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わたしのおとうさんのりゅう 〔第8回〕

詩人の伊藤比呂美さんの連載。幼い頃に、誰もが一度は目にしたことのある名作『エルマーのぼうけん』(ルース・スタイルス・ガネット作・わたなべしげお訳・ルース・クリスマン・ガネット絵、福音館書店)。そこから始まる、児童文学、ことば、そして「私」の記憶をたどる道行き。 

父は「博奕打ち」だった。父の名前を見つけた『サカナとヤクザ 暴力団の巨大資金源「密漁ビジネス」を追う』(鈴木智彦著、小学館)、そして『ドリトル先生物語』(ヒュー・ロフティング作、岩波書店)とが交差しつつ、「私」の記憶と父の過去をたどる旅はさらに深まっていく。お楽しみください。

よいおとうさん悪いおとうさん

  以前、私が、ネコ肉屋になんとなく父を重ねていたことを話しました。私が『キャラバン』と『緑のカナリア』をこんなに好きだったその理由は、ピピネラの生き方に刺激されたというのもありますが、同時に、「窓ふき屋」に惹かれたというのもあるかもしれません。
 医者で、動物語ができて、あらゆる動物たちから慕われ、尊敬され、医学博士で、アマチュア音楽家で、本も書いてというドリトル先生が、私にとっての「よいおとうさん」(のモデル)としたら、「わるいおとうさん」は、窓ふき屋かネコ肉屋に相違なく、どこが「わるい」かというと、得体のしれない職業ないしは素顔を持っているところ。何かを隠しているところ。漂流するか、行商してあるくかというところ。そして「わるいおとうさん」は、実は「ほんとうのおとうさん」でもあるわけで、「よい」は「わるい」で、「わるい」は「よい」で、それなら「よい」ドリトル先生も、冒険、興行、非定住という点で、「わるい」にどんどん近づいていくのです。

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