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#2 ハノイの日本人

リングにあがった人類学者、樫永真佐夫さんの連載です。「はじまり」と「つながり」をキーワードに、ベトナム〜ラオス回想紀行!(隔週の火曜日19時更新予定)

旅のルート(日記部分はルアンアナムターの黒タイの手すき紙) ©Masao Kashinaga

11月22日(金)22:40〜 ハノイ
 ハノイ・ノイバイ空港に一時ごろには着陸していたが、いつものことながら入国審査に異様に時間がかかった。手荷物受取所でS氏と落ち合い外に出たころには三時だった。空港からニャッタン橋を渡るまではスムーズに進んだが、旧市街は渋滞していてホテルに着いたのは四時すぎ。
 チェックインして一休みし、夕方六時にホテルを出て日本食屋「紀伊」で小松さんと会い九時半までしゃべってホテルに戻った。引き続きラウンジで三十分ほど話して解散。 

はじめて降り立った日のハノイ・ノイバイ空港。神戸市バスが2台(1994年8月)

 アメリカとの戦争も、市場経済化前の貧窮も、ベトナムにとってもはや過去の話だ。各国の工場用地に猛烈な勢いで沃野が浸食されていく紅河デルタのさまを、着陸間近の窓から目の当たりにしてそう思った。
 ハノイ、ノイバイ国際空港の国際線ターミナルは新しく2015年に竣工した。だが利便性に富んでいるはずのこの超近代的な大ターミナルに、いとも簡単に吸い込まれた旅客がすんなり外に吐き出されはしない。建物や機械などのハード面に、効率よくそれを動かす人や技術というソフト面が伴わない。それでこそベトナム。やたらに時間がかかった。
 長い廊下の先にある入国審査カウンター前にたどり着くと、ただの人だかりに近い長蛇の列。しかも不運にも並んだ列がハズレだった。
 半分は嫌がらせだろう、カウンターの係官の動作がやけにノロい。おまけに権威を見せつけるためだけの睥睨を、動作のあいだにいちいちさしはさむ。「まだ生き残っていたのか」と、冷戦期の遺習との久々の邂逅に苦笑した。
 わたしは初めてノイバイ空港に降り立った1994年夏の日のことを思い出した。
 タラップを下りると、神戸生まれのわたしには馴染みある神戸市バスがやってきた。行き先は神戸市内の終点ターミナルを表示している。だが、神戸市バスで連れて行かれた先は、大きくない役所っぽいビル。その上には広い空に向かって管制塔が力いっぱいに突きでていた。
 フロアに入ると、部屋に不釣り合いに大きなカウンターデスクがいくつか並んでいた。クーラーもなく暑いさなか、出入国審査官はしかめ面で、やはり睨みをきかせ、大仰かつ緩慢な動作で審査業務をこなしていた。
 手続きが済み、手荷物を受け取ると、外見も内装もボロっちいハノイ行きの小型バスに乗りこんだ。舗装が傷んだ道路の揺れをずっと感じながら、スイギュウが草を食むのどかな田園のなかを、右に曲がり、左に曲がり、戦争中のトーチカの残骸も横目に見、旧市街まで1時間以上走ったのだった。
 今では隔世の感がある。

ベトナム戦争で戦没した「烈士の墓」が北部のいたるところにある(2004年10月)

オー・デー・アーがつくるベトナム

 成田発の便ですでに到着していたS氏とは、手荷物受取場で合流した。わたしたちの旅がはじまった。
 あらかじめ手配しておいた車に乗り込んだのはすでに3時。
 市街地へ向かう高速道路の両側には工場がずっと続いている。トヨタ、キャノン、ホンダなどの工場もその一帯にある。行き交う車やバイクもトヨタ、ホンダ、ニッサン、ヤマハ、カワサキなど日本製だらけ。
 だが、左側通行だし、車よりバイクがとにかく多い。道路の混沌状況も喧噪も日本とはまったくちがう。取り締まり強化のおかげで「ノーヘル」の人はかなり減ったが、どう見ても重量超過の荷を積んだバイクは多いし、3人以上のっている原チャリもいる。
 30分近く走ると、紅河 ソン・ホンの滔々たる流れを眼下に見た。その赤茶けた濁流こそが、悠久のときを超えて雲南の山塊から土砂を削って運び、紅河デルタを穀倉にかえたのだ。はるか上手の空は砂塵に霞んでいる。わたしたちは4本の高い主塔が天を刺す、長さ3700メートルのニャッタン橋のうえにいた。

ソ連の援助でできた紅河に架かる橋の上から見る、落成が近いニャッタン橋(2014年12月)
エッフェル社設計ともいわれる、紅河にかかるロンビエン橋。右は中洲(2005年3月)


