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【試し読み】『ACE アセクシュアルから見たセックスと社会のこと』 プロローグ&第1章

2023年5月刊行、アンジェラ・チェン(羽生有希訳)『ACE  アセクシュアルから見たセックスと社会のこと』より、プロローグ&第1章を公開します。
「他者に性的に惹かれない」アセクシュアルの視点から、私たちのセックス のあり方や社会の常識を揺さぶる、唯一無二のルポエッセイ。
(試し読みでは、原注は省略しています。)

プロローグ

 レストランはジェーンに選ばせてあげた。だって、どっちにせよ私はその日一日中シルバー・スプリングにいたんだけど、彼女の方は、ボルティモアから私に会いに、車で来てくれてたから【*1】。私たち二人を知る人は、私とジェーンって実は同じ人でしょって、よくいじってきたけど─本好きで、神経科学に関心があって、彼女ときたら、私が髪を短くしたとき、自分も短くしたんだ─、でも、そのとき私の関心を引いたのは、私たちの違いだった。
 「聞きたいことがあるんだけど」と、彼女が選んだビルマ料理の店で席に着くなり、私は切り出した。「性的に惹かれること(sexual attraction)って、どんな感じ?」
 ジェーンは椅子で身じろぎした。当時私たちは二人とも二十四歳。彼女はボーイフレンドがいたことがなくてバージンだったけど、私は二回目の真剣交際の最中。私のボーイフレンドはセックスを楽しんでいて、それは私もおんなじで、これまでそんなに複雑な性遍歴がないことを、私自身、恵まれてるなと感じていた。でも、心の内から性的に惹かれるとはどんな感じなのか、友人に尋ねているのは私の方だった。私は青写真が欲しかったんだ。それを自分自身の経験に照らして、どこで青写真と私の経験が交わり、どこで別れるのか知れるように。
 「誰かの見た目がよいなと思うときにどう感じるかってことじゃないよ」と、私は続けて言った。それがどういう気持ちかは知ってた。「あと、誰かと付き合いたいとか、その人のことを愛するとかがどんな感じかってことでもない」。そういった気持ちも知ってたし、すでに深く知っていたからこそ、そのことで私は恥ずかしく感じていたのだ。セックスのときに身体的に興奮することに問題はなかったし、身体的欲望がセックスをする唯一の理由だと信じるほどにナイーブでもなかった。自身のパートナーとより近く感じたり、自分自身についてもっとよく感じたりするためにセックスする人だっていたし、暇を潰したり、自分の問題から目を逸らしたりするためにセックスする人だっていたしね。
 私が知らなかったのは、特定の個人を念頭に置かずにセックスしたいと思うこととはどんな感じか、ってこと。一人でいるときにそもそもセックスについて考えることって? セックスによって作り出される感情的な親密さを欲しがるのとは別に、セックスへの何らかの身体的衝動を覚えることって? 私はジェーンよりも性的に経験があったけど、彼女は肉欲とリビドー【*2】についてオープンに語る人だった。一方で、性欲動という言葉は、私にはよくわからなかった。
 ジェーンはティー・リーフ・サラダ【*3】を一口食べて、フォークを皿にカタンと置いた。「誰かと近くなりたいと思うかな、身体的にね。もしその人が見ず知らずの人だったとしても」と彼女は言った。「そわそわする、ものを弄り始める、だんだん温かく感じる、とか」
彼女はつっかえながら答え続け、それから、自分の答えがかっちり正確なわけではないからと釈明した。「わかんないよ」と彼女は言った。「それって気持ちなんだし」
 でも、十分な答えだった。ジェーンが注意深く描き出したことから明らかになったこと。それは、性的惹かれであるかのように私自身思っていたものが、まったく別のものだった、ってこと。それは、美的な評価であり、感情的もしくは身体的な近さへの欲望であり、ある種の独占欲だったわけ。そういったことすべては、性的惹かれに関連するものだし、それを強めたり広げたりするかもしれない構成要素だけど、性的惹かれそれ自体と同じじゃない。
 「これってちょっとした思考実験?」とジェーンに聞かれた。
 「違うってば」

*1 シルバー・スプリングもボルティモアも、アメリカ合衆国メリーランド州の都市。ただし、両都市は同じ州の中とはいえ、高速道路を経由した車での走行距離にして五五キロほど離れており、移動するのに四、五十分ほどかかる。
*2 精神分析における最重要概念の一つ。重要であればこそ様々に使われる語だが、性的なエネルギーから転じて、生命維持のみならず文化的活動のもとにある心的エネルギーとして見なされうるものであることを、とりあえずは指摘しておきたい。
*3 ビルマ料理の一つ。発酵させた、酸味のある茶葉を用いたサラダ。

