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#07 眠る人々  ヴァリェヴォからラスティシテ村へ

セルビア、ベオグラード在住の詩人・翻訳家、山崎佳代子さんの連載。歴史や詩、そして山崎さんの出会う人々とともに、ドナウの支流をたどる小さな旅。今回の舞台は水の出会う町ヴァリェヴォからはじまります。

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 6月の初め、ターラ山へ旅に出る。コロナ禍の感染者の数が減少し、規制が緩和され、移動が楽になった。まずヴァリェヴォを訪ねた。ベオグラードから92キロ、車で約一時間半かかる。町に入ると、白い壁の教会の前を、ひたひたと緑の水を湛えてコルバラ川が流れていく。サヴァの支流だ。
 地図を見る。ヴァリェヴォの近くのメドヴェドニック山(標高1247メートル)の麓から流れ出す全長21キロメートルのオブニツァ川と、ヤブラニック山の麓に源流のある全長20キロメートルのヤブラニツァ川が、ヴァリェヴォの丘、ヴィドラックで合流し、全長86・5キロメートルのコルバラ川となり、ベオグラードの近郊オブレノヴァッツでサヴァ川へ注ぎこむ。オブニツァの語源は、ケルト語で川を意味するアボナ(Abona)に由来するという。かつて、バルカン半島にケルト人が住んでいたという証しなのだろう。ヤブラニツァはセルビア語のヤブラン(ポプラ)に由来する。さらに、ポヴレン山(標高1347メートル)の麓から全長28キロメートルのグラダッツ川が、コルバラ川へ流れこむ。グラダッツは城壁を意味するグラドが語源だろう。ヴァリェヴォは水の出会う町だ。

 川の流れは、道を作り、人々を結ぶ。ヴァリェヴォは、アドリア海の都市国家だったドブロヴニク共和国の中世の古文書にも登場し、14世紀からセルビアの重要な商業都市として栄えた。ステファン・ラザレヴィッチ公(1377年-1427年)はドブロヴニクとの交易に力を入れたこともあり、ドブロヴニクからも商人や共和国の代表など有力者が訪れ、中央広場は、様々な地中海文化が出会う場所であった。広場は、今日も在る。1459年、セルビアが完全にオスマン・トルコ帝国の支配下に入ると、町はイスラム文化の色を濃くする。後、ウィーン戦争(1683年-1699年)でオスマン・トルコ帝国が敗退、オーストリア・ハンガリー帝国の勢力が南に拡がると、ヴァリェヴォは一時的にオーストリア・ハンガリー帝国の支配下に置かれたが、後にふたたびオスマン・トルコの支配下に入る。この町も、東方教会の文化とイスラム教の狭間にあった。
 19世紀の初頭、セルビアの民がオスマン・トルコ帝国から独立を求めて蜂起が始まると、ヴァリェヴォは、重要な役割を担う。ヴァリェヴォとシャバッツの蜂起を指揮したのは、セルビア正教会の司祭マティア・ネナドヴィッチ(1777-1854)であった。ヴァリェヴォの近郊の村、ブランコヴィナ生まれ、後にトルコとロシアとの交渉を行った人物で、その『回想録』は文学としても名高い。二十世紀を代表する女流詩人デサンカ・マクシモヴッチもブランコヴィナ生まれ、ネナドヴイッチ家の出である。晩年に、デサンカは芭蕉を愛し、晩年には俳句も著していた。
 中央広場には、デサンカの立像が立っている。ユーゴスラヴィア時代は10月作家会議が開かれ、世界の詩人が集い、ここで様々な国の言語で朗読が行われていた。私が初めて詩を朗読したのもここだ。山並みの蒼さを憶えている。まだデサンカはお元気で、椅子に深々と坐り、詩人や多くの子供に囲まれて、和やかに微笑んでいたのが懐かしい。中央広場の周辺は、1870年に開校したギムナジウムや市庁舎、銀行、美術館などが並び、町の中心をなす。川沿いの旧市街は、トルコ時代に形成されたが、ひと昔前まであった銅細工の店などは消え、カフェやブティックになった。それでも石畳の通りにはオリエントの風情が漂っている。
 橋を渡り、南へ坂道をのぼると、古くからの家並みが残っている。ここはテシニャラと呼ばれ、居酒屋などもあり、かつては蜜蝋屋、トルコ風の菓子屋、パン屋など職人が店を出して賑わったというが、今朝は静かだ。草地に車をとめた。
 林をぬけてヴィドラックの丘をのぼり、革命戦士記念公園へ歩く。空がひらけ、木々の枝を透かして、銀の光が見える。頂上の記念碑が近い。ステェパン・フィリッポヴイッチ(1916-1942)、パルチザン闘争に命を捧げた若者の立像。ユーゴスラビアの彫刻家ヴォイン・バキッチ(1915-1992)による「革命戦士たちの記念碑」だ。両手を空に広げて立ち、正面を見据える若者は、修復されたばかりのようで、ぴかぴか光り、どこか現実離れしていて、まず漫画の鉄人二十八号を思い出してしまう。細部が省略された抽象的な粗削りの形象……。写真では知っていたが、実際に見るのは初めてだ。だが見るということは、大切だった。じっと見ていると、力強い。揶揄することはできない。ヒワの澄んだ歌が、晴れ渡った空に吸いこまれていく。後から、恋人らしい若い男女が丘に現れる。携帯電話を取り出し、立像の前で記念写真を撮っている。立像の前の小さな墓標を、枯れはてた花環が覆っていた。花環のリボンに、SPS(セルビア社会運動党)の文字が色褪せている。

