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ところで、愛ってなんですか? [第6回]

デビュー歌集『夜にあやまってくれ』から現在にいたるまで一貫して「愛」を詠みつづけてきた歌人・鈴木晴香さんが、愛の悩みに対してさまざまな短歌を紹介します。月一回更新予定です。バックナンバーはこちら

風は相変わらず強い。

風は目に見えない。それなのに確かにそこに存在して、人を撫でたり、屋根を壊したり、海に波を立てたりする。
愛も目に見えない。愛はどんな形の手で人を撫で、肉体や心に波を立てているのだろうか。あるいはどんな温度の手で。

「恋人をふってしまったんです」
そう言って表情を失ってしまった彼女に、冷たくした水道水を出した。ここは、BAR〈愛について〉。BARといってもジントニックもシャーリーテンプルも用意していない。
「どんな理由で?」
「嫌いになったわけじゃないんです。でももう友達にしか思えなくなって、なんか違うんじゃないかって。恋人への愛と友達への愛、何が違うんですか。友達への愛って、なんですか」

秘密でもなんでも話せる友達。毎日自転車を押しながら一緒に帰る友達。どれだけ夜遅くまで一緒にいても、まだまだ遊び足りない、そんな友達。
その相手を思う気持ちは、恋愛とは何が違うんだろう。だってこんなに好きなのに? こんなに一緒にいたいのに?

友だちが来てテーブルをくっつける 新しいテーブルの大きさ

谷川由里子『サワーマッシュ』(左右社)

教室。友達がきて、一緒にテーブルをくっつける。そこで弁当を食べたり、ノートを見せあったり、雑誌を広げたりする。くっつけてできたテーブルはさっきの倍はあって、まるでこの部屋に新しい大陸を生み出したようだ。そこからなんでも始められそうな新世界のひかりがテーブルに降る。
テーブルだけではない。友達がやってきたあとの心もまた、新しいサイズに変わっている。もうひとり来れば、もっと広いテーブルに。もうひとり来れば、もっともっと。そうやって、関係はどんどん新しい大きさを得る。
「好きです」と告白しなくていい。そこに、友達への愛の自由さがある。
その自由さが、恋愛がもたらすせつなさとは相反するらしい。好きだと言えない。「会いたい」という四文字が打てない。触れたいのに触れられない。そんなせつなさ。

「そのせつなさが、欲しかったのかもしれない。欲張りなんですかね」彼女は、ほくろのある唇を小さく動かした。

友達との関係は、今この瞬間だけに存在しているのではない。仕事や引っ越しで疎遠になったこともあったけれど、何年、何十年か経ってまた、会って話をするようになることだってある。
あるいはもう会わなくても、友達って言えるのかもしれない。

もう二度と会わない人も群雨の夜に思えば友だちだった

牛隆佑『鳥の跡、洞の音』(私家版)

卒業するまでは、転職するまでは、結婚するまではあんなにちょくちょく会っていたのに、そのあと不思議なくらい一度も会っていない。また会おうって言った言葉は嘘じゃなかったけど、それぞれの人生に、それぞれの時間が流れてしまったみたいだ。だけどその顔を思い浮かべれば、今も友達だって思える。きっとどこかの土地にその人は生きて、ここに流れているのと同じ時間を過ごしている。
月に行けなくても、そのひかりに触れているだけで、月がそこにあるってわかる。その確かさと同じように、友は生きている。

あの友は私の心に生きていて実際小田原でも生きている 

柴田葵『母の愛、僕のラブ』(書肆侃侃房)

心の中で生きている友と小田原で現実に生きている友が、ドッペルゲンガーのように同時に存在している。「実際小田原でも生きている」に、思わずにやりとしてしまう。あまりにも正面突破で当たり前のことだから。
心の中にいる友は、あの頃の年齢のまま思い出の中を生き続けている。一方で小田原の友は、掃除もするし、税金も払うし、あの頃よりもっとたくさんの喜怒哀楽を経験しながら生きている。
いつか友に再会するとき、心の中の友と小田原の友はどんなふうに出会うだろう。