第1章 アセクシュアリティにたどり着いて

 十四歳のとき、アセクシュアリティという語に出会った。ほとんどの人と同じように、そう、オンラインで。「アセクシュアルの可視性と教育のためのネットワーク」(AVEN)のウェブサイト、asexuality.orgには目立つ仕方でこう書かれている。「アセクシュアルの人とは、性的惹かれを経験しない人である」と。アセクシュアリティとは一つの性的指向であると、私は学んだ。ホモセクシュアリティ〔同性愛〕とパンセクシュアリティ〔全性愛〕とヘテロセクシュアリティ〔異性愛〕が性的指向であるのと同じだ。同性愛の人は同じジェンダーの人に性的に惹かれる。アセクシュアルの人は、誰にも性的に惹かれない。
 こういったことはすべて理解できた。シリコン・バレーで育ったことで、私は従来とは異なるライフスタイルに対して健全な認識を育むことができていた。それに、私にとっては当時最新の、魔法みたいなオンライン辞書ふうの定義が世界について、他者について新しいことを教えてくれたんだと、喜んでもいた。アセクシュアリティが正常で、健全で、妥当なものだと思うのは何ら難しいことではなかった。また、こういったアセクシュアルの人々、エースが、他のすべての人から指差されたり笑われたりすることなく、末長く幸せな生活を送る権利があるのだと信じることも。しかし、その言葉を知ったからといって、自分自身への眼差しが変わることはなかった。私は、「性的惹かれを経験しない人」とは「セックスが大嫌いな人」のことだと誤解した─そしてだからこそ、私個人はアセクシュアルでありえなかった。私はまだセックスをしたことはなかったが、セックスすることを考えるととてもワクワクした。こういったことが、この指向に関する、またこの指向が含むあらゆる誤解に関する、奇妙な点だ。エースでありながらそれに気づかないことがありうるし、その言葉を見ても、小首を傾げてスルーすることがありうるのだ。定義だけでは不十分だ。もっと深く掘り下げねばならないのだ。
 自分はアセクシュアルではないと思い込んだので、アセクシュアリティは私の人生に関係ないものだと思えた。この点でも、私は誤っていた。セクシュアリティはいたるところにあり、セクシュアリティが社会に関係するすべての場所で、アセクシュアリティも関係してくる。エースが格闘する問題は、あらゆる〔性的〕指向の人々が人生のどこかの地点で直面しうるのと同じ問題なのだ。
 例えば、人がどのくらいの性的欲望を持つことになっているかという問いを取り上げてみよう。どれほどだと少なすぎなのか。少なすぎが不健康なのはどんなときか。ある人の答えは、もしくは前提とされている答えは、ジェンダーや人種のアイデンティティ、障害に応じていかに変わりうるだろうか。欲望を経験する度合いが、私たちの政治について、私たちの人格について、私たちの関係の将来性について、どのようなことを意味するだろうか。どのようなことを意味すべき・・なのか。
 これらは人間の経験についての幅広い問いだ。エースの視座からすれば、その答えは異なって見える─そして本書はその答えを一つずつ照らし合わせる。そうするために私は、およそ百人のエースに、電話と対面の双方でインタビューを行った。私は惹かれとアイデンティティと愛について質問した。エースたちがくれた答えは、およそ単純なものではなかった。私自身の経験が単純だったことがないように、また、いかなる人の経験も単純ではないように。エースの考え方には、多くの新しい用語やニュアンスがある。何であれ誠実なものがそうであるように、それは雑然としたものでありうる。
 宗教的環境の中で育ち、その規則すべてに従いつつも、結局、セックスは見込まれてきたほど素晴らしいものではなかったと、結婚後に気づいた男性がいる。セックスへの欲望の欠如が深刻な病の症候であると確信したために、高校生のときに採血検査を頼んだ女性もいる。障害のあるエースは、障害とアセクシュアリティのいずれのコミュニティに溶け込むにも困難を覚える。どこからが障害でどこからがセクシュアリティの問題なのか、またその境界線を見つけることが問題となるべきなのか、思い悩んでいるのだ。有色のエースとジェンダー・ノンコンフォーミング【*1】のエースは、自分のアセクシュアリティがステレオタイプへの反発だろうかと自問する。友情と恋愛をいかに分けるべきか、セックスがそれらの不可欠な要素でないとしたら、みんなが思い悩む。恋愛関係を望まないエースは、特定のタイプのパートナーシップに過剰に焦点化した世界の中に、自分たちの居場所があるだろうかと思い悩む。また、恋愛関係を望むエースは、〔性的〕同意の実践によって自分たちの必要とするものがいかに取りこぼされるかを、指摘している。
 端的な答えがなくても、これらの語りは視座を転換させてくれる。おかげで、エースもエースでない人も含め、私たちみんなが自分のセクシュアリティとどのように関係するかということに、光が当たりうる。ほとんどの人は性的規範によって拘束されている。エースはさらにずっとそうで、時には排除されることになる。だからこそエースは、社会の規則を、外部者アウトサイダーの有利な視点から、外部者の見識をもって観察できる。エースは、しばしば隠されている、性に関する思い込みと性に関する筋書き─定義や感覚、行動について─に注意を向け、これらの規範がどのようにして私たちの生を矮小化してしまっているか問いただす。エースは、自然と思われるものよりも公正であるものを優先する、新しいレンズを開発してきたのだ。

