その村は、10世紀に中国からベトナムを武力で独立させたゴ・クエン(呉権、899-944)の故郷、つまりベトナム王朝史の「はじまり」の地だ。フン・フン(馮興)の出身地でもある。
 フン・フンはゴ・クエンよりさらに200年前の8世紀末の人だ。ハノイ付近に唐が置いたとされる安南都護府の圧政と重税に苦しみあえいでいた土地の人の訴えを、腕っ節のめっぽう強いフン・フンは、力持ちの弟フン・ハイ(馮駭)とともに「ふん」とか「はい」とかいって聞きいれ、反乱をおこした。都護職の高正平はビビり死にし、一時的だがフン兄弟は独立した自治政権を築いた。
 ゴ・クエンとフン・フンは今では「二王」とまで称され、あがめ奉られている。
 この日最初に訪ねたのは、そんな英雄たちを輩出した由緒あるドゥオンラム村だ。


人口過密な紅河デルタの田畑は墓だらけになりつつある(2019年、ハノイ)
ドゥオンラム村の入り口(2013年)

「はじまり」の村の観光化

 村では2003年頃から、昭和女子大国際文化研究所や奈良文化研究所がJICAと連携し、農村の景観保全のための調査や活動を展開してきた。
 だが「古い景観を残すのに協力してね」とお願いするだけでは、バンカラな村人たちに「バカ言ってんじゃないよ。便利でイケてるくらしするなってのか! それにこのご時世、わざわざ古くさい家でダサいくらし続ける方がカネかかるんだぜ」と怒られて一蹴されるに決まっているので、景観保全と同時に地元村人たちの収入源も確保しなくてはならない。だからあわよくば世界遺産登録もと、歴史景観保存と観光がセットの開発を進めてきた。よそからたくさん人が来て、ノリのいい感じで「古いってかっこいいよね」とでもいって、気前よくお金を落とし機嫌よく帰ってくれたら、地元の人も皆ハッピーという明るい思想だ。
 では村のなにが観光資源になるのか。
 キン族の伝統的な村落景観、二王ら国家英雄を祀る神社、寺や集会所などの歴史的建造物、村の祭礼、伝統的な衣食住そのものだ。たしかにベトナムの時代劇の撮影でもできそうな、古くて落ち着いた景色が田園の中にある。くらしそのものも観光の売りだから、白川郷の観光コンセプトにも近いかもしれない。ただしドゥオンラム村にただで観光客は入れない。入郷料が必要なのだ。どうしても維持費がかさむ。
 まともに観光をしていると丸一日つぶれてしまう。だが夕飯は250キロ先のギアロで、黒タイの古老ビエンさんに招かれている。村の見学はゴ・クエン神社とミア寺だけにした。


モンフー集落の「ディン(地区の集会所であり神社)」の古建築(2013年、ドゥオンラム村)
「ディン」の中央には祭壇がある
「ディン」の屋根の上の乗っている龍の装飾
「ディン」の屋根の下に施された浮き彫りの装飾

ベトナムは仏教国?

 ベトナム北部には2世紀までに中国とインド双方から仏教が伝播し、大乗仏教の布教もはじまっていた。15世紀までには儒教や道教との混淆も進んだ。寺には阿弥陀、観音、釈迦、三蔵法師などのほか、玉皇上帝をはじめとする道教神、「聖母道」という民間信仰の女神、中国元朝のベトナム侵攻を撃退した英雄チャン・フン・ダオ(陳興道、1226-1300)など、いろいろなジャンルの神や仏の像が並んでいるのがむしろふつうだ。
 ミア寺も例にもれず、二百以上の神や仏の塑像が混在している。だがこの寺の売りは、なにより九層の仏舎利塔だ。
 ちなみにミア寺とはサトウキビ寺の意味で、正式名称はスンギエム(崇厳)寺。

ミア寺の9層の仏舎利塔(2013年、ドゥオンラム村)

 このサトウキビ寺という俗称は、塔の形状に由来するものとわたしは勝手に思いこんでいた。八角形の灰色の尖塔がサトウキビの茎のように天にむかって高くまっすぐ伸びていて、八面を飾る龍たちのもたげた尻尾が規則正しく並んでいる。そのさまが、遠目にサトウキビの葉か穂かのように見えなくはないからだ。
 だが、寺がそんな名でよばれるのは村がサトウキビ産地として有名だったからと聞いた。そのヒネリのなさに、一度はがっかりした。だが、ベトナム語でサトウキビのことをミアとよぶようになった「はじまり」の伝承と関わっている、とあとで知って改心した。その伝承は次のようなものだ。
 「ベトナムの始祖」雄王については後述するが、その雄王にミ・エという娘がいてその村のあたりでサトウキビを発見し、雄王が娘の名にちなんでミアと名づけた。またこの地域もミアとよばれるようになったというのだ。つまりミア寺の名にも、雄王以来のベトナム四千年の歴史がこめられているのだ。