 ニャッタン橋は、「オー・デー・アー」のおかげで「ジー・カー」によってできた。ノイバイ空港の大ターミナルもそうだし、今は国内線ターミナルに格下げされた先代のターミナルもそうだ。
 ベトナムの津々浦々で、イナカくさい風景とは不釣り合いに近代的な橋、道路、学校などのハコ物を目にすることがある。そのたび地元の人から、またか、と思うくらい「オー・デー・アー」だの「ジー・カー」だのを聞く。オー・デー・アーとは日本のODA(政府開発援助)、ジー・カーはJICA(国際協力機構)のこと、つまりすべては国際開発援助のたまものなのだ。
 オー・デー・アーについて、わたしはS氏にこんな話をした。
 20年くらい前のことだが、黒タイの村の人が「今度はオー・デー・アーで、あそこの道路が舗装されるらしいよ」みたいなウワサ話をよく語っていた。だからあるとき、わざときいてみた。
「オー・デー・アーってなに?」
すると、
「ベトナムがオー・デー・アーに頼んだら、おカネ出してくれるんだろ。ホント、日本って豊かだよな」と、感心している。
「まあ、そんな感じ」と前半は正しいことにして、「ぼくがいくら貧乏だからカネくれっていっても、オー・デー・アーはなにもくれないけどね」と付け足した。
今度は、
「なんだって日本は日本人にカネをやらずに、ベトナムにたくさんくれるんだ?」と、難しい質問がきたので、
「国が外国にいっぱいカネを使うと、日本のエラい人もベトナムのエラい人もきっと得するんだろう」と苦しまぎれに返した。
「ちげえねえ!」と屈託のない笑い声を上げ、
「マサオも早くえらくなって、いっぱいカセぐこったな」とオチをつけてくれて、さらに笑った。
 エラくなったら、袖の下やらなんやらでたくさん儲かるという話はベトナム人にはわかりやすい。ベトナムではそれがあたりまえで、まわりの人の誰かエラくなっておこぼれにでもあずかれないかな、とさえ思っている。
 もちろん汚職の取り締まりはどんどん強化されている。とはいえ、賄賂までいかなくとも二重帳簿で差額をせしめるようなことや、紹介料のピンハネなど中間搾取の横行が、ベトナムの自力での発展を阻害していることも事実だろう。
 司馬遼太郎は1973年という、米軍の撤退でいわゆるベトナム戦争は終結したがベトナム領域内の内戦はまだ続いていた時期に、サイゴンを訪れ取材し、こんなことを書いた。

  このおそろしいほどに機械の修理などに器用で、物事の主題をのみ込む 
 上で利口で、そしてあきれるほどにはたらき好きのこの民族が、この豊饒
 な土地の上に近代国家をつくれば東南アジアでぬきん出た国になるにちが
 いないことは、たれもが考える。わたしも考える。ただし重要な条件を必
 要とするであろう。戦争と汚職さえなければ、である 。

 司馬のいう戦争は終わり、サイゴンが陥落して社会主義国となり40年以上たつ。だが、あいかわらずもう一つの条件克服のハードルは高いようだ。

高層ビルが次々に建設されているハノイ市内(2015年12月)
ハノイの道路はいつもバイクと車でいっぱい(2014年10月)

