死んでもやりたい大博奕/町田康
弘化二年三月。殺したと思っていた佐平が生きていた。ならいっぺん清水へ帰ろうかな。そうだ、帰ろう、清水へ。って訳で、次郞長は長く草鞋を脱いだ、寺津の治助の家を出て清水へと帰還した。清水を出たのが、天保十三年の六月だから実に三年ぶりの帰還であった。
だけど、なんだかんだ言って、やくざなどというものは、勢力を張っておってナンボで、元の甲田屋は姉夫婦に譲ってしまって帰る家もなく、治助にもらった道中の小遣いは途中でみんな遣ってしまって一文無しで戻った次郞長を温かく迎える者はなかった。
寺津に居たときは一帯に侠名とどろき渡った次郞長であったが、いざ清水湊に帰ってみれば、人を殺して蓄電した挙げ句、無一文の宿無しとして、フラリと戻ってきた鼻つまみ者に過ぎなかったのである。
預言者はその故郷で尊敬されない。イエス・キリストは生前、その出身地であるナザレ地方では尊敬されなかった。なぜなら地元の連中はイエスが大工の息子であり、自分らと同じく庶民であったことを知っているから、「弟子連れてえらそうにしている。大工のくせに」とどうしても思われてしまう。
次郞長も同じであった。三州寺津では兄哥株、周囲に一目置かれる存在であったが、清水湊では、次郎八ののらくら息子、に過ぎず、まったく大事にされなかったのである。
となれば頼れるのはかつての友だちしかいないが、その友だちとて、旅に出ていたり、今では堅気になって稼業に精出すなどしていて、泊めて貰うこともできない。さあ、そこを無理に泊まったところで、「すまねぇ、嬶ぁがうるせぇんだ」かなんか言って、明くる日にはおん出された。
「まったくもって女ってなあ、ろくなもんじゃねぇ」
そんなことを言いながら次郞長は知り合いの家を転々として、おもしろくない日々を過ごしていた。その日も次郞長は、府中の人足部屋に寝転がっていた。ついさっきまで、つまらない雲助のイタズラに付き合っていた。だけど付いていないときはしょうがない、すっかり取られ、不貞腐れてひっくり返り、部屋の天井を張らない小屋裏の木組みをボンヤリと眺め、「寺津へ行こうか、それとも上方の方へ行ってみるか」なんて考えていた。
そんな時、
「次郎、いるかっ」
と飛び込んできた男があった。江尻に住まう弁慶の重蔵という男で、顔の色が変わっていた。清水へ戻ってからこっち、心躍るようなことがなにもなく、退屈しきっていた次郞長は、久しぶりにおもしろいことがありそうだと期待しつつ、
「おお、ここにいるで」
と返事してのっそり起きた。
弁慶の重蔵が話したのは、次郞長が、いずれそんなこっちゃないか、と思った通り、喧嘩の話であった。
「津向の文吉つぁんから和田島の太左衛門さんのところへ喧嘩状が届いて、今晩の夜の四つに興津川の河原に来い、ってんだよ。すまねぇが、腕を貸してクンねぇ」
と言われて、「ああ、いいとも」と次郞長、二つ返事でこれを引き受けたのだが、それには三つの理由があった。
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