紫色のサトウキビはホアビンの特産物で、ムオンがよく栽培している。
工業向けには緑のサトウキビ(2008年、ホアビン)

 「日本の寺よりも中国の寺に似ていますね。ところで、ベトナムは仏教の国ってことでいいんですか」とS氏がたずねた。
「たとえば外国に入国する際、自身の宗教についてきかれて、とりあえず『仏教』って書く日本人多いですよね。信仰というより文化として仏教が入りこんでいる点で、ベトナムは似ています」
 ベトナムの宗教について簡単にまとめておこう。
 南部のメコンデルタを中心に130万人がくらすクメール人(広義のカンボジア人)はカンボジアやタイと同じ、お坊さんは黄色い袈裟の上座仏教徒だ。今のベトナム中南部にかつてチャンパ王国を築いたチャムには、ヒンドゥやイスラムが多い。その他の少数民族は祖先崇拝とアニミズム的な信仰をメインで、一部はキリスト教化している。
 ややこしいのが8200万の人口を抱えるキン族だ。たいがいの村に大乗仏教の寺があり、そこによく女性たちが集まって家族の愚痴などいっていたりするが、信心についてはよくわからない。その実態は、大乗仏教と道教と儒教が祖先崇拝、アニミズム、各種占いと融合していて、現世利益を追求するための民間信仰と見ることもできる。シャーマニズムも盛んだ。
 要はお金がもうかり、楽な気持ちにさせてくれたら神でも仏でもイワシの頭でも拝む。もちろん消費文化としてのクリスマスの受容にもためらいがない。老若男女問わずおカネの話が大好きなキン族だけに、カネもうけへの執着がことさら強い点は異なるとはいえ、宗教との接し方は割と日本人に近いのだ。なお、キン族にもキリスト教徒に加え、カオダイ教やホアハオ教など植民地時代に発生した新興宗教の信者は多い。
 ベトナムでは憲法でも信教の自由が保障されている。だがその活動は制限されてきた。もっとも市場経済化以降に規制がかなりゆるみ、ながいあいだ仏教、カトリック、プロテスタントの3つだけだった公認の「宗教」が30以上にまで増えた。とはいえ、現在も政府宗教委員会によって宗教が団体単位で管理されている点は変わらない。
 旅から帰国したあと、2019年に行われた国勢調査の結果が発表された。宗教に関する人口統計を見て驚いた。総人口9620万人のうち86パーセントの8300万人が「無宗教」と回答していたのだ。
 しかも、ずっと最大多数だった仏教徒が460万人のみで、カトリックの586万人に次ぐ2位に転落した。村では葬式、法事、年中行事などで寺との関わりが深いが、都会に出て関わりを持たなくなった若い人が多くなったということだろうか。

仏領期に建てられたカトリックの聖堂(1997年、ハノイ郊外)

ベトナム王朝の「はじまり」

 ゴ・クエンの墳墓と神社は、ミア寺のすぐ近くにある。歩いて行ってみると、墳墓と神社は道をさしはさみ向かい合わせにあった。
 「日本だと、古墳と神社がセットにある場合、だいたい社殿は古墳のうえか、古墳の方を向いているものですよね。でもこの神社、墓に背を向けているじゃないですか」と、S氏が首をかしげた。
 キン族の葬制では、故人の魂をお祀りする場所は家族の祭壇や一族の祠堂であって、遺体を埋葬した墓地とは別なのがふつうだ。そもそも故人を埋葬する地と祀る地が一つである必要がないのだから、神社がどちらを向いていてもかまわないのではないだろうか。これがわたしの回答、というより感想だ。

ゴ・クエン神社(2013年、ドゥオンラム村)