革命戦士たちの記念碑、ステェパン・フィリポヴッチの像 (ヴォイン・バキッチ作)

    革命戦士たちの記念碑、ステェパン・フィリポヴッチの像          (ヴォイン・バキッチ作) 撮影:山崎久 

 石段を下りると、大理石の記念碑に、文学者ドブリツァ・チョシッチの言葉が刻まれていた。1960年に記され、過去となってしまった時代の香りがする。だが死という犠牲は、確かなことだった。

パルチザン、共産党員、愛国者、
ファシストの征服者と国民の裏切り者に対する戦いに
没したすべての者に捧ぐ
1941年-1945年
ユーゴスラヴィアを人々が自由に歩むため
新しき世界が生まれるため、彼らは勇敢に
社会主義の理想を抱き、永遠に蜂起した

 風が光る。少女の弾んだ声が聞こえる。母と子だ。記念碑の傍らに立って、町を見下ろした。山の青い環に囲まれた盆地に、川が光の帯となって伸びていく。

チョシッチの言葉が刻まれた石碑

チョシッチの言葉が刻まれた石碑 撮影:山崎佳夏子

 坂道を下りると、詳しい観光案内の看板があった。ステェパン・フィリッポヴイッチはクロアチアの共産主義者で、1919年、ネレトヴァ川の岸辺の町オプゼンに生まれた。一家はモスタルなどを経て、クラグイェヴァッツに移住、スティパンは機械工となり、第二次大戦中は、パルチザンとしてヴァリェヴォを中心に祖国解放運動で功績をあげた。
 セルビアの反ファシズム運動は複雑だ。ティトーが率いる共産党系のパルチザンと、王国軍の流れをくみセルビア民族主義を主張するドラジャ・ミハイロヴッチのチェトニクと二つあり、協力関係はなかった。1941年暮れ、フィリポヴィッチはチェトニクに捕えられ、ナチスに引き渡され、ベオグラードのゲシュタポの監獄で二か月に及ぶ拷問を受けながらも沈黙を守り、ナチスにより1942年5月22日にヴァリェヴォで処刑される。場所はあの中央広場だ。近くの村からも人が集まる市日が選ばれ、見せしめのための絞首刑となった。恐れることなく、両手の拳をふりあげ演説するステェパンの姿を、写真屋で働く娘、当時17歳のスロボダンカ・ヴァシッチが撮影、すぐに店で売りに出され、劇的な瞬間の写真が歴史に残った。むろん、危険な行為だ。当局により店は直ちに営業を禁止された。演説は、ヴァリェヴォ高校の教師ミリヴォイ・マンディッチが記録した。「ただ闘争によって同胞を解放できる。死を恐れるな、死を恐れるのは臆病者だけだ。死は特別なものではない。あと数分で、首縄が僕の呼吸を止めるとき、それが君たちにもわかるだろう。戦え、同志たちよ」と言葉を結び、ステェパンは永遠の旅へ急いだ。小柄で、身長は約160センチメートルだったという。
 この写真をもとに、バキッチは記念碑を制作する。第二次大戦は、バキッチにも過酷だった。独立クロアチア国の民族主義団体ウスタシャにより、兄弟4人がヤドヴォの洞窟における大量虐殺の犠牲となり、自身はザグレブの刑務所に投獄された……。バキッチはフィリッポヴィッチの1歳年上、同世代である。両手を広げる若者と踏み台が、セメントとアルミニウムで作られた。全長15,5メートル、踏み台は5メートル、足から頭までは8メートル。原型は1951年から53年の制作、1960年10月に立像は完成した。わずか3年ほどの社会主義リアリズム期の作品で、その後のバキッチは、幾何学的な抽象彫刻に移行する。「光の形象」と呼ばれる連作は、抒情的で幻想的だ。そうだ。ベオグラードの近代美術館の庭に光の輪の作品があった……。バキッチはクロアチアを代表するセルビア人の前衛彫刻家で、ヨーロッパでも高く評価され、ユーゴスラビア各地で祖国解放運動の記念碑を制作したが、1990年代の内戦以後、クロアチアの民族主義者により7つの代表作が破壊され、5つの記念碑が損傷したと言う。彫刻家は、どんな思いだったろう……。銀色の像をふたたび見上げる。処刑台も首縄もない。堂々と両手を広げて、フィリポヴィッチが青空の下に立っている。自由という言葉がよぎった。