友達を思う心、でもそれは、いつだって手放しで楽しくて親密なものとは限らない。

友人をこころから愛せざるままにゆく二人旅 風がうるさい

川野芽生『Lilith』(書肆侃侃房)

 自撮りして笑い合う。温泉に浸かりながら明日の予定を確かめ合う。そうやって一緒に旅をしていても、その実その人をこころからは好きではなかった。ちょっとした言葉遣いに、ちょっとした行動に、異和を感じる。それでも嫌いだって遠ざけることは簡単ではない。
ざらざらと吹き抜ける風の音は、心を波立てている風の音なのかもしれない。
嫌いだって言ってしまえ。あるいは風はそう囁いているのか。

 「私、好きじゃない友達とタイムカプセル埋めてさ、そこに「本当は大嫌い」って書いたんだ。十年経っても誰も掘りに行かなかったけど。まだ埋まってるのかな、駅前の三角公園」
友達への愛のほうが一層苦しいことだってある。告白しなくていい代わりに、よほどのことがない限り「別れよう」とは言えないから。そこで生きていくには、しばらくのあいだ友達として振る舞うしかない。そんな檻だって確かにある。
その関係がどうしてもどうしても苦しかったら、どうすればいい。

友がみなわれよりえらく見ゆる日よ
花を買ひ来て
妻としたしむ

石川啄木『一握の砂』(新潮文庫)

あいつは業績を上げたらしい。あいつは高い酒を開けている。友達という光は眩しくて、目を逸らしていても見えてしまう。
そんなときは、ちょっとした花を買って、妻と心置きなく話をする。自分自身の不甲斐なさからそうやって逃げる。そういう日があっていいじゃないか。

抱きあへる二つの雲を失ひて窓さむざむと青空に満つ

荻原裕幸『青年霊歌』(書肆季節社)

抱き合うように繋がっていた雲が流れて消えたあと、そこに残っているのは真っ青な空。寒くて寂しい青。
だけど、青空は無ではない。そこにはどんな雲が遊びにきてもいい、両手を広げたような空間がある。窓いっぱいに満ちる青。

友達だって、一筋縄ではいかない。恋だって、ままならない。同じ形の雲は二度と現れない。
友達や恋人。言葉を当てはめればそうかもしれないけど、ふたりにはそのふたりだけの関係があって、その関係だって、毎日、毎秒、移り変わってゆく。
今は離れてしまっても、辛い関係だとしても、風の吹いてくるほうを眺めれば、そこには面白い形の雲がいっぱいあるはずだし、流れていった雲も新しい形を作ろうとしている。
目の前の青色は、そのすべての可能性だ。

***

「ふってしまったことはもう取り返せないけど、でもまた新しい形で会えるかもしれない」
「ほんとうのことを言うと、さっきあなたが来る前にお店にいた人、あなたの恋人だったかもしれない」
「どうしてわかるの」
「どうしても。風下に行けばまだ間に合うかもしれないよ」
「どうしようかな。でも追いかけるのはやめます。風に押されてしまったら、それはそれでいいけど、」
彼女は笑いながら水道水を飲み干した。
まだ間に合うかもしれない、というのは、私自身に言った言葉かもしれなかった。取り戻したい恋のことを、無くしたビニール傘のことを、私は思い出していた。

***

看板は横倒しになっていた。こんな風の日に外に出していたんだから当たり前だ。初めからわかっていた。わかっていて、だめになるのを見たい。そんな不条理なこころが人を突き動かすこともある。
風よりもこころのほうがずっといたずらだ。

鈴木晴香(すずき・はるか)
1982年東京都生まれ。歌人。慶應義塾大学文学部卒業。2011年、雑誌「ダ・ヴィンチ」『短歌ください』への投稿をきっかけに作歌を始める。歌集『夜にあやまってくれ』(書肆侃侃房)、『心がめあて』(左右社)、木下龍也との共著『荻窪メリーゴーランド』(太田出版)。2019年パリ短歌イベント短歌賞にて在フランス日本国大使館賞受賞。塔短歌会編集委員。京都大学芸術と科学リエゾンライトユニット、『西瓜』同人。現代歌人集会理事。

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