・・・

 十四歳のとき私は、自分のセクシュアリティの経験が、雑誌記事で短く取り上げられるエースの経験には当てはまらない、ということしか知らなかった。自分がストレート【*2】の女性だと思っていたし、ほとんどすべての友人や大多数の人たちと同じだと考えていた。
 対照的に、本書のプロジェクトのために記事で読んだりインタビューしたりした多くのエースは、幼いときから違いに気づいていたという。多くのエースの語りは、ルシッド・ブラウンの語りと同じようなものだった。ルシッドは最近ボストンのエマーソン大学【*3】を卒業した視覚芸術のアーティストだ。「子どもの頃、母が「性についての話【*4】」をしようとしたことが三回あったんだけど、三回とも途中でサボっちゃった」と、ルシッドは言った(ルシッドは、私がインタビューした多くの人々と同じく、ノンバイナリーで、自分についてthey/themという代名詞を用いている【*5】)。
 ルシッドが私に語ってくれたところによると、中学生だったあるとき、二人のクラスメイトがキスするのを、みんなが木に隠れて見ていた。他のみんなは興奮してゾクゾクしていたが、ルシッドはただ困惑するばかりで、キスの魅力も、なぜみんなが関心を持つのかも、理解できずにいた。もちろん、思春期というものは指向にかかわらず、厄介なものだろう。けれどエースが抱く混乱は、セクシュアリティの舵取りをできないだけでなく、自分がセクシュアリティからまったく排除されたように感じること、そのうえ他者がそれに加わっているのを目のあたりにすることにも由来する。ゴシップは、キスや熱愛を中心に繰り広げられる。誰かと会話するとき、セックスは─誰がしそうで、誰がするかもしれなくて、誰がしたがっているのか─極めて重要な話題になる。たとえ誰も何もしていなくてもだ。そんなふうにみんなが新たにこぞってとりつかれている考えが理解不可能なものに思われることもある。他のみんなの脳がハイジャックされてしまったみたいだ。
 セックスの興奮についてのひそひそ話をどれほど頻繁に耳にしても、ルシッドはそれに加わりたくなかった。セックスするという考えと、セックスに関係するすべてのことに、嫌悪感をもよおし続けた(エースはそれぞれで、許容度もそれぞれだ。なお本書を通じて、私はセックスという語で、キスや愛撫から進んだ、パートナー間の性的営みを意味している)。
 性嫌悪のエースの多くは、セックスという観念におぼえる反発とは、むかつくほどの嫌悪であり、「ある人が獣姦にハマっているとストレートの人に言うかのような」ものだと言う。ルシッドの反発はさらにずっと強力だった。性的イメージやコメントに晒されることで、ウナギがのたくったり身をよじったりするかのように感じられる身体的反応が引き起こされる。ウナギはルシッドの身体の異なる部分に住んでいた。一匹ははらわたの中に、もう一匹は背骨に沿って。これらに引き続くのは、即発の闘争・逃走反応【*6】で、極めつけに、吐き気や過剰な心拍、その場で身体が硬直して動かなくなることが加わる。
 ルシッドの反応は予測可能なものでも直観的なものでもなかった。セックスについて話したら少しの反発が起き、テレビでセックス・シーンを見たらさらなる反発が起こる、と単純に説明がつくものではなかったのだ。セックスについての細部にわたった話し合いの方が裸体のイメージよりも深刻かもしれないが、なぜそうなのか述べるのは難しかった。そうした身体的反応は他の人にとっても目につくもので、こういったことすべてのせいで、ルシッドは特殊な趣のいじめの対象になった。クラスメイトたちはルシッドに性的なジョークを大声で浴びせてきて、「〔それは〕つまるところ、私の性嫌悪につけこんで、私を攻撃してきた」というわけだ。
 だから、自分がストレートでないのは明白だとルシッドは思った。多くのエースは、自分が同性愛者だと思い、後になって同性愛者・・・・が〔自分にとって〕正しい描写語かどうか思い悩む。他のエースは、アセクシュアル・・・・・・・【*7】という語を自力で見つけ、他の性的指向を見つめたうえで、これが残された唯一の選択肢だと推論する。ルシッドは「ノンセクシュアル」だと自認していた。『マウイ・ニュース』で同時配信された「ディア・アビー【*8】」のある読者投稿に出会うまでは。その記事ではニュー・イングランド在住の「エース」さんが、デート相手に自分の〔性的〕指向を明らかにする必要があるのはいつなのかと尋ねていた。アビーは、他の人にただちに告げる義務などないと答えた。さらに世の中のアセクシュアルの人は投稿者だけではないと付け加え、AVENについても言及していた。十三歳だったルシッドは、居間のテーブルからその新聞を拝借した。
 そのアセクシュアルという言葉一つで、完全に、即座に理解できる答えだった。ルシッドは明らかにアセクシュアルで、この経験を指すラベルの存在をそれまで知らなかったというわけだ。知っている人が少ないのは、みんながアローセクシュアル(もしくはアロー)であるとあまりに広く前提とされているからだ。アローセクシュアルという語は、性的惹かれを経験する人を指す用語だ。言い換えれば、アローセクシュアルとはエースでない人々のことである。
 「アセクシュアリティ・・・・・・・・・という語を見つけて、今まで私に起きたことについてまさにぴったりの説明だと思ったんだ」と、ルシッドは言う。「「セックスしなくてもいいんだよ」と聞いたのはそのときが初めてで、それは信じられないくらい解放的だった。だって子どものときには、これから起こるだろうあんな大きくて怖いもの〔性的なこと〕について、またそれをどのように欲するようになるかについて話を聞いていたからで、それはもうゾッとする、まったくもってゾッとするものだったから」
ルシッドは一呼吸置いた。「それは最初のステップみたいなもので、箱を開ける鍵だったけど、その箱にはさらに多くの他の、混乱させるような箱が入ってたんだ。アセクシュアリティはまさに一番明瞭なもので、それで自分のアイデンティティの複雑さを理解しやすくなった」。アセクシュアリティという言葉は、それまで手に入らなかった重要な知識へたどり着かせてくれたのだ。