 坂道を先に降りていくと、バス停があった。屋根のあるモダンな停留所で、ベンチもある。なかなか感じのいいバス停ね、と坊やを抱いた女の人の声がする。夫と一緒らしい。観光案内を読みながら、語り合っている。時刻表があるが、バスが運行している気配はない。

バスの停留所

バスの停留所 撮影:山崎佳夏子

 車にもどると、草地に大きな石の十字架の記念碑が立っているのに気がついた。「1914年から1916年、チフスの犠牲となった兵士および市民を記憶して」と記されている……。初老の男女が通りかかる。土地の人らしい。挨拶を交わす。男の人が語りはじめた。「第一次大戦で、まずオーストリア軍と、次にドイツ軍と戦って、セルビアは勝利しますが、死亡者の数は110万人以上、成人男子の半分が亡くなったのでした。コルバラ戦線に最も近いヴァリェヴォの病院は、セルビア最大の軍病院となって、町はセルビアとオーストリアの負傷兵でいっぱいになり、学校、居酒屋、倉庫などは、まるで野戦病院でした。医者の数も足りず、衛生状態も悪い病院では、次々にチフスが感染して兵士たちが死んでね、軍の記録では5万人以上の兵士がチフスで死亡と言うけど、市民をあわせたら13万から15万と言いますよ。病院ではオランダやアメリカなど外国の医師も志願して働いていました」。そうだ。セルビアの女流画家ナデジダ・ペトロヴィッチ(1873-1915)も、ヴァリェヴォの病院で看護兵として働き、チフスで亡くなった……。
 男の人は言葉を続けた。「ヴィドラックの丘はね、トルコ語では丘を意味するバイトと呼ばれ、19世紀に墓地となりました。第一次大戦では、軍の墓地でね、数えきれぬほどの墓標が整然と立ち並んでいた。どれも赤茶色の簡素な墓標で、セルビア人、オーストリア人やその他の国の兵士の名もあったといいます。犯罪学者のスイス人、アルチバルド・ライスをご存知でしょう。第一次大戦のオーストリア軍の戦争犯罪をセルビアで調査したローザンヌ大学教授ですよ。大戦直後に墓地を訪れて、「死は全てを均しくし、将校の隣には兵士が眠っている」と記していますよ」。

 ではその墓地はどうなったのですか、と尋ねると、男の人は「1946年に墓地の廃止の決定が下されて、希望する者は別の場所に墓碑を移しましたが、取り壊された墓碑も多かった。革命記念公園として整備されたのです。林の奥に行けば、チフスで殉死した外国人の医師の墓もありますよ」と答える。そうだったのか……。女の人は静かだった。お礼を述べると「どういたしまして」と男の人は微笑み、二人はゆっくりと坂道を上っていった。デサンカ・マクシモヴィッチの俳句を思い出した。

子の墓に林檎に砂糖
子は食まず
旅に果て
村のはずれに葬られ
棺乗せた
牛車の先をゆく魂

 陽ざしが強くなる。車で町を抜け、ヤブラニツァ川に沿ってターラへ向かう。町のはずれの川岸にコンクリートのサイロが立っている。2014年のヴァリェヴォの大洪水では地盤が緩み、サイロが倒壊しそうになったと聞く。コルバラ川は、氾濫を起こす危険な川で、毎年のように洪水がある。国道170号線に入り、ポヴレン山を越える。上り下りが激しく、カーブも多い。長くて曲がりくねった道、ロング・アンド・ワインディング・ロード、ビートルズの歌を思い出す。デサンカの詩「血まみれの童話」に「山がちのバルカン」という言葉があったが、高度が上がるにつれて視界が広がり、山々が青緑に波打っている。やがて下り坂となり、くねくねと車は山を下る。あたりに家は少ない。開け放した窓から、森が香った。ドリナ川が近い。車はバイナ・バシタに入りドリナ川に沿って走り、今度はターラ山を登りはじめる。ふたたび坂道が続き、樹海を走り抜け、ミトロバッツ村に着いた。

