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八尾ヶ嶽の栄光と挫折/町田康

【第49話】「海道一の親分」として明治初期に名をはせた侠客、清水次郎長。その養子であった禅僧・天田愚庵による名作『東海遊侠伝』が、町田版痛快コメディ(ときどきBL)として、現代に蘇る!! 月一回更新。
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 村で差別され、復讐心を抱き、江戸相撲で出世をして村人を見返してやる、と決意した福太郎は仙台公お抱えの繰武里の弟子になって八尾ヶ嶽宗七と言う名前をもらって天下の相撲取りとなった。
 八尾ヶ嶽はみるみる出世をした。というのは当たり前だ、四十八手を習う前から、まず体格で並の力士を圧倒していて、「よいしょっ」と立って、両の手をボーンと前に突きだしただけで相手は土俵の外に転げ落ちていく。あっと言う間に関取になって得意絶頂、肩で風を切って江戸の町をのし歩いていた。
 だが、そんな日々は長く続かなかった。
 確かに人気ももの凄く、どんなときも今、売り出しの八尾ヶ嶽を一目見ようと多くの見物が押しかけたが、福太郎は内心に途轍もない不安を抱えていた。というのは。
 江戸に来て半年。そうした日々が過ぎるうち、福太郎は、筋力の衰えを自覚し始めたのである。それは年齢による衰えであっただろうか。いやさ、違う。福太郎はまだそんな歳ではなかった。ではなになのか。そう。白い長羽織の男によって注入せられた魔薬の効果が次第に薄れてき始めたのである。
 全身に漲っていた巌のような筋肉。それによって八尾ヶ嶽はちょっと前までは相手を片手で捻ることができた。ところが今や、吩っ、と気合いを入れ、相手の撲裳を摑んだうえで、「よいしょっ」と力を込めて、ようやっと相手を転ばすようになっていたのである。
 それでも八尾ヶ嶽が勝つ度、群衆は喜び、口々に、
「やっぱり八尾ヶ嶽は強いなあ」
「よっ、日本一っ」
 など言い、そして、
「ヤオガッタケッ、ヤオガッタケッ」
 と観客席一体となった掛け声がいつまでもいつまで鳴り止まないのである。
 だがそんな中にもごく少数、具眼の士は居て、
「うーん。なんか身体に張りがない」
「動きがおかしい」
「心なしか背も少し低くなったような」
 など言いつつ首を捻っていた。
 はっきり言って図星であった。思うような相撲ができない八尾ヶ嶽は思い悩んだ末、入門以来、初めて真面目に稽古をするようになった。周囲の者はそれを見て、
「やはり地位が人を作るんだな。八尾ヶ嶽、大関も遠くないな」
 など言い称賛したが、いやいや、そうではなく、今の栄光を失いたくない八尾ヶ嶽が焦って悪あがきをしているに過ぎなかった。そして付け焼き刃のような稽古で筋力が戻ることはなく、八尾ヶ嶽はますます衰えていき、或る日、八尾ヶ嶽は角牴になって以来、初めての負けを喫した。
 その日以来、八尾ヶ嶽は急速にやる気を失い、憂さ晴らしに酒を飲み、また、賭場に出入りをするようになった。そうするとますます負けが込む。そうするとこれまで応援していた分、期待を裏切られて腹を立てた群衆は、
「なんなんだよ、八尾ヶ嶽はよ」
「やる気あんのかよ」
「吉原ばっかり行ってっからだよ」
 と八尾ヶ嶽を罵倒するようになり、周囲の者も、
「天狗になっている」
「そもそもあいつに大関は無理だ」
「才能がない」
「頭が悪い」
「顔が悪い」
 などと批評し始め、それらに腹を立てた八尾ヶ嶽はますます博奕にのめり込み、ついに借金で首が回らなくなり、江戸にいられなくなった。その頃には図体ばかりでかい並の相撲取りに落ちぶれていた。それでも田舎に行けば江戸で人気の八尾ヶ嶽という名前で客は来たし、江戸の客ほど見巧者ではないので、名前と身体の大きさだけで、それなりの給金は貰えた。
 だがそれも直に博奕ですってしまい、ついに撲裳まで形にとられそうなところ、次郞長に出会った、とこういう経緯であったのである。つまり。

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