・・・

 私は中学時代を、男子との熱愛について噂話するのに費やした。高校では、女子のクラスメイトと複雑でアンビバレントな関係に陥り、このことで初めて、自分はバイセクシュアルなのかなと思い悩み、そのあと、触ることも触られることも好きでないことから、私はやっぱりおそらくストレートなんだと決めつけることになった。大学時代を通しても、自分がエースかもしれないと疑う理由はほとんどなかった。私は神経質で、内気で、男性を好きになる傾向があるのかも、というくらいだった。
 私がアセクシュアルであるかもしれないという考えは、笑えるほどおかしく思えた。私はエイドリアン・ブロディは魅力的だけど、チャニング・テイタムはそうでもないと思っていて【*9】、また、俗っぽいユーモアに通じていた。私よりもお上品な友だちの顔を赤面させるぐらいの、セックスについてのジョークと意味深なほのめかし満載のユーモアだ。私は思い焦がれることについて話したし、性的なアバンチュールの話を熱心に聞いた。だから、私の友だちがいう欲望と、私のいう欲望の意味が異なるかもしれないなんて、思いもよらなかった。私の友だちにとって、「ホット【*10】」のような言葉は、ジェーンが描写していたタイプの生理的な牽引力を指しえた。私にとって「ホット」は、上質な骨格への賞賛を意味していた。私の友だちにとっての性的な出会いは、しばしばリビドーによって突き動かされていた。私は自分がリビドーを欠いていることすら知らなかったのだ。
 私は男性とのセックスについてちょっと興味があった。だって、すべてのものが─本もテレビも友だちも─それがすっごくよく感じられるものだと言っていたから。でも、私が本当、、に興味があったのは、欲されるってどんなもんなんだろうかということだった。心の底から欲されること、私の高校時代の元恋人については当てはまらなかった仕方で欲されること。それが私の思い焦がれの根本にあったものだった。
 そんなときに、ヘンリーだ。ヘンリーと私が出会ったのは、私たちが二十一歳のときだ。初めての会話の後、私は日記に「マジ心臓静まれ」って書いた。本当にそんな感じで、全部大文字で【*11】。そのときの会話はインターネット上でのもので、彼はテキサス、私はカリフォルニアにいた。メールとチャット、長時間の会話を重ねて、なんやかんやで私たちは恋に落ちた。
対面ではヘンリーと一年近くもの間、会っていなかっただろう。対面で会ってから数ヶ月後が、私が彼と顔を合わせる最後になるのだが、私たちの関係の余波は、私たちが実際に一緒に過ごした時間の長さをはるかに超えた未来にまで及ぶことになる。あの最初の会話から、本書冒頭のビルマ料理レストランでジェーンに尋ねた質問まで、一直線でたどることができる。ヘンリーはいつも、私が人生の中で「以前いぜん」と「以後アフター」を区割りする一つの仕方になるだろう─アセクシュアリティについて学んだからというだけではない。たしかに私がそれを学ぶはこびになったのは、私たちの関係のおかげだが、それだけではなくて、恋愛的な愛ロマンティックラブと、喪失によるつきまとうような痛みとを理解したからでもある。
 初恋はいつも、奇跡のように感じられる。遠く離れた誰かと、友情よりほかの何事も起こるまいと思って会った誰かと、恋に落ちたこと。一緒にいるために私たちの生活を調整する必要があったこと。私たちが心の中で感じたことが外的現実を変えたこと─こういったことすべてによって、この瞬間が、この人が、さらにもっと並外れたものに感じられる。私たちが心血を注いでいたということが、この関係を特別なものとして印象づけたし、私たちの計画の真剣さが、私たちの感情の真剣さのあかしになった。私たちの絆が空虚なものなどではなく、惚れ込み以上のものであるという証だ。この点で、私たちは間違っていなかったと、今でも私は確信している。どれほど耐えがたいぐらいに未熟であったかもしれないにせよ、あの気持ちはその中核において稀有で、しかもとても現実的なものだった。そんな思いは当時であれそれ以降であれ、何ら揺らいでいないのだ。
 テキサスとカリフォルニアはかなり離れているが、当時は大学四年生だったので、いずれにしてもみんなの生活がバラバラになることになっていた。私たち二人の決めたところでは、卒業後はニューヨークに移ることになっていた。私はジャーナリズムの仕事を得て、彼は大学院へ行く、と。しかし、ヘンリーはその地域のどの大学院にも受からなくて、南部にある学校に通うことを選び、五年間の長距離でのオープン・リレーションシップ【*12】を懇願してきた。
 私にはこういった取り決めをあしらう心の準備がなかった─私は〔ヘンリーを〕信用できなくて、心の弱さが気にかかるようになったので、自分自身の身に日記の中でこう書きつけた。「もう一点、覚えといてね。どういうわけでか、今まで本当に自分に起きたことのないことだけど。他の人に頼ってもいいんだ。妥協を請うていい。何かしなくちゃならないのはいつも自分ってわけじゃないよ」
 ノーと言うべきだったけど、私は彼を失うことを恐れていた。だから間違って、イエスと言った。