 そういえば思い出した。そもそも現地でS氏にゴ・クエンについてちゃんと説明していなかったではないか。おくればせながら、少し説明しておこう。
 ベトナムでゴ・クエンがなぜ偉人なのか語るには、面倒だが、ゴ・クエンからさらに千年以上遡る必要がある。
 前221年、中国で秦の始皇帝が国土を統一した。だが秦朝の安定は長続きしなかった。その混乱をチャンスとばかり、今のベトナム北部にまで侵攻していた秦の遠征司令官だった趙佗ちょうだが「南越国」という独立国を建ててしまった。秦はもちろん、前202年に中国を再統一した前漢も、趙佗の反逆は気に入らない。趙氏の南越国は百年反抗しつづけたものの、前111年ついに武帝によって滅ぼされた。
 南越国の都は広州だったし、趙佗は中国北部出身の漢族だった。だから趙佗の南越国も中国による支配といっていいはずだが、趙氏一族が一貫して中原の王朝に反抗的した点がツボなのか、どういうわけかベトナムの正史は、南越国の滅亡を中国にベトナムが支配された「はじまり」と見なしている。
 ベトナムからみて北にある中国の支配下に置かれていた時期をベトナムでは「北属期」とよび、暗黒時代あつかいなのだが、それがなんと千年以上続いた。ゴ・クエンが王を名乗ってハノイ郊外のコーロア城に都を置いた939年を、ベトナムは千年の恥辱からの解放の年としている。ゴ・クエンこそがベトナムを独自の王朝の「はじまり」を導いたのだ。

トラのような怪力男 

 森に囲まれたゴ・クエンの墓を参拝していると、たまたま土地の人らしい男性が来たのできいてみた。神社のお堂がいつできたのかと。
「10世紀だ」
 たしかにゴ・クエンは10世紀の人だが、どう見てもお堂はそんな古くない。もう一回たずねてみた。
「10世紀!」
 強い郷土愛に基づく信念なのだろうか。いや、わたしの聞き方が悪かったのかもしれない。
 ミア寺の場合、13世紀にまずそこにちいさな寺ができた。現在のような寺院に発展したのは17世紀になってからだ。だからゴ・クエンの墓の整備とミア寺の整備とのかかわりを確認したかったのだ。
 ちなみにベトナム北部のキン族の村に、荘厳な堂々たる寺や神社が建つようになったのは17紀末から18世紀、と新しい。ミア寺の整備はそれよりちょっとだけ古い。
 そのころ、王朝の権力は弱くなった。そのため村は自治を強化した。こうして「王の掟も村の垣根まで」という有名な諺が示すような自律性の高い村になった。それに伴い、村の鎮守も巨大化した。
 帰国後に知ったのだが、ゴ・クエン神社の直近の改修は1874年だそうだ。現地の碑文にそう記されているとは知らなかった。その場でちゃんと読めばよかった。とにかく、ゴ・クエンの神社と墓が整備されたのはミア寺よりずっと新しいのだ。
 「#4」で述べたように、ホアンキエム湖のカメにレ・ロイが神剣を返したという伝説は、フランスによる植民地化におびえていた19世紀に形成された可能性がある。つまり、ゴ・クエンがベトナム独自の王朝の「はじまり」をもたらした英雄として神格化されたのも、やはりそのころで、同じ理由によるのかもしれない。
 さて、伝説によるとゴ・クエンは幼少期から金太郎のように怪力で、長じては眼光鋭い大男、歩く姿はトラのようだったという。弁慶なみに強そうだ。そんなゴ・クエンはどんな姿をしているだろうか。
 神社にある朱と金でピカピカの祭壇に、その神像があった。中国の皇帝ぽい金の衣と冠を身にまとったゴ・クエンは、赤ら顔で高貴なヒゲをたくわえている。正装していても若いころからのやんちゃな猛者ぶりが隠しきれないマス大山や前田日明みたいでかっこいい。

ダー河にかかるチュンハー橋から、紅河との合流点方面を見晴るかす(2005年)

