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男稼業も最終的には銭金の問題/町田康

【第25話】「海道一の親分」として明治初期に名をはせた侠客、清水次郎長。その養子であった禅僧・天田愚庵による名作『東海遊侠伝』が、町田版痛快コメディ(ときどきBL)として、現代に蘇る!! 月一回更新。
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 天保十三年六月。昔、清水で面倒を見た今天狗、寺津治助方に腰を落ち着けた次郎長はあっちの賭場に顔を出し、こっちの高市《たかまち》に出張っていき、するうちに寺津ではすっかり兄哥株、また、元は備前・岡山藩の侍で今は土地の博奕打になっている小川武一のところへ通って剣術を習ったから、もともと度胸があったところに腕もできるようになって、どこへ行っても、「兄哥、兄哥」で通る。
 また、治助のところには旅人も大勢やってくるからその旅人の口を通じて、「寺津の治助っつぁんところの次郎長ってのはいい男だな」「抱かれたい」といった評判が伝わって、大いに名前が売れた。
 生産能力も生産基盤も持たない、ただその威名・威勢だけで飯を喰っている、やくざにとってこの名前が売れる、というのはなにより大事なことで、出世前のやくざはなんとかして名前を売ろうとした。「あの野郎、近頃、売ってやがるな」というのは、その名前が多くの人に知られ始めた。メジャーデビューした、みたいな意味である。
 そういう意味では次郎長は順調にやくざデビューを果たしたというわけである。しかしなんでもそうだが、デビューするだけなら誰にだってできる。問題はデビューした後、どれだけ順調に活動を続けられるかで、いくら華々しくデビューしたところで、その後が続かなければ、早くも翌年には、「あー、そう言や、そんな奴、いたっけなあ」てなことになってしまう。
 そうならないためには、やくざだってなんだって、普段の地道な活動、たゆまぬ努力がなによりも大事なのである。

​ という訳で天保十四年六月の暑い日、次郎長は鶴吉という若い者を連れて渥美郡の堀切というところに向かっていた。鶴吉は言った。
「このところすっかり暑うござんすが、こんちはまた格別でござんすね」「あー、そりゃそうだが、こんなことで音を上げてちゃあ、やくざは務まらねぇ。黙って歩け」
「へぇ、すいやせん。けどなんだねぇ、そう言うとこがさすが兄哥ですね。惚れやすぜ。二の腕、触っていいですか」
「よせやい、暑苦しい」
「けどなんだね、今日はまた借金の取り立てだっつうから付いてきたが、なーに、相手は堅気の旦那じゃねぇか。俺たちが行ってちょいと脅かしゃあ、すぐに出すんだ。なにも兄哥が出張ってくるほどの事じゃねぇと思うんすがネー」
 と鶴吉が言うのを、「ま、そうもいくめぇ」と次郎長、軽くいなしてそれきり黙ると、いっそう早足で歩き始めた。
 と、ここがいま言う地道な努力であって、星、すなわち博奕場でのカネの遣り取りというのはやくざの本業のようなもので、ちょっと名前が売れたからといってこれを疎かにし、鶴吉やなんかに、「俺もおいおい忙しいから、おめぇ行って精算してこい」なんて言うようであれば出世は覚束ないと次郎長は考えていた。
 そもそも、やくざの収入源はカスリ則ち縄張りにしている賭場から上がる手数料収入であったが、これ以外に、自分自身が勝負をして得る収入というのもあった。だけども勝敗は時の運。勝つときもあれば負けるときもある。負けたらその負けた分を支払わなければならないのは悲しいことだが、じゃあ勝てばそれでよいか、というとそういう訳でもなく、勝った分を負けた奴から取り立てねばならない。
 ところがこれが意外に大変なことで、無い袖は振れない、と開き直られれば、そもそも博奕は違法行為なので公の力に頼ることもできず、かといって殴ったところで一文にもならず、星の取り立てなんていうのは本当に難しいのであった。
 というかそもそも次郎長が人を殺して清水にいられなくなったのも、この星の勘定を廻ってのいざこざで、やくざのトラブルのほとんどは、この星をめぐっての争い、であったのである。
 ゆえ、こういうことは疎かにしてはならず、きっちりとケジメをつけていかなければならない。次郎長はそのように考えていたのであった。
 しかも、今回の星は、やくざ同士のしょぼい貸し借りではなく、百八十両、今の金高に直せば、一八〇〇万円にもなろうかという大金であった。
 相手は渥美郡堀切の何左衛門という金持で、暇日、次郎長は次郎長が胴を取る賭場で、この何左衛門と一対一の勝負をして勝ったが、「いまは持ち合わせがない。後で届けるから少々待って呉れ」と言ったので、「よろしゅうござんす」とこれを承知したのである。
 ところがこの何左衛門が、いくら待ってもカネを届けてこない。それもそのはずでこの何左衛門、金持と灰吹きは溜まるほど汚い、なんて言うが、まったくその通りのけちん坊で、出すものは舌も出したくない、という男。百八十両という大金、おいそれと出すわけもなく、「まあ、取りに来たら、相手はやくざ。殴られて怪我をするのもつまらないから半金くらいは出そう。残りは後で払う、かなんか言って有耶無耶にして誤魔化しちまおう」なんて思っている。
 ところがそんなことは知らない次郎長、
「このままにしておくと為にならねぇ。わっしの名前にもかかわる」
 とこの日、鶴吉を連れて出て来たのであった。

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