・・・

 大学院のために南部へ向かう前に、ヘンリーは夏の間、ニューヨークに来る手はずを取った。建前としては外国語の授業を取るため、でも実際は私といるためだ。対面では会ったことがないまま、私たちは一緒に住まいを見つけることにした。私たちが期待していたことと比べたら、一緒に過ごすことになる数ヶ月間は、すでに痛ましいほどに短く思えた。他に欲しいものは何もなかったから、お互いの家を行き来するなんておそらく時間の無駄だった。
 その夏は痛ましいものになったが、私たちが上手く行かなかったのには、多くの理由があった。セックスは理由の一つではなかった─厳密にはそうではなかった、ということだ。私たちの奇妙な交際期間は、他の多くの場面で問題を作り出したかもしれないが、私たちはお互いを美しいと思っていたし、私はヘンリーとセックスするのを楽しんだ。親密に感じられたし、他の人には知りえない経験を知れるようだった。セックスは私がつねに欲していた感情を与えてくれた。性的快楽ではなく、特別感というドキドキだ。
 セックスそれ自体が問題を引き起こしたのではない。セクシュアリティのある特定の側面についての私の恐れが、問題を引き起こしたのだ。その数ヶ月間、私たちは機能的にはモノガミー【*13】の関係だったが、五年間オープン・リレーションシップになるという見込みに私は恐れ戦いたし、ヘンリーが他の人とセックスしたがっているという事実は、飲み込みがたいものだった。誰か他の人と寝たらヘンリーはその人と恋に落ちるだろうと私は確信していたので、性的惹かれが─彼によってであれ、他の人によってであれ─話題になるたび、捨てられるという思いが浮かんで苦悶した。
 不確かな未来を強く恐れたことで、当時の私の平穏はすぐに曇っていった。私には強くなりたいという思いと逃げ去りたいという思いが同じくらいあって、それらが毒性のあるカクテルになり、私たちが一緒に過ごす時間を蝕んだ。自分でも誤りだとわかっていながらも止められないままそう振る舞ってしまうたび、何度も何度も、感情が制御不能のまま空転していくのを感じた。私がパニックになるのはつねに別れようとするときだったが、それほど彼に去られることを恐れていたのだ。終わりのない喧嘩の最中、私は手を振り回して多くのことを原因に挙げたが、その中には恐れ・・不安・・といった語は直接には含まれていなかった。恐れていると口にすることも、どれほど気を揉んでいるか認めることも、私にはできなかったのだ。
 ある日、仕事から帰る道すがら、花屋の前を通りかかって、気まぐれに、ヘンリーのためにと赤いカーネーションを買った。家に着き、彼にどこで花を手に入れたのか聞かれると、花を彼に贈ることが親切さと自発性の意思表示だと認めることになるのではないかと思って一杯一杯になった。私は、花は職場の人にもらったのだと、居間のテーブルに似合うと思ったのだと言った。

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 ヘンリーはついに業を煮やして、当然だが、私と別れた。秋のことだった。彼はいなくなったが、私は心の中で、私たちが重ねた終わりない会話を延々と巡らせていた。なぜオープン・リレーションシップが必要かということについての会話だ。ヘンリーが言っていたな、男だったらいつもぶらつきたくなるもので、それが自然だからだ、って。モノガミーに固執するのは時代遅れだ、って。モノガミーへの欲望なんて私が本当に、もう少しだけでも真剣に努力したら打ち負かせるはずだ、って。
 ヘンリーの言い分は、いちゃつくことやセックス、恋愛に関するあらゆることについて、新しい、腹の底からの恐れを生み出した。私のルームメイトが『スキャンダル』の過去のシーズン【*14】を見始めると、私は主人公たちが仄暗い廊下でキスするのを一瞥するだけで、自分の部屋に鍵をかけて閉じこもるようになった。誰かがデートの際に私をハグしようものなら、直ちに退いた。見知らぬ人に触れられるのは元々まったく好きではなかったが、私は陰湿で冷笑的になってしまい、今やそれを積極的に恐れていた。ヘンリーがいないのをすごく寂しく思っていて、今や、すべての関係は裏切りで終わるか、相手がはめられたように感じて終わるのだと信じていた。
 ある晩、ヘンリーを最後に目にしてから二年ほど経ってのことだが、私は友人のトーマスに、いかにすべてがひどいかたちで終わったかを語ることになった。このときには、私はあの出来事を語り聞かせるのが板についていた。私はそれらに執着していて、ヘンリーについて知ることなしに私を理解できる人なんていないと確信していたし、私たちがなぜしくじったかを答えられるようにならなければ、自分自身を理解できないのだと確信していた─この問いは私にとって、ちゃんとわかっていたはずなのになぜあんな振る舞いをしてしまったのかという問いと同じものだった。この話をたくさんの人が聞いてくれたが、トーマスは私がなぜ心配するのか理解できなかったようだ。ヘンリーが誰か他の人に惹かれて私と別れるかもしれないと心配していたのはなぜなのか、と。
 「嫉妬するのはわかるよ」と、トーマスは言った。「でも、心配ってのはわからない。彼が自分をまったく制御できないって? 他の人に性的に惹かれるのは、みんなにあることでしょ」
 「知ってるし、それが怖いところなんだよ」と、私は言った。「みんなにあるはずのことで、だとしたら人はいつもこの欲望と戦っていて、実際に浮気しなくても浮気したがってるってことになるし。それって散々だと思う」
「まぁ、そうだね」と、彼は言った。「そんな感じ。でもさ、本当にそうってわけでもないかな。自分が付き合ってない誰かに性的に惹かれたことはあるでしょ。でもそれって単に惹かれたってだけ。身体的にね。そんなこといつも起きるし、それをやり過ごしてるわけ。ほとんどの人にとってそれは、扱えディールないような恐るべきことじゃない。そうなることもあるとは思うけどね。ほとんどいつだって、それは大したことビッグディールじゃない。みんな扱えるようになるんだ。わかるでしょ?」 
 わからなかった。彼が言ったことはすべて、お馴染みのことには思えなかった。「単に惹かれた」ってことを、身体的な衝動を、経験したことは一度もなかった─あるのはただ、身体的に表に出る感情的な欲望だ。私が誰かとセックスするのを望むのは、その人のために自分の生活を変えようとすでに準備できているときだけだったし、だからこそ、他の人とセックスしたいからって恐るべきことにはならないとヘンリーが主張したとき、彼を信じなかったのだ。誰もが他の誰かにいつも性的に惹かれるものだと彼が話したとき、私は、惹かれを自分が経験したようにしか理解できていなかった。それは感情的に強く欲しがること─本当のところ、それは愛だ─で、力強くて圧倒的なもので、もし私以外の誰かに差し向けられたら私たちの関係に災厄をもたらすはずのものだった。今からすると、理屈としておかしいし、信じられないほどナイーブなようにも思えるけど、しかし私にとっては、愛に向かう欲望とセックスに向かう欲望はつねに同一のもので、分かちがたく結ばれていた。セックスについて興味はあったが、ヘンリー以前にはどの人ともセックスをしたいと思ったことがなかったのだ。
 トーマスと話してみたことで、彼が当然のことと見なしていた言い分が、なぜ私にとっては青天の霹靂へきれきなのだろうか、と問うようになった。性的欲望について知らないこと以外にも知らないことがあるのではないだろうか、と思った。数ヶ月後、私はジェーンと昼食を取り、性的惹かれとはどんな感じか、彼女に聞いていた。私がその質問をしたのはそのときが初めてだったけど、それまでにもすでに、彼女の答えは私による世界の見方と整合しないのではないかと疑っていた。