1874年の「はじまり」

 ドゥオンラム村を出発してほどなく、チュンハー橋を渡った。橋の上から右を見ると、勢いを落としたダー河が、黄色い霞の下で紅河の流れにまじわっていた。
 このあたりで、西北部の水を集めるダー川と、東北部の水を集めるロー川という二つの大支流が紅河と合流して砂州をつくっているのだ。紅河デルタが山地と接するこの合流点付近こそ、ベトナムの「はじまり」の地だ。考古学の成果によると、約4千年前にはここに人がくらしていて、紅河デルタの開拓はここから始まった。
 むかしむかし、貉龍君 ラックロンクアン嫗姫 アウコーと結婚して百の卵をうんだ。古代中国で「百越」として十把一絡げにされていた、長江より南にすむ人々の祖先たちは皆、その卵からうまれた。その長男が雄王 フンブオン。長じて彼がこの三つの大河の合流地点付近にたてた国が文郎ヴァンラン国だ。
 文郎国の王は18代続いたのだが、実は雄王は一人ではない。18人の王がすべて雄王なのだ。雄王の墓と伝えられる場所もあたりに散らばっている。
 雄王神社があったギアリン山に立派な雄王の陵墓が建設されたのは、ベトナム南部が植民地化され阮朝による支配がすでにフランスにおびやかされていた1874年のことだ。
 またしても1874年!
 覚えているだろうか。ゴ・クエン神社の改修と同じ年だ。ベトナムの独立が危うかったそのころ、阮朝は必死になってベトナムの「はじまり」をつくり、人々の一体感を強化しようと躍起になっていたわけだ。
 時代が下り、太平洋戦争終結の翌1946年、この陵墓で開催された雄王の命日(3月10日)の祭礼にホー・チ・ミン主席が参加した。日本の占領でインドシナから閉め出されていたフランスが、日本敗戦を受けて再植民地化しようという時期、つまり、またまたベトナムの独立がヤバかった時期だ。
 ディエンビエンフーの戦いに勝利した1954年、ホー・チ・ミンはまた来た。ギアリン山の陵墓が公式に「ベトナムの始祖」雄王の墓となった。以来、歴代の指導者が命日の祭礼に参る。雄王の命日はベトナムで建国記念日あつかいだ。

 ギアリン山は、ダー河、ロー河が紅河に合流する地点のすぐ上手にある。標高175メートルの山に、雄王陵、雄王神社、雄王の母アウコーを祀る神社などが点在している。ドゥオンラム村から30分ばかりのドライブだった。
 麓に大きな駐車場があり、売店が並び、電動カートが走っている。カップルや家族連れでにぎわうテーマパークのノリだ。
「伊勢神宮や出雲大社などとはずいぶん感じがちがいますね」と、S氏が少し目を丸くした。
 その反応にわたしは満足した。ベトナムの「はじまり」の地の現代ベトナムらしさをS氏に知ってもらえれば十分だったからだ。
 わたしたちはすぐにまた出発した。2014年に開通した紅河沿いの高速道路でイエンバイまでいって、わたしにとって昔からなじみある七曲がりの道をくねくねと、西に広がる山の世界へと足を踏みいれるのだ。

朝夕に出没する定期市。
黒タイ、ムオン、モンなどがいるのが衣装からわかる
(2019年、イエンバイ省)

山の精による「はじまり」

 ここで前夜に時間を戻したい。
 ハノイのホテルのラウンジで、福田さんがわれわれの旅の予習のために紅河デルタの古代史を解説してくれた。以下がわたしの理解だ。
 歴史的に見ると、雄王の時代に、すでに中国から紅河デルタへは水陸の三つのルートが確立していて、中国からの植民も進んでいた。こうした「つながり」を背景として、第18代雄王の娘、媚姫ミーヌオンに中国の蜀の王が求婚して断られた。
 次に山の精と水の精が求婚した。二人はどちらが先に姫への贈り物をもってくるかを競争した。勝って姫を手に入れたのは山の精だった。
 この話のオチは、敗れた水の精がめちゃくちゃ根にもつ性格で、いまだに執拗に水攻めしてくる。だからベトナム北部は毎年洪水に苦しめられるというものだ。紅河デルタの恐ろしい湿度が水の精のタタリなら、そのマイナスエネルギーの強さは菅原道真の怨念以上かもしれない。

弩の強力さ

 フラれた蜀の王も、これまたしつこかった。その孫のはん に三万の兵力で攻撃させ、文郎国を滅ぼしてしまったのだ。
 泮が安陽王アンズオンブオン となって建国したのが甌雒オウラク 国(前257〜前208)だ。そのコーロアの城壁遺跡はハノイ郊外に現存している。なお、安陽王は金のカメのおかげでコーロア城を築け、そのカメのツメで神弩しんど をつくったといわれている。ハノイのホアンキエム湖のレ・ロイ以前にも、カメとのつながりの深い王権伝承があるのだ。

黒タイが小鳥など小動物をいるのに用いる弩(1999年、ディエンビエン省)