ハノイの「顔」

 「紀伊」という日本食屋がある。
 ハノイの「顔」といっていい店長、小林さんは、開店以前からの古い知己だ。わたしが400キロ以上離れた黒タイの村にいた頃、ハノイでしか手に入らないような都会のお菓子など、いわば救援物資をサプライズで町の郵便局の私書箱宛てに送ってくれたりした恩人でもある。
 彼の商人魂がすばらしい。素材にとことんこだわり、契約農家に新鮮で安全な野菜を依頼するだけでなく、山海の珍味まで知り尽くすべく、時間をこしらえては木の国、根の国、どこにでも行く。蕎麦を打つためにソバの実を求めて中越国境の山岳部に住むモンの村にまでバイクで訪ねる。わさびが必要、といったら国境を越え雲南の渓谷にまで足を運ぶ。そんな小林さんの絶えざる探究心、手を抜かないサービス精神、謙虚でユーモアある人柄が「紀伊」をハノイ随一の店にした。
 ハノイ到着の夕べ、「紀伊」でわれわれはハノイ在住の小松みゆきさんと食事の約束をしていた。6時に行くと、彼女はすでに店にいた。
 日本人で「紀伊」を知らずにハノイを語る資格がないように、小松さんの存在を知らずにハノイ在住を堂々と語れない。ハノイの日本人の間で小松さんはそれくらいの存在感だ。
 彼女は1992年に日本語教師としてハノイに身一つでやってきて、しゃにむに日本とベトナムの相互理解のために尽くしてきた。その30年に垂んなんなんとするハノイ生活のあいだに、彼女は二つの大きな挑戦をした。
 一つは、新潟の豪雪地帯からほとんど出たことのないまま認知症になった実母を、奮起して引き取りハノイに連れてきて、13年間同居して最期までみとったことだ。もう一つは、残留日本兵たちの残したベトナム人家族を取材し、知られざるベトナムと日本の関係を掘り起こしたことだった。
 前者のお母さんとのハノイでの同居生活については、彼女の『ベトナムの風に吹かれて』(角川文庫)に詳しい。しかもそれが原作になった同タイトルの映画(大森一樹監督)は、松坂慶子、草村礼子、奥田瑛二、吉川晃司という豪華キャストによる話題作となった。ちなみに、本と映画では内容が別物なので二度楽しめる。
 後者の残留日本兵の家族については、彼女が書いた小論「ベトナムの蝶々夫人」 が縁で、NHKがドキュメンタリー番組を制作したし、のみならず2017年3月の天皇皇后両陛下訪越の際には、その家族らの拝謁まで実現した。その後、彼女は自身の活動をまとめた『動きだした時計』(めこん)を刊行するなど、あいかわらずエネルギッシュだ。
 わたしは1997年に彼女を知った。当時はまだハノイに物も情報も不足して、数少ない日本人の学生や研究者たちは肩を寄せ合うように助け合ってくらしていた。そのころ折に触れて食事会などを催し、在住者同士の交流の機会をつくってくれたのが彼女だった。頼りがいのある「ハノイのアネキ」として、小さかったコミュニティーの中心的存在だったのだ。
 S氏は『ベトナムの風に吹かれて』の本を読み、映画も見ていた。のみならず「ベトナムの蝶々夫人」も読んでいたから小松さんに会うのを楽しみにしていた。
 2人の対面場所に「紀伊」を選んだのは、小松さんにとってもそこが気安いし、ベトナムの店はたいがいがやがや騒々しく、落ち着いて話ができないからだ。それにわたしもS氏にハノイの日本料理屋と小林さんを紹介したかった。
 だがS氏にとって初訪越なのに、最初の食事がベトナム料理ではなく日本食だ。小林さんはそれを気づかって、ベトナムのインスタント食品をお土産に準備し、またベトナム産ビールを何種類もサービスしてくれた。
 それで知ったのは、20年くらい前なら各地でつくられていた地ビールのほとんどが、すでに淘汰されてなくなってしまっていることだ。
 ベトナムは競争が激しい。誰かがなにかで儲けた、となるとネコもシャクシも同じ商売に手を出し、質の悪いものが濫造され、互いに足をひっぱりあい、じきに共倒れする。それこそベトナムだ。
 さて、ビール好きのS氏は上機嫌で7種類くらいあったラベルすべてを試飲した。その結果、333 バー・バー・バー、サイゴンビールなど老舗ブランドがやはりおいしいようだ。

ハノイとホーチミン市を結ぶベトナム統一鉄道の線路上も、
列車が来ないときは自由に使用されている(2008年1月)

新潟からベトナムへ

 S氏と小松さんはほぼ同世代ということもあり、すぐに意気投合した。小松さんはベトナムやハノイでのことを個人的なことも含めて、あけっぴろげに語ってくれた。小林さんが用意してくれたベトナム近海の魚介類、在来のブタ、現地野菜を使った料理などをつつきながら、実に3時間以上もわれわれは店にいた。スクーターで帰宅する小松さんの後ろ姿を見送ったとき、すでに9時を回っていた。
 わたしとS氏はハノイ第一夜が更けゆくのを惜しみ、ホテルにもどったあともバーでしゃべった。もちろん小松さんが主な話題だった。
 「芯の強い、魅力的な女性でしたね」と、S氏は評した。
 それは彼女の生い立ちとも深く関わっている。彼女の前半生は苦渋に満ちた、しかし遍歴に富み、独立不羈の力強いものだった。
 彼女は1947年に新潟の雪深い山村で生まれた。25歳で後家として結婚した実母は21歳も実父より年下だったから、彼女には腹違いのキョウダイが6人もいて、しかも末っ子だった。母子2人の立場は家族のなかできわめて低く、母は家事と野良仕事にいつもかかりきりだった。
 中学を卒業した日、彼女は母に東京に連れて行かれた。そのまま割烹旅館に預けられた。彼女は住み込みで働きながら定時制高校を卒業し、その後短大にも進学して出版社で働いた。学生運動に参加し、結婚した。研究者や法律家たちと交わって過ごした20代、30代にますます向学心を高めたのだ。
 1988年、研究者だった夫の就職先が北海道に決まった。同時に離婚したのが転機になった。彼女は単身でシベリア鉄道に乗り込みユーラシア大陸を横断してイタリアにわたった。そのまま一年と数ヶ月のあいだイタリアで留学生活を送り、かの地で昭和の終わりを知ったのち帰国した。
 次に日本語教師の資格を取った。その資格をひっさげ目指したのが、青春時代に自身もベトナム反戦運動に参加したこともあり特別な国だったベトナム 。かくして越後の人はまた海を渡り、越南(ベトナム)の人になった。