・・・

 初めて「アセクシュアリティ」という語に出会ってから十年を経て、私はそのトピックに戻ってきた。私が誤解していたことが何なのか理解するためだ。性的惹かれと性行動とが同じではないこと、一方が他方を限定するわけでは必ずしもないことは、ずっと前から知っていた。一般的に言って、性行動は私たちの制御下にある一方、性的惹かれはそうではない、と知っていた。ゲイ男性やストレートの女性が女性とセックスをすることもあるということ、そのことが誰に惹かれるかに影響を与えはしないということ、それはつねに明らかだった。アセクシュアリティが性的惹かれの欠如である一方、セリバシー(celibacy)【*15】は性行動の欠如であると、私は知っていた。
 文献を読み進めるうちに、セックスを嫌悪することがなくとも性的惹かれの経験がないことはありうると、初めて理解した。それは、たとえばクラッカーのような食べ物を、身体的に渇望することも忌み嫌うこともなしに、大事な社会的儀礼の一部として食べるのを楽しむことがありうるのと、まさに同じだ。セックスを嫌悪することは性的惹かれの欠如を示す十分に明らかな目安だが、性的惹かれの欠如はまた、社会における行為遂行為【*16】によって、もしくは感情的理由からセックスを望む(そしてセックスする)ことによって隠されることもある─そして、異なるタイプの欲望がとても固く結びつけられているのだから、様々なより合わせを解いていくことは難しくなるかもしれない。「性的惹かれを感じたことのない人々は、性的惹かれがどんな感じか知らないし、自分たちがそれを感じたことがあるかどうか知ることは難しいかもしれない」と、エース研究者のアンドリュー・C・ヒンダーライターは、学術誌『性行動文庫(Archives of Sexual Behavior)』の編者にあてた二〇〇九年の書簡で書いている。まさにそれだ。
 アローが経験するようなセクシュアリティは、私にとっては完全に馴染みがなくて、このことに二十代半ばで気づいたことで、人生の大部分を捉え直した。他の人は思春期にスイッチがオンになるのに、私はまったくカチッとこなかった。この時期、ほとんどの人がマスターベーションを始めたり、性的な夢を見たり性的な空想にふけったり、接触と身体的なもの─髪のにおいとか目に入る剝き出しになった肩とか─に過敏になった。こういった発達がもう少し遅くに起こる人もいた。私と同様、そういったことが何一つ起こらないという人もいた。私は背が高くなり、不機嫌になりやすくなったりはしたが、ある日あたりを見回して〔他人の〕身体に注目し始めるといったことはなかったし、ましてやその身体を見て何かを欲するようになるといったことはなかった。十代の頃の私の熱愛は、強烈なものではあったが、人生の中でより幼い頃に抱いたものとほとんど変わらなかった。美的な惹かれと、人を賢いと思うことに基づいていたのだ。空想の中でさえ、熱愛は決して一線を越えなかった。私が好意を抱く誰かが、私のことをデートしたくなる相手だと言ってくれる、そんな一線以上には。
 アセクシュアリティのおかげで、高校のクラスメイトが妊娠したとき、なぜ私があんなに混乱したのか説明がついた。セックスをずっとしないでいるなんてすごくラク・・なことなのに、と私は思っていた。しないのが元々の状態で、本当に大変なのは何か別のことをすることなのに、と。彼女にそんなリスクを取るよういうるものは何だったのか、と。今になってみると、セックス しないことはそんなにラクではないとわかる。私たちの経験は根本的に異なっていたのだが、明白に異なっているがゆえにそれらを問いただすことになるほどではなかったのだ。
 アセクシュアルであることでそのようにして守られていたのだと、やっとわかるようになった。エースであることで私は、性的にうわの空になることから免れていた。自分自身や他者によるスラット・シェイミング【*17】からも、タチの悪い性的出会いやそもそも性的出会い一般からも、そして、自然消滅や混乱で終わるカジュアルな関係からも。また、私のアセクシュアリティが─というかむしろ、それについての私の誤解が─ヘンリーと私を傷つけたのだということもわかった。アセクシュアリティが私たちの上手く行かなかった原因だったわけでは決してなかった。それは、私の生活環境や未熟さのせいだったし、また、私たちの心配が巡り巡って増幅していたせいだ。ただ、エースであること、それを知らないでいたことは、恐れを膨らませたし、その恐れのせいで私たちは終わったのだ。セクシュアリティを自分事として経験することがなかったから、しかもその経験不足を知らずにいたから。大体こんな理由で私はおびえていた─セクシュアリティが何を意味するのか、それをやりくりするのがどんな感じか知らなかったのだ。私の知識に限界があったことで、私の経験で雁字搦めになったことで、私は影しかないところに怪物を見たのだ。