 甌雒国の「オウ 」は北方から入植してきたタイ語系集団で、「ラク 」はモン=クメール語系の先住集団ではないかといわれている。実は、雄王の「雄」の字も「雒」の書きまちがいに由来するようで、文郎国の雄王とはただしくは雒王、つまり先住民の王さまのことだ。つまり、先住民がたてた文郎国が滅ぼされて、外来集団が先住民を支配する甌雒国ができたということだ。
 さて、甌雒国ができて36年後の前221年、秦が中国を統一した。その卓越した軍事力を支えたのが、つまりボーガンで、秦にはそれを大量生産する技術があった。いっぽうで甌雒国の強大な軍事力も、弩によるところ大きかったというのは興味深い。
 この甌雒国を滅ぼしたのが、秦の始皇帝の手先だった趙佗だ。とうぜん弩の威力を熟知していたから、「ミッション・インポシブル」にもないえげつないやりかたで攻略した。自分の長男を安陽王の娘と結婚させ工作員として潜入させ、弩の引き金に細工して敵の兵力を封じておいてからコーロア城を攻めて陥落させたのだ。

 趙佗がたてた南越国が漢の武帝に滅ぼされたことはすでに述べた。
 福田さんの話のあと、S氏はミーヌオンへの求婚競争の話について
「山の精と水の精が争って山の精が勝ったって、なんだか海幸彦と山幸彦の話みたいですね」と、感想をもらした。
 兄の海幸彦に借りた釣針をなくした山幸彦は釣針をさがしに海にもぐり、海宮のトヨタマビメと結婚した。トヨタマビメのおかげで超能力を手に入れた山幸彦は高潮を起こしたりして海幸彦をとっちめる。勝った山幸彦の孫が神武天皇だということと、山の精の子孫がキン族だというのもなんだか似ている。
 なお大林太良によると、海と山の対立によって洪水が生じる伝承が中国江南からベトナムにかけて分布していて、それらと海幸彦山幸彦の伝承はひとつながりのもののようだ。

ギアロ盆地の黒タイ村落景観(2005年)

 イエンバイからギアロへの道は峠を上っては下り、上っては下りの繰り返し。最後に並木のあいだの急坂をまっすぐに下りるとパッと視界が開け、左右に田畑が広がっている。道の先にギアロの町が見える。
 ホテルには6時に着いた。荷物を置くとすぐ町に隣接したカンナー村に向かった。
 村のビエンさんのお宅で黒タイ料理をごちそうになり、彼が仕込んでいる若い生徒さんたちによる民族舞踊を観賞し、酒を酌み交わして話していると夜も更けた。
 酔いも回ったことだし、ビエンさんの話は次章に譲ろう。

とりあえず挨拶がわりに乾杯してから祝宴(2019年)

■参考文献                             今井昭夫、岩井美佐紀編『現代ベトナムを知るための60章(第2版)』23-27ページ、東京:明石書店
大林太良 1991 『神話の系譜』講談社学術文庫
小倉貞男 1997 『物語ヴェトナムの歴史−一億人国家のダイナミズム』中公新書
加藤英一 2013 「文化遺産保全の予備観光振興のための効果的な連携の考察」『日本国際観光学会論文集』20:89-95
桜井由躬雄編『もっと知りたいベトナム(第2版)』東京:弘文堂
桜井由躬雄、桃木至朗編 1999 『東南アジアを知るシリーズ ベトナムの事典』東京:角川書店
Tổng cục Thống kê (biên soạn) 2000 Kết quả toàn bộ Tổng điều tra dân số và nhà ở Nam 2019, Hà Nội: Nxb Thống kê

樫永真佐夫(かしなが・まさお)/文化人類学者
1971年生まれ、兵庫県出身。1995年よりベトナムで現地調査を始め、黒タイという少数民族の村落生活に密着した視点から、『黒タイ歌謡<ソン・チュー・ソン・サオ>−村のくらしと恋』(雄山閣)、『黒タイ年代記<タイ・プー・サック>』(雄山閣)、『ベトナム黒タイの祖先祭祀−家霊簿と系譜認識をめぐる民族誌』(風響社)、『東南アジア年代記の世界−黒タイの「クアム・トー・ムオン」』(風響社)などの著した。また近年、自らのボクサーとしての経験を下敷きに、拳で殴る暴力をめぐる人類史的視点から殴り合うことについて論じた『殴り合いの文化史』(左右社、2019年)も話題になった。

▼著書『殴り合いの文化史』も是非。リングにあがった人類学者が描き出す暴力が孕むすべてのもの。


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