残留日本兵とその家族

 残留日本兵について、1992年にハノイに来るまで彼女は知らなかった。
 たまたま彼女が日本語を教えるクラスのなかに、「父は日本人です」という生徒さんがいた。当時42歳だったソンさんだ。彼が生まれたのは、ベトナムがまだフランスを相手に独立戦争を闘っていた1950年。なぜそのころのベトナムに日本人が、という疑問と興味から調べてみると、すぐに彼女は、終戦をベトナムで迎えた日本兵のなかにその戦争に参加した人がたくさんいたことを知った。その数、少なくとも600人以上とか 。
 彼らはベトナム独立を目指す組織「ベトナム独立同盟」(通称、ベトミン)に協力し、実戦経験の少ないその軍隊を指導し、「新しいベトナム人」として第二の祖国、ベトナムの独立と統一のために闘った。その中には、当然ベトナムで家族をもった者も多かった。
 しかし、1954年にディエンビエンフーでの決戦に勝利してフランスからの独立を勝ち取ったのち、その生き残りは順次日本に帰国させられた。ソンさんの父、山崎さんもそんな一人だった。「ホップタック(合作)」という共産党の政治教育を受けた後、1959年に妻と子の4人をベトナムに置いて帰国した。
 帰国者たちは「共産国帰り」というレッテルの危険人物として公安にマークされ、就職先を探すのにさえ苦労した 。一方、ベトナムに残された家族も、東西冷戦の対立構造が強まるなか、ベトナム戦争でアメリカ人に協力する憎き日本人を夫や父親にもつことから、共産党員にはなれないし、進学、就職、入隊などのたびごとに差別された。それぞれが両国でイバラの道を歩まなくてはならなかったのだ。
 中国経由で日本に戻った「新しいベトナム人」について、当時の新聞などは取り上げたが、そんなニュースはとうの昔に忘れられている。それを再び明るみにだしたのが小松さんだった。彼女は夫の帰りを待ち続ける「ベトナムの蝶々夫人」やその子たちとじかに会い、ときには彼らの求めに応じて、元日本兵とのあいだをつないだ。
 もちろん金儲けのためではない。そんなことがカネになるはずはない。「放っておいてくれ」という人だっているから感謝されるとも限らない。そのうえベトナムの公安には目をつけられる。党の見解では、社会主義の国にそんな差別などあるはずがない。町の人の「口からデマカセ」を外国人が真に受けて、国外で吹聴されては困るのだ。
 だが、彼女の目的は党のウソを暴くことでも、体制を批判することでもない。歴史の悲劇の当人たちに寄り添い、引き裂かれた家族の悲しみを少しでも癒すことだった。動機はそんな純粋でまっすぐなものだったろう。戦後直後に生まれた彼女は、強く意識していないにせよ、戦争が両国にもたらした不幸を直視し戦争に対する深い反省を促したかったのではないだろうか。また、それは両国の人々がちゃんとした友好関係を築くために必要な禊ぎだと感じていたのかもしれない。