・・・

 ルシッドの語りは人々に受け入れられやすい。私の語りはそれほどでもない。ルシッドの性嫌悪─ウナギ、吐き気─は、アローの経験とかなり異なるので、人々はそれがアセクシュアリティのあるべき形だと考える。他方で私の経験は、性的な社会の中にいる、あまり性的でない人の典型と思われるかもしれない。普通から外れたものとか、別個のアイデンティティのラベルが必要なものとかではないだろう、と。多くのアローは、私の語りを馴染みのあるものだと感じても、アセクシュアルとは自認しない方がよいと思うかもしれない。それでは、なぜは、性的に意欲のないアローの女性だと自認することもできるのに、エースだと自認するのか?
 第一に、私の経験の大部分─意図せずセックスについて考えることは決してなく、ほぼ問題なく生涯にわたって性関係をなしで済ませるセリベートことができるという事実など─が、他のエースの経験と整合するからだ。アセクシュアリティについて学ぶことで、私は認識することによる衝撃を受けたし、そのことを尊重したかった。私はしっくりくる言葉を使うことについてはいつもうるさい方で、その言葉や経験を好んでいないときでさえそうなのだ。
 しかし、「アセクシュアル」という語が、ただ経験を表すだけで、その経験を読み取りやすくする手助けをしてくれた人たちに私を繋げてくれないとしたら、その語はそれだけでは無意味だろう。「アセクシュアリティ」はつねに、実践的目的を伴った政治的ラベルであり続けていて、私がエースと自認する、より重要な理由は、私にとってそれが有用なものであり続けているからだ。ヘンリーとの関係が終わってから、アセクシュアリティについて学ぶまで、私は自分自身と他者を理解するのに困難を覚えていた。恋愛とセックスに関して強くて複雑な感情を抱いていたが、それらを表現する言葉を欠いていたのだ。他のエースはわかってくれた。エースたちの存在と著作が、私自身と私の人生を理解する助けとなった。アセクシュアリティを受け入れる過程には多くの内的抵抗を伴ったけれども、アセクシュアリティは私の経験を意義深いかたちで明らかにしてくれた。世界の新しい見方を示してくれたのだ。
 世界はエースとアローの二項対立ではない。それはスペクトラムで、ルシッドのようにアローの側から遠い人もいれば、私のようにそれに近い人もいる。エースを「フツーの」人から完全にかけ離れた別個の集団として考えることにも、こぎれいなチェックリストをもってはじめてエースの一員になれるのだと考えることにも、興味はない。エースのアイデンティティを他の指向に比べてより高い水準の正当性に照らすことを、私は拒否する。すべてのアローセクシュアルは同じだとか、性的惹かれを毎秒経験しているだとか、誰も考えてない。アローセクシュアルの性的なステータスが、セックスを拒むたびに疑われるということはない。エースもまた、一枚岩ではない─そして、より流動的で包括的な定義が、エースとアローの分割線をぼやかし、より多くの人々がエースであると考えられるようにするのなら、それはいっそう、私たちが言うべきことに力を与えるだろう。
 本書はエースの経験を中心に据える本だ。今日こんにちのエースは、いかにセックスをするかにかかずらっていないが、反セックスだというわけでもない。私たちは、人々にセックスするのを止めろとも、それを楽しむのに罪悪感を覚えろとも請うていない。私たちは、私たち全員が自身の性について信じていることを疑うよう請うているだけであって、そうすることで、世界がみんなにとってよりよい、より自由な場になると約束する。本書を通じてエースである読者がお互いに出会えること、人に理解されたと感じられることを、私は願っている。エースでない読者もまた、自分たちの関わりを認識できるように、また、自らの混乱を解決する助けとなる概念と道具を得られるように、私は願っている。世界でどう生きるべきかをめぐる混乱であり、私たちはみな、まだその問いを解こうとしているところなのだ。 