 6月初旬のターラは、様々な鳥の声に満ちていた。カッコーのくぐもった声、ヒバリや鶯の明るい声。クロツグミが草に現れ、虫をついばむ。春に卵から孵った鳥が、成鳥になりかけ、恋の歌を交わす。夕暮れは肌寒い。セーターを忘れた。暖房を入れる。6月は日が長く、空がいつまでも明るい。疲れ果てて、ぐっすり眠った。

 翌朝は、冷たい霧雨となった。ラスティシテ村を訪ねる。車でターラ山を下り、ペルチャッツ湖を抜けると、ドリナがゆったりと流れていた。ボートハウスがあり、釣り人が舟を浮かべる。デルベンタ渓谷が厳かに始まる。アスファルト道が途絶えて車は左に折れ、砂利道に入る。道に沿って浅い川が流れていく。全長2・3キロのデルベンタ川。源流はラスティシテ村で、ペルチャッツ湖に注ぐ。険しい崖が続き、荒々しい情景が現れる。秘境と呼ぶほかはない。沖縄の御嶽を思い出す。岩をぶち抜いただけの短いトンネルをいくつもくぐり抜けて、でこぼこ道を辿る。小さな教会があった。あたりに民家は見えず、人の気配はない。赤い国産車に追い抜かれる。土地の人だろう。さらに道は狭まり、車が1台、やっと通れるほどで、樹木の枝が緑のトンネルになる。途中、大きな農家があり、麦畑の傍らに先ほどの赤い車が止まっていた。この家の主らしい。
 やがて小さなトウモロコシ畑があらわれ、国立公園の看板がぽつんと立っている。中世の墓標群ステチャックだ。白く横長の石に、様々な模様が刻まれている。クロアチア、ボスニア・ヘルツェゴヴィナ、モンテネグロ、そしてセルビアに分布し、10世紀から15世紀に作られたというが、謎に包まれている。重要な遺跡に違いないが、草が生い茂り、風雨にさらされ、時の流れに身を任せていた。人影はない。

ラスティシュ村、墓標群

ラスティシテ村、墓標群 撮影:山崎佳夏子

 ステチャックはボスニア・ヘルツェゴヴィナのストラッツなどが有名で、石に刻まれた模様も複雑だが、ドリナ川を挟んでボスニアに接するバイナ・バシタ周辺にも、簡素なものが見られる。観光案内の看板を読む。この墓標群は14世紀から15世紀と推定され、13個が確認され、そのうち2つに十字架が記されている……。草を分け入り、ひとつひとつ調べて、それらしきものが見つかったが、見落としそうなほど十字架は目立たない。特別の地位の者だけが葬られたらしい。三日月の上に浮き彫りの円が施され、星を表すというが、何を意味するのだろう。石は、どれも東西の方向に並んでいた。雨が激しくなる。ふたたび秘境のトンネルをくぐり、ターラ山の宿へ帰った。
 夜は寒い。死者たち、歴史の流れに眠る人々を想った。記憶、あるいは忘却……。テラスから見上げると空は曇り、星は見えない。鳥は眠りにつき、静寂に森は抱かれていた。

墓標群

ラスティシテ村、墓標群 撮影:山崎佳夏子

山崎佳代子(詩人・翻訳家)
一九五六年生まれ、静岡市出身。一九七九年、サラエボ大学に留学。一九八一年よりベオグラードに住む。詩集に『みをはやみ』(書肆山田)など、翻訳書にダニロ・キシュ『若き日の哀しみ』(東京創元社)など、エッセイ集に『ベオグラード日誌』(書肆山田)、『パンと野いちご』(勁草書房)などがある。セルビア語による詩集のほか、谷川俊太郎、白石かずこの日本語からの翻訳詩集を編む。セルビア語の研究書には、Japanska avangardna poezija(『日本アヴァンギャルド詩』)ほか、『日本語現代文法』を著わした。

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