ハノイに来たバーちゃん

 2001年12月、小松さんは越後までお母さんを迎えに行ってハノイに戻った。
 小松さんはいつのころからか、いつの頃からかお母さんを「バーちゃん」とよんでいた。「バー」は高齢女性に対する呼称で、漢字をあてると「婆」にあたるベトナム語bàに由来する。
 わたしもハノイにいるとき同じ集合住宅の別棟に間借りしていたので、時折お宅を訪問した。バーちゃんは、何度会ってもわたしのことを初対面だと信じていた。だから、会うたびに「あなた、どこの人」とまず訊いた。
「生まれは兵庫県です」とこたえると、きょとんとした表情で、
「むかし学校で、ここは何県、あそこが何県って、地図で教えてもらったけど、カラスじゃないから飛んでいかれんもんね」と、かならずいった。
 しかも「カラスじゃないから・・・」の部分を口にしながら、かならず両手でカラスの羽ばたきをする手真似をつけた。だからわたしは「あなた、どこの人」ときかれた途端、カラスの羽ばたきの手ぶりが楽しみでニヤニヤを隠せなかったから、バーちゃんは「兵庫県の人ってのはヘンだ」と、そのたびに思ったかもしれない。
 そんな思い出をS氏に語りながら、わたしは住宅や池の周りを一生懸命に散歩していたバーちゃんの姿を思い出していた。新潟の山奥で、雪、労働、親族の重圧にあえぎ苦しみ耐え忍んできたバーちゃんは、枝伸ばし放題で屈託ない南国の木々を見ては雪が来る前の梢の処置を心配していた。そして、ときどき雪国ぐらしの健脚で行方をくらました。

小松さんのお母さんは、この池の周りを散歩することもあった(2006年3月)

 周囲の反対を押し切りハノイにバーちゃんを連れてきたことをひそかに気に病んでいた小松さんは、あるとき訊いてみたそうだ。
「バーちゃん、こんなとこに連れてきてホントによかった? 新潟にいたかったんじゃないの?」
 だが
「あんなとこに、いなくなってせいせいしたわ」という、認知症とは思えない真顔の対応の返事に驚き、また救われた気がしたそうだ。
 バーちゃんが亡くなったあと聞いたこんな話をS氏に伝え、
「医療や保険請求やらの都合で認知症だとかなんだとかいって、病気や障害みたいにあつかいますけど、90年生きた人には90年の知恵が宿っているってことですかね」と、わたしはテキトーなオチをつけた。Sさんはそれにつきあってくれず、かわりに
「小松さんはお母さんとのあいだに、どうしても取り戻したいもの、埋めたいものがあったんでしょうね」とはじめた。
「ふつうなら親に甘ったれていられる、ほんの15歳ですよ。でもお母さんは『おまえはこんな田舎にいたんじゃダメだ』と心を鬼にして、小松さんを東京に連れて行ったんでしょうね。すれっからしの東京で、小松さんは自由を知り、たくましく自分の道を切り開いて、日本からも飛び出した。ついにたどり着いたベトナムで、残留日本兵の家族と彼女は出会った。引き裂かれた家族の絆やつながりを回復したいという彼らの願いは、そのまま彼女の願いだった。だから残留日本兵のことにのめり込んだ。また、その出会いがあったからこそ、認知症による徘徊で、血のつながっていない新潟の家族たちのお荷物になったお母さんを引き取ろうとも思った。40年経っていたにせよ、『今からでも遅くない。きっと自分もまだ取り戻せる』と。今晩、そんなふうに思いました」
 なるほど!
 彼女は哭いていたのだ。中学の卒業式の日に連れて行かれた東京でバーちゃんに「さよなら」を言ってからずーっと。残留日本兵の引き裂かれた家族と同じく、彼女もまた哭いていた。

89歳の誕生日をハノイで迎えた小松さんのお母さん(2009年3月)

写真:樫永真佐夫

■参考文献                             小松みゆき 2004 「ベトナムの蝶々夫人」『季刊民族学』108(2004年・春):89-100
小松みゆき 2015 『ベトナムの風に吹かれて』角川文庫
小松みゆき 2020 『動きだした時計−ベトナム残留日本兵をその家族』東京:めこん
司馬遼太郎 1973 『人間の集団について−ベトナムから考える』東京:サンケイ新聞社出版局

▼関連リンク
ホー・チ・ミン
「ホーおじさんの九月二日-ベトナムの国慶節」『月刊みんぱく』2009年9月号、20-21頁

樫永真佐夫(かしなが・まさお)/文化人類学者                1971年生まれ、兵庫県出身。
1995年よりベトナムで現地調査を始め、黒タイという少数民族の村でのくらしにもとづき、『黒タイ歌謡<ソン・チュー・ソン・サオ>−村のくらしと恋』(雄山閣)、『黒タイ年代記<タイ・プー・サック>』(雄山閣)、『ベトナム黒タイの祖先祭祀−家霊簿と系譜認識をめぐる民族誌』(風響社)、『東南アジア年代記の世界−黒タイの「クアム・トー・ムオン」』(風響社)などを著した。またボクサーとしての経験を下敷きに、拳で殴る暴力をめぐる人類史的視点から殴り合うことについて論じた『殴り合いの文化史』(左右社)も話題になった。

▼著書『殴り合いの文化史』も是非。リングにあがった人類学者が描き出す暴力が孕むすべてのもの。


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