*1 規範的なジェンダー表現、ジェンダー役割に沿わないジェンダーのありようを示す人々の総称。貧困層や有色のトランスジェンダー向けの法的サービスの支援団体として有名な、シルヴィア・リヴェラ・ロー・プロジェクトによる定義を参考に挙げておく。「『ジェンダー・ノンコンフォーミング』とは、出生時に割り当てられた女性もしくは男性の性に基づいてどのように行為すべきか、どのように見えるべきかといったことについての、他の人々の持つ考えやステレオタイプに従わない人々を指す。」(https://srlp.org/resources/fact-sheet-transgender-gender-nonconforming-youth-school/)
*2 単に「異性愛者」と訳されることがしばしばあるが、これがクィアの対義語であること、すなわち、広義の性的マイノリティの間で、規範的なジェンダー・セクシュアリティのあり方を指すために用いられてきたことを忘れるべきでない。
*3 エマーソン大学は芸術・芸能分野に秀でたリベラル・アーツ・カレッジ(研究特化型の総合大学と異なり、少人数教育、学部生への教養教育に力を入れる大学)。日本で活躍する卒業生には、タレントの関根麻里や政治家の辰巳孝太郎がいる。ボストンは、合衆国北東部のマサチューセッツ州にある、世界有数の学園都市。
*4 日常会話の表現では、「話」を意味する“talk”に、特定のものを指し示すために用いる定冠詞をつけて“the talk”とすることにより、「性(教育)についての話」を指すことがある。
*5 “they/them”は三人称複数を指す代名詞だが、近年(といってもかなり前からだが)では、女性もしくは男性として名指されることを望まない人々を指すときに用いられることがある。ただし、実はthey/themは、不特定の誰かを指すときの「意味上の単数」を表すために、ジェフリー・チョーサーの時代からまったく問題なく用いられてきたということも、指摘しておきたい。すなわち、近年になって無理やり英語表現が捻じ曲げられたというより、元々存在した英語表現を、性差別や性的マイノリティへの差別に抗う人々がより創造的に取り上げ、その利用可能性を押し広げてきたのである。ただし日本語では、そもそも三人称をジェンダー化して呼ばなくても、名前で言及したり「あの人、あちらの方」と述べたりすれば十分であることも多いので、この箇所を含めて、性を問わない三人称単数を殊更に訳すことはしない。
*6 生命への危機などの極度のストレスを感知した際に起こる身体的反応。動物やヒトが外敵に遭遇したときに瞬時に戦ったり逃げたりできるような現象。
*7 本書第二章でも言及されるように、英語圏において「アセクシュアル」という語が一つの性的指向及びそれを持つ人のアイデンティティを指す言葉として確立する前には、様々な用語が使われており、「ノンセクシュアル」もその一つであった。この語は現在も、「性的ではない」という形容詞として用いられている。また、少しややこしいこととして、日本ではいわゆるロマンティック・アセクシュアル(性的な惹かれを経験しない一方で、恋愛的に惹かれることはある人々)を指すのにこの語が現在でも使われている。
*8 合衆国を始めとした英語圏の多くでは、大手の新聞社の記事を、提携先の地元の新聞社が地元のニュースとともに同時に配信しており、一般の人は大手の新聞そのものではなく地元のそれを購読するというのが一般的である。「ディア・アビー」はいわゆるお悩み相談の欄で、回答者(筆名がアビゲイル・ヴァン・ビューレンなので、愛称がアビーとなっている)が親子二代にわたるほどの、人気ある長寿企画である。
*9 エイドリアン・ブロディもチャニング・テイタムも、合衆国の男性俳優。ブロディの代表作は映画『戦場のピアニスト』で、どちらかというと優男のイメージがある一方、テイタムは映画『マジック・マイク』で男性ストリッパーの役を演じ、二〇一二年には週刊誌『ピープル』にて「最もセクシーな男性」に選ばれるなど、筋肉質で性的魅力のある男性というイメージが強い。この箇所で対比的に、しかもテイタムの方が魅力的に見えないと言われているのには、このような一般的なイメージにもかかわらず、という含意があるだろう。なお、ここで「魅力的(attractive)」と訳した語は、「惹かれること(attraction)」と同じ由来の言葉であることも、念のため注意しておきたい。
*10 ホット(hot)は、物理的な温度の高さから転じて、体温を上げるほどに(性的に)興奮させるもの、または興奮しているもの自体を形容する言葉になりうる。したがって一般には「セクシー」と訳してしまってもよいが、この箇所だけでなく本書では、セクシーなもの、性的なものの内実が問題となっているわけだから、あえて外来語としてそのまま転記している。
*11 英語では通常、文頭の文字だけを大文字で書くが、警告文などでは特に、強調したい単語やフレーズを大文字にすることがある。人に見せることのない日記にすべて大文字で書いたというのは、それだけ感情がほとばしっていることを示唆しているのだろう。
*12 一対一の排他的関係を取らないパートナー関係。
*13 「一夫一婦(制)」「単婚(制)」と訳されてきた語であり、要するに排他的に一対一の親密な関係を指すものだが、ここでは必ずしも語り手(とそのパートナー)のジェンダーや実際の婚姻関係が問題となっているわけではないので、このように訳している。
*14 『スキャンダル』はホワイトハウスとその周辺を舞台にしたドラマ。好評のため、シーズン7まで制作された。危機管理会社の経営者として政治家の醜聞を処理する女性主人公オリヴィアと大統領フィッツジェラルドの関係は、オリッツというカップリング名があるほどの人気。
*15 celibacyならびにcelibateは「禁欲(的な)」という意味でしばしば宗教的含意をもって使われることの多い語だが、ここではこの最も普及した意味は語弊を招くだろう。というのも、「禁欲」という語は日本語ではとりわけ、あらかじめ存在している欲望を抑えるという意味だが、これは元からその欲望がないエースには当てはまらないからだ。AVENのトップページ(https://www.asexuality.org)にも、「性的活動を控えるという選択であるセリバシーと異なり、アセクシュアリティは私たちの存在の本質的部分である」と書かれている所以である。「性的関係を持たない」と訳すことのできる箇所もあるが、アセクシュアリティについて語る際のキーワードでもあるので拙訳ではカタカナ表記とする。
*16 言語哲学者のジョン・L・オースティンは、日常言語の分析にあたって、事実を記述する「事実確認的」発話と、たとえば、「私はこの船をクィーン・エリザベス号と名づける」といったように、発話において実際に行為を遂げる「行為遂行的」発話とを区別した。ただし、ここで著者の念頭にあるのはおそらく、そこから用語を拝借した(というより、オースティンの理論を脱構築的に批判した哲学者ジャック・デリダの議論に依拠した)ジュディス・バトラーのジェンダーに関する理論、すなわち、ジェンダー・パフォーマティヴィティ概念だろう。詳述は避けるが、バトラーは、ジェンダーが社会における強制的な反復を通じて遡及的に形成されるものであること、すなわち、社会的な儀礼を通じて実体化されてきたものであることを説いている。本書当該箇所の文脈に戻れば、性的に惹かれることやセックスを当たり前の〈よい〉ものとする言説や、結婚のようにセックスと恋愛を無分別に繋げることを要請する社会制度などの再生産によって、性的惹かれを持つことがあまりに自明視されるようになり、自身がそれを持っていないことにすら気づけなくなることもありうるということだろう。
*17 直訳すると「ふしだらな女を恥じいらせること」となるかもしれないが、とりわけ女性をその性的な(と勝手に想定される)行動ゆえに非難したり侮蔑したりすることを指す語であり、女性差別的な文化の一側面を指摘するものだ。

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